陰謀の密告者

文字数 2,784文字

 この泊瀬部天皇と迦摩多の密会であるが、実は誰にも知られなかったと云う訳ではなかった。丁度その日、その隣の部屋で泊瀬部天皇の動向を探っていた東漢駒が、偶然にも、この二人の会話を耳にしていたのである。

 そして、その数刻後、大伴小手子の従者と名乗る者が、人目を忍びながら蘇我馬子宿禰の邸宅を訪れていた。馬子宿禰はと云うと、何の疑いも持たずこの従者に会っている。
「これは、これは。嬪様のお使い、ご苦労にございますな」
 それに対し、従者の方は小手子の使いらしく慇懃に礼を返した。馬子宿禰はそれを気に掛けることもなく、使いの内容を問うた。
「して、小手子様には、我に如何なるご用件かな?」
 ここで従者は、いかにも内密な話があるかの様に、馬子の耳元に近づいて行き、小声でこう呟いた。
「お人払いを願います」
 馬子宿禰が手で家人に下がるように合図し、蘇我の家臣が姿を隠すと、従者はそのまま馬子の耳元で、密使であるかの如くに言伝てを囁き伝えている。
「大王が、人に知られぬ様に、多くの武器を内裏に集められていられます」
「筑紫に軍を派兵している今、何故(なにゆえ)、武器を集められておるのであろうか?」
「月の四日、猪を奉る者が居り、それを指さし大王は、『猪の頸を斬るように、いつの日か自分が憎いと思うところの人を斬りたいものだ』と申されていたそうにございます」
 従者は、泊瀬部天皇が蘇我馬子を誅殺しようと企んでいると伝えたかった。だが、馬子宿禰にはどうもイメージが湧かないらしく、怪訝そうな表情で首を捻ったままであった。そこで彼は、より具体的な説明を馬子にしたのである。
「大王には、心の奥に憎いと思うものが居り、その者を滅ぼそうとして居るのでございます」
 そこでやっと馬子も、天皇が恐ろしいことを計画していると云うことが理解できた。だが、彼がイメージしたものは、従者が伝えようとしていたストーリーとは少々異なった物だったのである。
「そうか……、大王は厩戸皇子を憎いと考えていらしたのか」
 彼が思ったのは、泊瀬部天皇が厩戸皇子を疎ましいと思い、皇子を討とうとしていると云うものであった。馬子宿禰は、倉梯宮での訴人の一件以来、「大王が厩戸皇子を疎ましいと思っているのではないか」と、朧気ながら、それに勘付いていたのだ。

 さて、その様な陰謀が渦巻く中、厩戸皇子はと云うと、相変わらず上宮屋敷に籠って仏典の研究に勤しんでいた。そして、その直ぐ脇には、未だ陽も高いと云うのに、彼の友人である智仙娘が、無言のままに佇んでいたのである。
 別に用事がある訳でも、厩戸皇子を警固している訳でもなかった。ただ智仙娘は一人でいることが寂しかっただけなのだ。これ迄、智仙娘は一人が寂しいなどと思ったことは一度としてない。彼女にしても、この様な自分の変化は不思議で仕方がなかったのである。
 厩戸皇子としても、智仙娘がいることには何の不満も無かった。彼女は自分から話し掛けることがなく、勉強を邪魔をされることなど決して無かったのだ。寧ろ、彼は智仙娘がいることで、安心して仏典に集中することが出来ると思っていた程だった。
 そんな厩戸皇子の元に、家人が来客の知らせを告げて来た。
「皇子様、蘇我摩理勢様が、火急のご要件との事でお見えになって居られます」
 それを聞いた智仙娘は、厩戸皇子に目配せをする。
「分かった。ここに通してくれ」
 厩戸皇子の返事を受けて家人が下がると、智仙娘は「床下で聞いている」と、床板を跳ね上げ、隠し穴から床下へと姿を隠す。すると、そのタイミングを待っていたかの様に、蘇我摩理勢が厩戸皇子の部屋へと大きな足音と共に入ってきた。
「蘇我の兄上、火急の用向きとは、如何なることにございましょうや?」
(いや)、火急と云う程ではないかも知れぬし、単なる根も葉も無い噂話かとも思われるのであるが……」
 蘇我摩理勢自身、この様な話を伝えて良いものか迷いがあった。この為、彼の口振りは何時になく歯切れが悪い。
「馬子の兄上が聞いたところに由ると、大王が厩戸の命を奪わんと、討伐の兵を集めているとの話があるらしいのだ」
 蘇我摩理勢が苦渋の表情でそれを伝えたのだが、当事者の厩戸皇子は、きょとんとした表情を浮かべ、そして直ぐに大笑いを始めてしまっていた。
「蘇我の兄上、何の冗談ですか?」
「冗談ではない。兄者が、倉梯宮からの密告を聞いたのだ」
「密告者とは、どなたにございましょうや?」
「皇妃、大伴小手子様だそうだ……」
 厩戸皇子だけではない。こればかりは、警戒心の強い智仙娘ですら、どうにも信じがたいことだと思った。
 確かに、泊瀬部天皇が、厩戸皇子を殺したいと思うほど嫌っていることは、智仙娘も知り過ぎる程に良く知っている。だが、そうだとしても、これは余りにも辻褄が合わな過ぎる。
 先ず、天皇が態々(わざわざ)厩戸皇子討伐の為に、兵を集める必要がない。実行する意志のある豪族に、厩戸皇子討伐の詔を出して、高みの見物をすれば良いだけのことである。
 それに、天皇自身が厩戸皇子討伐の兵を挙げるのだとしても、新羅討伐の兵を筑紫に送っている今は、余りに時期が悪い。協力を依頼できる大伴などの豪族は皆、全て出払っているのだ。そして残っているのは、厩戸皇子派の代表とも云うべき蘇我馬子大臣だけなのである。これでは逆に、天皇の方を蘇我に討ってくれと言わんばかりではないか?
 抑々(そもそも)、大伴小手子が馬子大臣に、その様な密告をすること自体意味が通らない。万が一、密告するにしても、相手は蘇我の者ではなく、狙われている当人の厩戸皇子か、実家の豪族である大伴氏にするのが自然と云うものである。ま、この点については、馬子大臣が勝手に勘違いしただけの事ではあったが……。
 厩戸皇子の笑いを聞いて、蘇我摩理勢も「矢張り何かの間違いであろう」と思い直した。そして、苦笑いを浮かべながら、厩戸皇子に一応の注意を述べる。
「笑い事であるかも知れぬが、用心を怠らぬ方が良かろう。その様な噂を聞きつけて、詔があると勝手な判断をし、其方を狙う(やから)が無いとも限らないからな」
「分かりました、用心致します。ありがとうございます、蘇我の兄上」
「うむ……。今頃、兄上が皇宮に出仕し、厩戸討伐を考え直す様、大王に願い出ているに違いない。さすれば、大王から『何を寝惚けた事を言って居る』と諭され、直ぐに頭を掻きながら帰って来ることであろう。これで話は仕舞いだ」
 そう言うと、慌てて上宮屋敷に訪れた自分が少々恥ずかしくなったのか、厩戸皇子が「今暫く良いではないですか?」と止めるのも聞かず、蘇我摩理勢は踵を返し、さっさと帰路についてしまったのである。

 智仙娘はと云うと、それでも万が一を考え、倉梯宮に天皇と小手子の動静を確認しに行こうと考えていた。だが、厩戸皇子の危機は、既に上宮の直ぐ近くまでやって来ていたのである。
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