大伴細人

文字数 3,413文字

 厩戸皇子は兵士の群れを外れ、夏草の茂った藪の中へと入って行った。彼の庇護者である蘇我馬子に倣い、自分も戦勝を祈願しようと考えたのである。
 その時、彼の後ろから子供の様な甲高い声が聞こえてきた。彼が振り向いて見ると、其処にはみすぼらしい(なり)をした泥だらけの少年が立っている。少年は地獄の亡者の様に痩せていて、手足は骨と皮だけの細さしかない。
「その様なことをしても無駄だ。この戦、お前たちの負けだ」
「何故そう思う?」
「勢いが違う。お前たちは数だけは多い、だが勢いがない」
 自分たちが負けると言われたのだが、厩戸皇子(うまやどのみこ)は怒る気になれなかった。確かに彼が見ても自軍の戦意は相手の物部軍に比べて著しく低い。その理由も彼には分かっていた。蘇我馬子は、傍若無人な物部守屋(もののべのもりや)に対する反感を利用して、諸皇子や群臣を手なづけて味方に付けた。だが、この戦、一族郎党すべてが滅ぼされるのではと云う危機感を持って必死に戦っている物部軍と違い、馬子が手なずけた多くの豪族は、さほど守屋打倒を願っていた訳でなかったのである。
 実際、稲積の砦を造り、榎の木に自ら登って矢を射かけてくる守屋は将に鬼神の如くであり、その男に樹上から睨まれている物部軍は雑兵ですら命賭けで闘わらず得なかった。一方、馬子の方は自軍の奥深くにあって戦場を見渡すことも叶わず、蘇我の兵士たちは命を賭して敵の矢の雨の下に飛びこもうとなど、誰一人考えもしなかったのだ。それ以上に酷いのが豪族とその兵士たちであった。彼らは、戦後、戦に負けた時のことを考えて、守屋に助命を図らんと、態と戦果を挙げまいとしている節すらあった。その様な状態なのだ。いくら信心深い馬子が仏に祈った所で、万に一つも蘇我軍が勝つ見込みがあろう筈がなかったのである。
「どうだ、私がお前たちを勝ちに導いてやろうではないか」
「その様なことが出来るのか? どうやってやると言うのだ?」
 少年は守屋の腰掛ける大榎の木を指差して答えた。
「物部守屋を射殺せば良い。然すれば鉄壁を誇る守屋の一族も、算を乱し総崩れになって敗れることになるだろう」
「それは無理だ。守屋は高き木に登って居る。あの高さに矢は届かんし、縦しんば届いたとしても鎧を貫くことなど到底叶わん。奴を狙っている間に、狙った射手は逆に守屋の矢に射抜かれてしまうだろう」
 だが少年は、厩戸皇子の反論など想定済みとばかりに、満足そうな笑みを浮かべながら彼に説明を続けていく。
「あの守屋の守る木の脇に、其れより高い真竹の林があるだろう。其処に昇って守屋を射落してやれば良いのだ」
 確かに脇には真竹の林があり、その梢にまで登れば、守屋の位置よりも高くなり、其処からなら守屋を射る事も出来ないことはないだろう。だが……。
「誰があのように滑る竹に登って、手を放し弓矢が射れると言うのだ。それに守屋の位置より高い場所となれば、竹も細くなり前後左右に(しな)って登ることすら叶うものではない」
「私が登る。それなら文句はあるまい」
「その様な事、出来よう筈はない」
「出来るか出来ないか試してみても良いだろう? 褒美は守屋を射落した後で良い」
 それでも悩む厩戸皇子に対し、業を煮やしたのか少年は後ろを向き、「ならば仏にでも祈るのだな。じゃぁな」と言って立ち去ろうとする。厩戸皇子も、少年を信じることがどうしても出来ず、「仕方ない」と諦めかけた。
 だが、ふと「今少し彼と話をしたい」と考えた。ただそれだけだった。
「待て、褒美は戦に勝った後で良いのだな。ならば頼んでみようではないか。して、其方褒美に何を望むのだ?」
「守屋を斃し、この戦に勝った暁には、私をお前の『みめ』にしろ」
「はぁ? 何を申しておるのだ?」
「分からん奴だな。お前、厩戸皇子という皇子だろう? だから私をお前の(みめ)にしろと言っておるのだ」
「馬鹿言え。どうして男のお前を私の嬪になどできるものか!」
「私は女だ」
 向きになって怒る少年に、これまで散々に言い負かされてきた厩戸皇子は、今度はこちらが動かぬ証拠を見せ、「戯けたことを言うな」と、言い負かしてやろうと考えた。
 そこで彼はつかつかと少年の元に近づくと、彼の両襟を取り、臍が見える程に大きく開けたのである。其処には、肋の浮き出た痩せた身体に小豆ほどの乳首がついているだけで、女どころか、その年の男だとしてももう少し肉があるだろうという胸と、少し膨れた腹が見えるだけの貧弱な体があるだけだった。
「どうだ。やはり其方は男ではないか」
 厩戸皇子はそう言うと少し溜飲が下がった。が、その直後、激しい後悔も襲ってきた。
 少年は恥ずかしそうに泣きながら襟を直している。厩戸皇子は思った。
「自分を助けようと言ってくれた少年に、自分は何ということをしてしまったのであろうか? 彼が言った軽い冗談に、自分はこのような礼を欠いたことをする権利が、どこにあったと言うのだろうか?」と。
「許せ。其方を辱める心算ではなかったのだ……」
 少年は涙を堪えながら、厩戸皇子の方に向き目を合わせた。その眼は赤くなり、顔は涙で泥がまだらになっている。だが、少年は俯いているだけではなかった。彼はそこで袴を降ろし、袍を両手で持ってたくし上げたのだ。
 其処まで上げる必要はなかったのだろう。だが、顔を見られたくなかったのに違いない。裾で顔が隠れるところまで少年は袍の裾を上げている。そして厩戸皇子が見ると、其処には男であればあるべきものが無く、幼女の様な一本に縦すじが見られるだけなのであった。
「其方……、本当に女であったのか……」
 少年、否、少女は黙ってこくんと頷いた。
 だが、女だと云うことが冗談でないとすると別の問題が持ち上がってくる。彼は天皇、橘豊日の子に当たる。穴穂部皇子の亡き今、次期天皇が誰になるかは分からないが、簡単にどこの誰とも分からぬ娘を嬪とすることなど彼に約束することが出来はしないのだ。
 しかし、そうは言っても、この娘もそれ相当に覚悟をしてここに参ったに違いない。自ら女陰を見せることまでしたのだ、嬪には出来ぬなどと言われたら、この娘は恐らくもう生きてなどいられないだろう。
 確かに、この少女はみすぼらしく美しくはない。女性的なふくよかさは全く無く、さながら地獄の餓鬼の様だし、団栗の様な目は大きすぎ、鵺という物の怪の様である。顔は泥だらけで、男ものの服装は安手の物であろうことは間違いない。だが、何となく厩戸皇子はこの少女に惹かれる所もあった。
 それに、この儘では恐らく蘇我、豪族連合軍は破れ、蘇我の血を色濃く継いでいる厩戸皇子は馬子ともども殺されることは間違いない。ならば、ここで約束せねば死ぬのであるし、約束したとしても少女が成功するとも限らない。であれば、皇族になろうという少女の夢を、態々ここで壊すこともあるまい。厩戸皇子はそう思うことにした。
「分かった。其方に頼もうか。其方との約定の印として、其処に生える白膠木で四天王の像を造り、仏に誓願を立てるとしよう。して、其方、名は何と云う?」
「大伴……の(むすめ)智仙娘(ちせんのいらつめ)……」
「其方、大伴の一族であったか」
 大伴氏は蘇我、物部が台頭する前に最大勢力を持った豪族で、大伴金村の代、半島での疑獄事件により今は勢力を失っている。この金村の失政を糾弾したのが守屋の父、物部尾輿である。少女の一連の行動にも、ただ大伴氏復興の望みだけでなく、物部氏への怨嗟の思いがあったのかも知れない。厩戸皇子はそう考えた。
 厩戸皇子がふと見ると、智仙娘はこれ迄の態度とは裏腹に、無言のまま、ただ下を向いて俯いている。自分が女であることが知れ、それも美しくないことを自覚しているだけに、あのような事を要求したことが酷く恥ずかしくて堪らないのであろう。だが、何故か厩戸皇子は少年かと思われた時の、すこし生意気な彼女に戻って貰いたいと考えていた。
「戦に勝利したとしても、其方を直ぐには嬪として迎えることは出来ぬ。それまでは今と同様に男の形をして、男として私の前に現れるが良い」
 少女は顔を上げ、雲間から陽が射す様に笑顔が弾けた。この時、二人は意を同じくする者となったのだろう。厩戸皇子はそれを見ただけで、守屋暗殺が上手く行かず、ここで命落とすとしても満足だと感じた。
「然れば、智仙娘と呼ぶのも拙かろう。其方は腕も足も枯れ枝の様に細い。これからは其方をサヒトと呼ぼう。細い人と書いてサヒトだ」
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