一人目の刺客

文字数 2,435文字

 東漢駒は館に戻ると、敢えてその日はそのまま休んだ。そして、翌朝になってから配下の者三名を呼びつけ、厩戸皇子暗殺を彼らに命じたのである。
 だが……、もし仮に、前日のうちに彼自身が直接上宮の屋敷に向かい、厩戸皇子暗殺を行っていたとしたら、どうなっていたのであろうか?
 それは誰にも分かりはしない。ただ、少なくとも、智仙娘には充分な準備をする余裕は持てなかったであろうし、厩戸皇子の暗殺を計画した東漢駒が、彼女の留守か、あるいは不意を衝けた事だけは間違いないだろう。
 一方、智仙娘の方はと云うと、小手子が東漢駒を呼びつけたと云う噂を耳にし、小手子と東漢駒が会っていた昨日のうちに倉梯宮を探り、それが事実であることを突き止めていた。
「小手子様、本気なのか?」
 智仙娘も、小手子が自分を殺そうとまでするとは流石に思えない。だが、厩戸皇子を暗殺するくらいのことは、彼女なら命じかねないことも知っている。勿論、ちょっとした脅しなのだろうが、狙われた方としては、万が一のことも考えねばならぬとも思う。
 こうして智仙娘は、念の為、昼は人の出入りが監視できるよう上宮の厩戸皇子の屋敷の近傍に隠れ、夜は闇に乗じて忍び込んでくる敵を討つため、厩戸皇子の部屋の床下へと(ひそ)み、昼夜を問わず彼を警護することにしたのである。

 夕闇迫る黄昏時、東漢駒の放った一人目の刺客は、百姓の姿に身を窶し、上宮の屋敷の前へと現れていた……。

「小父さん、この御屋敷に今時分、何の用だい?」
 この百姓に扮した刺客の後ろから、何者かが声を掛けてくる。彼が振り返ると、その声の主は汚い(なり)をした部民の少年であった。
 刺客は大事な仕事の前であり、子供の相手をするのは正直面倒だと感じていた。だが、今ここで騒ぎを起こす訳には行かない。そこで取りあえず彼は、人の良い農民を演じ、適当に(あしら)おうと考えたのである。
「ここの皇子様は、仏様の生まれ替わりだそうでな、一目見て、説話を聞かせて貰おうと思ってな。態々(わざわざ)棚田からここまで訪ねてきたんじゃよ……」
「ふ~ん、仏様の生まれ変わりねぇ……」
「そうじゃ」
「でも、説話を聴くのに、どうして懐に刀子を潜ませているんだい?」
 刺客は思わずぎくりとし、懐の小刀に手を当てた。だが、相手は子供である。ならば、簡単に言い(くる)められると考え、彼は口先で誤魔化すことにした。
「これはな、畑の周りの、伸びた草を刈る為のものじゃよ……」
「へ~、そうなんだ」
「そうだ、小僧。良い物を小僧にあげよう。欲しければ……、儂と一緒にそれ、あそこの(くさむら)の奥について来るのじゃ」
 刺客はそう言うと、屋敷の脇にある森の様に鬱蒼とした叢へと、少年の手を取って誘い込もうとする。少年も喜んで、手を引かれるままに、その刺客の後について行った。

 この刺客、仲間内では巧と呼ばれている男であった。彼も東漢一族の一人なのであるが、東漢駒の血縁と云う訳ではない。彼の父祖は、東漢駒の祖先である阿知使主(あちのおみ)と共に、倭政権に合流した職能集団として倭国に渡って来たうちの一人だったのである。そして、東漢氏と云うのは、この時に一緒に帰化した、この一団全員の氏でもあった。
 勿論、間諜が彼らの主な職能と云う訳ではない。恐らく彼らは、機織りか製陶などを生業とする技術集団であったのだろう。だが、他の大陸由来の知識も持っていた為か、東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたいこまろ)が外国使臣の接待役を承ったり、間諜などの軍事の面でも、倭国軍の一翼を担っていたりと、他の任務を仰せつかることも多かったのである。尚、後の時代に、蝦夷征討で名を知られる征夷大将軍、坂上田村麻呂は、この東漢氏の後裔にあたる。
 尚、巧と云うこの刺客は、平時は匠として生活の糧を得ていたのであるが、長である東漢駒の命により、臨時の暗殺者として、今回この仕事を請け負っていたのであった。

「ありがとう! 良い物って何かな……」
 しかし、叢の奥に入ると、優し気な東漢巧の表情は一変した。彼は恐ろしい形相となって、逃げられない様にと、少年の襟を左手で強く掴み、自らの懐へと右手を差し入れたのである。
「小父さん、何するんだよ! 良い物くれるんじゃなかったのかよう!」
 少年は逃げ出そうと藻掻くのだが、襟を掴んだ刺客の手の力は、少年よりも遥かに強く、振り(ほど)こうにも、簡単には振り(ほど)けなかった。
「馬鹿なガキだ。これが良い物だよ」
 刺客は小刀を取り出し、鞘を口に咥えて刀を抜き払う。
 東漢巧は面倒なことにはなったが、これで全て片が付くと思った。だが、刺客がその刀を少年の腹に突き立てようと、刀を持った右手を引いた時、少年は思いも依らない行動に出たのである。
 少年は、襟を掴んでいた刺客の左手首を、両手で握り、少し持ち上げてから、思いっきり左に捻りながら脇に抱え、刺客の左後ろへと回り込んだのだ。そして手首を捻った儘、彼の左腕の付け根に自分の全体重をかけて(もた)れ掛かり、東漢巧を地面に(うつぶ)せに組み伏せたのである。
 刺客はその時、やっとこれが罠だと云うことを悟った。少年の形をした者は、彼を倒す為に配備されていた敵方の兵だったのだ。だが、彼はこれ以上のことを考えることは出来なかった。
 少年は、俯せに倒された彼の上に、ひょいと馬乗りになり、何も言葉を口にすることもなく、自身の小刀を抜き払い、百姓に化けた刺客の心臓やら腎臓やらに、幾度となく、その刃を突き立てていたのである。

 この部民の少年、言うまでも無く智仙娘の変装であった。彼は百姓姿の者の身のこなしを怪しく思い、変装してこの者の正体を確かめようとしたのである。そして、この者が正真正銘、厩戸皇子暗殺の為に放たれた刺客であると知った時、彼女の殺意は爆発した。
「小手子様、厩戸の暗殺だけは、戯れでなかったのですね……」
 そう言うと、智仙娘は何事も無かったかのように血塗れの手を刺客の服で拭い、陽が暮れたこともあり、叢を後にし、上宮の屋敷の塀を越えて、彼の部屋の床下へと忍び込んでいったのであった。
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