第15話

文字数 3,862文字

 クリスマスまであと10日に迫ったこの日の朝、酷い生理痛に悩まされていた。目覚ましが鳴っても布団から起き上がれない。やがてけたたましいノック音が聞こえる。
「ヒナ、時間だよ。学校遅れるよ」
「うん、ちょっとだいぶお腹痛い」
 母親が部屋に入って来た。サッシのカーテンを遮蔽からレースに替える。まばゆい朝陽が差し込んで来る。
「コロナじゃないよね?」
 母親はそう言ってヒナの額に手を当てた。
「ううん、いつもの生理痛だよ。でも、学校はムリだ」
「いま熱はないわ。分かった。じゃ、寝てなさい。お母さんはパートに出掛けるよ。コロナ心配だから、換気のためにドア開けとくね」
 母は水と鎮痛剤を枕元に置いて、足早に玄関ドアを開けた。自転車の鍵をあける音がした。
 ああ、雪花ちゃんは心配してるだろうな。いつもの電車に来なくて。LINEで知らせようとするもののスマホは勉強机に載せてある。億劫で起き上がれない。そうこうしているうちに鎮痛剤が効いたのか、うとうとと寝入ってしまった。
 ヒナには心配事からの解放感もあった。心配事とは、講師との情事での妊娠。研究室には避妊具は置いていない。ヒナはひと月の間ずっと不安だった。今朝の生理が来て安堵が一気に押し寄せて来た。
 どれくらい経ったろうか。ヒナは女の子たちの笑い声で目覚めた。二人の同年配の女子が家の庭でクリスマスイルミの飾り付けをている。弟と妹は学校に行ったはず。一体誰だろう?
 やがて二人は、はしゃぎながら庭からヒナの部屋にあがって来た。ヒナは二人の顔を見て驚く。ひとりは電車で学校に向かったはずの雪花ちゃん、もうひとりはヒナが整形したい顔で持ち歩く写真の女子だ。同じ背格好。そう言えば似ているかもしれない。
 ふたりはベッドで寝ているヒナには気付かずに、しばらくサッシから庭を眺め何やら話しをしている。飾りつけたイルミの話しで盛り上がっているようだ。と、雪花ちゃんの背中には血の跡が滲んでいる。びっくりするほどの大量の血液だ。
「雪花ちゃん、たいへん、背中から血が出てるよ」 
 二人はヒナの声には気付かず、部屋から出て、廊下越しの母親の部屋に入って行った。
 え?誰なの?それとも夢?
 しばらく、ボォッとするヒナ。
 矢庭に起き上がる。やっぱり気になる。ヒナは厚手のフリースを羽織り、ふらつく脚で母の部屋に入る。

 母の部屋には秘密があった。
 箪笥の上には、ちっちゃな白い祠のようなものがある。ドールハウスのように見えて触りたかったが手を伸ばすと怒られた。やがてちっちゃな弟、妹も関心を示しだすと、忽然と姿を消した。
 たぶん押し入れか洋服ダンスの中に仕舞い込まれたのだ。一番小さな妹が中学校に入ると再び箪笥の上に出現した。そん時には、三人の子供たちにはどうでもよいものに替わっていた。
 それが祭壇であることを知ったのは大学に入ってから。偶然に、お猪口のような器を中に入れて母は掌を合わせていた。でもでも、一体誰を弔っているの? 不思議に思ったのは一時のことで、美容整形願望の中で、どうでもよい事柄に替わってゆく。
 ヒナは改めて箪笥の上の白い祠の前に立った。そん時に、また、さっきの二人の女子の姿が見えた。二人は微笑んで白い祠に消えた。
 ヒナは急いで閉じられている観音扉を開けた。
 そこにはちっちゃな黒漆塗りの位牌と赤ん坊の写真がふた組。位牌には、雪花、桃花と記してある。没年月日も一緒。同時に自分の誕生日でもあった。
 愕然とするヒナ。自分の名前はヒナ(喜花)。道理で似ていた訳だ。これはドッペルゲンガー、自己像幻視。昨今では、ドッペルゲンガードメインとしてフィッシングサイトやメールでその名が知られている。
 喜花(ヒナ)は、雪花の元に遊びに行くと告げた時の、面食らった母の表情を想い出す。あん時はパパ活での娘の不品行を疑っていた時期。なのにあっさりと自分の部屋に消えてしまった。たぶん、仏壇に居る自分の娘に遭いに行ったのだ。母にはきっと辛い過去に違いない。
 母親が帰宅したら、聞いてみよう、姉妹たちのことを。そして一緒に掌を合わせたい。喜花は素直にそう望んだ。

 誰も居ない家。リビングのソファーには飼い猫のミーがのんびりと寝そべっている。朝から何も喉を通していない。朝昼兼用の食事をと、卵と牛乳を冷蔵庫から取り出し、何気にテレビを付けた。
 そしたら、
 午前8時38分頃、宇都宮駅発の湘南新宿ライン特別快速が高崎市新町駅に停車したところ、高崎市〇在住の吉岡雪花さん19歳が何者かに鋭利な刃物で背後から背中を刺され、意識不明の重体のまま市立高崎〇病院に搬送され、救命措置中に死亡が確認され…死因は失血死とみられ…
 えっ? 画面の元に近寄り食入るように見つめる。
 アナウンサーは淡々と事実のみを告げる。
 …防犯カメラの映像から黒のスエット上下の小太りの男が刃物を持ったまま新町駅改札口から逃走を図ったものの、駅近の交番より駆け付けた警察官によって取り押さえられ、近くの〇警察署に殺人容疑で緊急逮捕連行されました。
 画面は、犯行直後を捉えたスマホの画面に切り替わる。たぶん乗客が撮ったものだ。車内の混乱ぶりがよく分かる。必死で団子状態になり犯人から身を避けている。
 次に、目撃者のインタビュー、30代のサラリーマン。
「はい、車内の中央付近です。停車した直後に、いきなり背後で女性の悲鳴が聞こえ、振り返ると大量の血を流した女性が床に倒れていました。悲鳴を上げた女性は座席に坐った状態で刺されたところを見たようで、その場で気を失っていました。その直後、犯人とおぼしき男が、どけっ!と大声を張り上げて、乗降口に向かいました。乗客は一斉に犯人を避けるように道を空けました」
 続いて、画面は〇警察署に切り替わる。ダウン姿の女性記者が木枯らしに激しく揺れる手元のメモを読み上げる。
 通勤時間、しかも人が込み合う電車内で、背後から女性を刃物で刺すという凶行に及んだ容疑者は姓名職業住所不定。弁護士が来てから話すと黙秘を続けています。ただ被害者との面識はないと供述しており、警察では慎重に動機の解明を図るとしております。現場からは以上です。
 画面はニュース画面から見慣れたコマーシャルに切り替わる。
 雪花ちゃんが死んだ。呆然と混乱する喜花。どうしてそんなことに。今日も車内には二人でいるはずだった。高崎駅から乗り込む喜花はいつも倉賀野駅で乗り込んでくる雪花を待つ。
 車両も決めてある。乗降口も。それなりに混んでいて座ることは出来ない。いつも二人並んで中ほどの吊皮につかまる。今朝、私は居ない。雪花ちゃんは乗車してから私を捜していたはず。
 現場の状況がリアルに判る。喜花は急いでスマホを手に取った。やはり雪花ちゃんから未読のLINEがあった。
「今日はお休みなの? 大丈夫?」
 時間は8時33分。まさに倉賀野駅と新町駅に電車が走っている時だった。普段のように私が乗っていれば状況は変わっただろうか。雪花ちゃんは死なずに済んだの? でも、混んでる車中で雪花ちゃんだけが被害に遭っている。
 それに犯人は面識がないと言っている。何かもめ事でもあったの?インタビューを受けた男性はそのようなことは言ってなかった。
 その時、別のLINEに気付いた。これは雪花ちゃんのものより3分あとだった。例の教授からだ。講師におびき出すよう頼まれてからは会っていない。いつものお誘いにしては時間が当校時刻、変だ。しかも何か嫌な予感がした。
 LINEには割と長文なメッセージと添付写真が1枚あった。
「いよいよ地獄からのお迎えが来たようだ。
 私は数学者で、ある問題を解くのに必死だった。そして15年目にしてついに「悪魔の数式」を見つけ出した。問題は見事に解けた。しかしその晩に最愛の人(花恵)を亡くしてしまった。彼女は、私の人生に最後に残されて味方だった。数学研究室の同僚。写真はその女性だよ。八重歯にソバカス。そう、君と瓜二つ。
 緊急救命室の彼女が息を引き取ったストレッチャーの脇にそれは居た。私は科学者だ。神などは信じない。でも確かに大地に脚を付け、実在する者はこう告げた。
 人類に時(イエスの生誕)が産まれてから、私たち(天使)はずっとこの「悪魔の数式」が世に広まることを阻止して来た。君は数学者なら分かるはず。この数式にはV(デビル)が必ず纏わり付く。つまり悪しきものがこの世を覆ってしまう。隠すべきものなのだ。
  そして、この眷属の天使は、花恵の復活と「悪魔の数式」の秘匿との取引を申し出た。
 君の命に比べれば問題の解決など、比べものにならない。私は君を始めて見た時に嬉しかった。君の人生と重なることはないが、私は死ぬまで君を見ていられる。それだけで幸せだった。
 だけど天使は取引の時に意味深な発言をした。(ひとつの魂の復活はひとつの魂の消滅。足し引きゼロの算法)を意味するとね。天使はその時、敢えてお前の命とは言わなかった。ただ、この前、空き巣に「悪魔の数式」を盗まれてはじめて誰の命かが分かったよ。
 私はたぶん数式を盗んだ人物によって殺される。だって、邪魔者だからね。君にとっては私は、ただ気味の悪いオジイさんだっただろう。それでいい。死んでも哀しまずに済むからね。君には花恵の分までこの先幸せに生きてほしい」
 喜花は添付写真をまじまじと見つめた。まさに私だった。さっき見た、姉妹たちともよく似ていた。
 教授の文章を読んで、喜花の疑問は全て解決した。
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