第4話

文字数 3,279文字

 10世紀に亘るミレニアム懸賞問題「コラッツ予想」とは、
(ローター・コラッツ20世紀ドイツの数学者)
整数全体に対して、
①奇数ならば3倍して 1 を足す
②偶数ならば 2 で割る
①②を繰り返すと、いずれ必ず 1 になる。という一見中学生でも分かる課題のこと。
 例えば、
3 → 10 → 5 → 16 → 8 → 4 → 2 → 1 と7回のステップを辿り 1 に到達する

11 → 34 → 17 → 52 → 26 → 13 → 40 → 20 → 10 → 5 → 16 → 8 → 4 →2 → 1 と13回のステップを辿り1に到達する

 これを3n+1 問題とも呼びます。最新のスパコンの演算の結果、ほぼnの数値が何であれ、最終的には 1 に帰結することが分かっています。
 この予想を覆すには、1 に帰結しない「反例」を挙げるか、そもそも n に値しない数を提示するしかありません。
 整数とは正の正数と負の整数と 0 のこと。0 → 0 もひとつのステップと考えると、整数全体にこの法則が当てはまります。
 こんな簡単な予想問題に人類は80年を擁しても未だ解決出来ていません。なぜそんなに血眼になるのか? それは宇宙の理(森羅万象)に関わる問題だから。ビッグバンに始まる拡張する宇宙理論。
 例えば星の誕生、星雲の成り立ち、ブラックホールの誕生、超新星爆発による星々の死。それらの諸現象をnとすれば、最後には 1 に帰結する。つまりビッグバンに戻ると推論出来るのです。また、自明な数字 0 との関係も疑われます。ビッグバンは果たして 1 なのか 0 なのか?

 このミレニアム問題のひとつを2003年に解決した数学者が居ます。彼の名前はグリゴリー・ペレルマン。
 解決された問題は「ポアンカレ予想(アンリ・ポアンカレ/19世紀フランスの数学者)」と呼ばれます。机の上に一本の紐で輪っかを作り両端を絞ればやがて輪っかは解消、消滅しますよね。 それを私たちの暮らしの三次元に当てはめるものです。
 なんだ簡単じゃない、手元で輪っかを作って紐を引っ張ってもダメですよ(笑) 三次元を表すチューブや球体、さらには棘だらけの空間、穴だらけのいびつな空間など、どんな三次元空間にも当てはまらなくてはなりません。
 しかもグルグル巻きごちゃごちゃ巻きにしても最終的には解消して、一本の紐にならないとダメです。
 彼はこの証明の後、数学・物理学界から姿を消してしまいました。数学でのノーベル賞に当る「フィールズ賞」も辞退。100万ドルの懸賞金さえも受け取っていません。一部では精神に支障をきたしたとする説も。彼は今も妹夫妻が暮らすスウェーデンでひっそりと暮らしているとされています。
 この証明はとても意義深いものです。仏教の因と果にもつながります。どんなに物事(精神的な問題も含む)が複雑に絡まろうと振りほどけば結局は一本の線(因果)に帰結することを証明したのです。

 正孝にはペレルマンの気持ちがよく理解出来た。証明のために人生の日常を全て捧げる。人生に用意された大切なものは畢竟、排除される。家族、親族内での祝い事。親しい友人たちとの団欒。
 頭の中は数式で溢れかえる。子供の頃によく電信柱に頭をぶつけた。その再来が起こり出す。ちょっとした段差につまずく。側溝に足を滑らす。人ともぶつかる。視覚的な情報が脳に伝わらない。その前に数字が立ちはだかる。数式で絡み合った堅固なウォールが要らぬ伝達信号をブロックしてしまう。
 40歳前に「ポアンカレ予想」を解決した彼は甘いとろける或いは輝き溢れる青春時代を知らないはず。自室に鍵をかけ家族の侵入を阻む。おそらくご家族にはまるで引き籠りに映る。食事も自室でひとり、無味な食物を口に放り込む。着衣は春夏秋冬、パジャマ姿のまま。
 問題は金だ。収入の途が絶たれる。数学の証明のため。そんな理屈は妻には分からない。夫が鬱を病んで急にひきこもりになった。その程度の理解だろうか。最初こそ夫の身を案じたが、底をつく財布に怯え始める。
 閉じられたドアの前で涙声で窮状を訴える。今から考えればこの時だけだ。あとにも先にも本田家の主(あるじ)に立ち還ったのは。ドアを開け、親から譲られた金の入った通帳とハンコを妻に差し出した。
 妻の安堵の表情。正孝は鮮明に覚えている。そん時から正孝は本田家ではどうでもいい存在に成り果てた。生理現象のトイレに行くと、「ははん、入ってる、入ってる(自分だけの世界に)」と子供たちから揶揄する偲び笑いが聴こえる。妻は全くの無関心。
 そして10年後、子供たちが独立すると離婚届けがドアの下の隙間から挿入された。今更、断る謂れもない。素直に印鑑をついてまたドア下から差し出す。1週間後には正孝は引っ越し業者に頼んで、部屋に在る書籍、文献書類、パソコンなどなどそっくりそのまま、アパートに移して貰う。
 かように夫婦の契り、家族の縁などは脆いもの。自分が壊しといてなんだが。ただ、こん時ばかりはペレルマンに嫉妬した。彼は独身だったから。余計なものは背負い込まなくて済んだ。

 そうそう、肝心の研究とはどのようなものか?
 予想の証明なのだからやり方はふたつに分かれる。正しいととことん信じて定理として証明する手法。懐疑的になって、反証を捜すことに血眼になる方法。80年の間には多数の数学者がこの二方法からアプローチして来た。
 ペレルマンの場合は、ポアンカレ予想を端から信じた。だから、正しさを証明しようとした。そして、諸先輩が提案していた「ブロックに分解して見る幾何学的思考」を発展させ見事証明に導いた。
 正孝は後者の方だ。絶対に 1 は在り得ないとした。それは紀元前5世紀に中国で産まれた老荘思想、またインド地方で育まれたバラモン教~釈迦の教え~ヒンズー教に伝えられた「アーユルヴェーダ」に近しい日本出身の数学者だからかもしれない。この二つの思想には無=0 が存在する。
 ユークリッド幾何学を信奉する西洋文明では 0 は在り得ない。だから常に 1 に導きだそうとする。最初は苦労した。日本での学問の基礎はユークリッド幾何学だ。そこから逸脱することは学識を問われかねない。
 けれど、ここに拘っては何時まで経っても反証は上げられないと踏んだ。何しろ80年かかっても成果は 0 なんだから。だから正孝は50歳代からは大きく方向性を転換させた。常識を外れた方面からのアプローチ。
 1 に到達しない(虚無数)を見つけ出す。老僧思想に傾倒し、仏教を学び、インド哲学に触れた。そこに数字はないのか? 残念ながら、思想に自然科学は入り込めない。思想を数字化は出来ない。
 インド哲学からのアプローチは堂々巡りを繰り返し頓挫しかけた処に、ひと筋の光芒が見えた。それは西洋魔術。「旧約新約聖書」に沿いながらも決して盲従することなく独自の路線を維持する。
 それは(魔術の実践)と云う形をとる。キリスト、イスラム教的な倫理観を排斥し己の理の中に生きよとする。これは「自灯明」を尊ぶ仏教、さらに絞れば「禅の教え」に通じる。
 この思想体系を形創った人々を「黄金の夜明け団」と呼ぶ。19世紀にイギリスではじまる。団員には哲学、神学、物理学、心理学、小説家、詩人などの識者が連なり、フリーメイソン(互いに高め合う秘密結社メンバー)に属する。

 彼らの理想は魔術の実践。天使、悪魔、その上に君臨する神と通じることを目指す。ユダヤ、キリスト、ムスリムの抱く神の世界と繋がらんと欲す。そのための道筋を科学的に探究する。
 その成果は「実践魔術講座」に暗号でまとめられた。団員以外に読み解かれぬように。識者たちは悪用、乱用を怖れた。悪魔の名を借りて世界を統治されては困るのだ。
 正孝はその暗号の解読に挑むことになる。悪魔、天使、神の世界は無 0 のはず。必ず、神に通じる数式が隠されている。これが「コラッツ予想」を解く最後の鍵となる。

 そして、とうとう見つけた。「悪魔の数式、数字」を。
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