第14話

文字数 2,130文字

 雄介は数学研究室のある建物から出て行くヒナを窓越しに見送った。
 名物の銀杏並木はすっかり豪奢な黄色のベールを脱ぎ、見事なタータンチェックの敷物を足元に敷きつめていた。

 「先生はあの日、教授の家に行きませんでしたよねぇ。次の日に教授から聞きました。誰も訪ねてなんか来ないって。そんな生徒のことも覚えがないって。また、その日、泥棒に入られたって言ってましたよ」
 そしてこうも言った。
「わたし利用されたんだ。教授の住所を盗み出して、教授をおびき出させて、その隙に何かを盗んだんだ…」
 ヒナの言葉が脳裏を駆け巡る。予期せぬことが起きていた。ヒナに勘繰られるとは、あんな子供に。難なくチェスの駒のように動かせると思っていた。
 しかも口から出た言葉は本当のことだった。今日の処は色恋沙汰ではぐらかしてものの、今後の脅威とはならないだろうか? 若い女子は素直で真っ直ぐな分、怖い。担当教授にも充分に注意されていた。
 とんとん
 また訪問者だ。ヒナが戻って来たのか? やはり世間に真実を告げると。緊張で腕が強張った。
「あれ、来ちゃった。いま大丈夫ですか?」
 現れたのは灯だった。そう言えば一度研究室のスパコンを見に来ればと誘ったのを忘れていた。「世紀の発見」への賛辞を貰ったお礼のつもりだった。その折には、正式に愛人として迎える約束をする予定だった。
「さっき、近くから電話したんですけど、出てもらえなくて。しばらくうろうろしてたんですけど、ご用がお済みだったようなので…」
 灯は皮肉たっぷりな物言いをした。普段の彼女からは想像も出来ない。愛欲とか嫉妬には無縁な印象を受けていた。そんな、たじろいだ雄介を知ってかしらずか続けた。
「いま出て行った女の子、相当切羽詰まった感じだった。衣服や化粧の乱れもお構いなし。一体、ここで何かあったんでしょうか?(笑)
 ダメですよお。素人の小娘相手に。それに女は強いんです。必ず手痛い仕返しをされますよ。子供だと侮らないように…」
 なんでこのタイミングで二人が重なるのか? 雄介は神様の偶然の悪戯を呪った。
 灯はいつになくよそよそしかった。まぁ、相手の痴情現場を目撃した後に冷静でいられる訳はないか。スパコンを見つめる眼にも感情が籠ってなかった。雄介は灯の腕を取り抱き寄せようとするが上手くかわされた。
「悪かった。彼女は学部の一年生。何も知らずに先輩たちと研究室にやって来て、妙に僕をジロジロ見つめるので、ついちょっかいを出した。他に何にもないよ。僕が君をここに呼んだのは、こんな機械を見せるだめではなく、君を僕のものにするため。世紀の発見で近く大金を手にする。それで今より広いマンションを君に買ってあげる。ちょ、ちょっと、待ってて」
 雄介は机の引き出しから指輪ケースを取り出す。雄介は必死だった。嘘偽りなく心情を吐露する。こんな場合にはこれが一番だと雄介にも判る。本当はドラマチックサプライズとして手渡す予定だったけど。
「これ、灯に。婚約指輪」
「あれ、ありがとう。嘘でも嬉しいわ」
 灯は薬指にリングをはめた左手を高く突き上げてみせた。でも瞳は笑ってはいなかった。

 その晩のこと、雄介はスポンサーの大手電子機器メーカーが接客に使う高級クラブに居た。ヒナや灯とはまでゆかなくても、そこそこの美人が脇に侍っている。けれど今夜は色恋どころではなかった。
 「世紀の証明」の事態が脅かされそうになっていた。灯の一言が耳から離れない。
 …それに女は強いんです。必ず手痛い仕返しをされますよ。小娘だと侮らないように。
 確かに彼女は真実に気付いている。教授の家から何かを盗み出した。何かまでは言わなかったが教授から聞かされているのかもしれない。二人が連絡を取り合うとまでは想像もしなかった。
 目下の処では、教授は沈黙を守っているし、ヒナの口は塞げている。ただ、どこまでこの状態を維持できるかは全くもって自信がない。女心と何とやらだ。また教授の方は機が熟してからの反論を狙っているやもしれない。
 雄介は「疑心暗鬼」の中にいる。
 数分後に顔馴染みのスポンサー企業の開発部部長がもう一人を伴ってやって来た。さし出された名刺には同社危機管理部長代理と記されていた。
 開発部長は同席の女子に退席を求めた。
「それで持ってきたか?」
 雄介は封筒を差し出す。中身は教授の住所と顔写真。それとヒナの住所と顔写真。ヒナのものは学生部の知り合いに頼み込んで学籍簿の入ったファイルを見せて貰い写真を撮った。
「それでどう…」 
 封筒を受け取る危機管理部長代理に雄介は睨まれた。
「多賀谷君、私たちに必要なのは『予想の証明』に疑いを差し挟む者が居なくなること、だよなぁ?」
 開発部長は低く重い声で粛然と言い放つ。そこには反論の余地すらなかった。教授宅への侵入を手助けして貰った時点で開発部長には弱みを握られている。もはや雄介と企業体は一蓮托生なのだ。
 次に送り込まれるのはこの前の半グレの窃盗屋ではなく(殺し屋)だろう。ひとり殺(や)っても死刑になることはまずない。20年いや無期でさえ、娑婆に残した家族の面倒を見てくれることだけを望む連中は多いのだ。
 この晩のVSOPは血の味がした。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み