第3話

文字数 3,040文字

ヒナと教授は3週間ぶりにいつものネカフェで落ち合う。
「p活は順調かな?」
 この日はペイペイに先払いで2万円を貰っていた。教授は服の上からヒナの左のオッパイに頬をつけた。こんなことは初めてだったけど、2万円のお返し。
「全然ダメ、目標の200万円にはほど遠い」
「美容整形だったね? 今のままでも充分可愛いのに」
「ダメ、バカにした奴らを見返す!」
 きっぱりとした声に教授は思わず顔をあげた。
「そう、援助したいけど、わたしも年金生活だからね。出来ることには限りがある。介護施設費用を残しておかなくちゃならない」
「あ、そう言う意味ではなくて、教授さんにはもう助けられていますよ」
 ヒナはこの日、薄手の長袖のブラウスに、キャミソール姿。下はスキニージーンスだった。なのでブラウスを脱いだ。豊かな乳房が覗けるように。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
 教授の眼は乳房に向けられている。
「教授さんは奥さんとかお子さんは?」
「もう30年前に、家内とは別れた。子供たちももう立派に家庭を持っている。わたしにはもう誰も近づかない、ハハ」
 教授はテーブルの飲み物を手に取った。
「だからお金の使い道がない。ヒナちゃんにお小遣いあげるぐらいしか…他にない」
「だったら、、」
「止してくれよ。婆さんなんかに興味はない。オトコっていうものはそういうもの。繁殖に子を成せる若々しい異性を捜す。人間をはじめ動物はそう動機づけられてるんだよ」
 教授は今日も哲学じみた人生を示唆する発言をした。
「ほら、もうすぐ5時だよ。家に帰らないとお母さんに怒られる」
 p活でパパの方から時間を知らされる。これって、アリ? でも、確かに時間が迫っていた。乗り越すとヤバい湘南新宿ラインの高崎行き。
 ヒナは素早くブラウスを羽織り薄暗いモグラの巣を後にする。

 教授こと、本田正孝はヒナと別れて駐車場にある軽ワゴンに滑り込む。脊柱管狭窄症からの間欠跛行によって100メートルとまともに歩けない。
 車もベンツから軽自動車に替えた。乗り込みやすいしシートポジションが高いので運転もしやすい。誰に見せる訳でもないベンツに乗ってても意味がない。
 正孝はここに来て生きる価値を完全に失いつつあった。目覚めても何もやることがない。無味乾燥な日々。出掛けるのは糧を買うスーパーのみ。高齢者の男性に多いそうだが社交的ではなく誰とも交わりたくない。
 家族はとうの昔に捨てた。端から家族を造るには向かない人間だった。この手の人は自分勝手、優柔不断と呼ばれる。好きなことにしか目が向かない。それで愛想を尽かされたとも言える。今となってはどうでもいいが。
 孫がいるらしい。でも興味がない。もはや高校生になったそうだ。孫ほど可愛いものはない、と唄にあるようだがそれは嘘だな。せいぜい関心が在るのは我が子のみ。それももう40のオヤジだよ。
 睡眠薬から目覚める朝はキツイ。起きたくても起きられない。いや、起きても仕方がないのでまだ寝る。その葛藤の毎朝。ようやく飼いネコに餌を催促されて起き出す。また、ゴミ収集車は9時きっかりに律義にやって来る。
 慌てて、パジャマ姿のままゴミをまとめ三階からゴミ捨て場に急ぐ。しかし腰が言うことを聞いてくれない。朝だし筋肉が充分にもみほぐされていない。片足を引きずって階段を下りる。
 近所の子供から、不審な動き方のジジイに冷たい眼が向けられる。そして、♪チャラ・リラ・ララ~ 収集車は無情にも過ぎ去る。
 朝昼兼用の食事を作る。ガスレンジは置いていない。カセットコンロのみ。大方は、チンで済む食材を選ぶ。食べたいものがあるわけではない。たとえ在っても独りで食して美味い筈がない。
 読書も飽きた。この歳になって教えられることなどない。かえって底の浅い薄っぺらな思考にうんざりしてしまう。レンタルの映画もしかり。どこかで観た筋書きのものばかり。人気の脚本家さんも、おそらくは、企画会社にネタを頼ってるんだろう。どこか奇をてらう、中身が貧弱なものばかりが目立つ。
 さらには、流行ってたアニメマンガ。鬼を退治するマンガ。鬼とは人間の醜き心を具象化したもの。それと闘ってどうする? 受け入れるべきものだよ。
 ただ、ぼおっと、昼寝三昧のネコの隣で一日を過ごす。時折、輝いていた青春時代のことを思い浮かべる。あの頃は、毎朝目覚めるとそれだけで楽しかった。ウキウキした。何も考えずに行動できた。スポーツに打ち込み、恋をした。
 恋愛を想うと、あの時なぜ手を握らなかったのか、抱きしめなかったのか、セックスしなかったのか、とそんな後悔ばかり。でも次にはすっかりお祖母ちゃんになったお相手を想像し、興ざめする。
 夜は、真冬でもシャワーのみ、サッと上がって他にやることもなく眠剤を飲んで10時には寝る。ネコも一緒に布団に入る。

 そんな何処にでも居そうな世の中に飽いたジジイだが元の職業は数学者。40歳の若さで有名大学の教授になった新進気鋭の学者だった。ところが突如として界隈から姿を消した。学内にも研究室にも現れずに、職を辞した形となる。
 毎年の論文も不掲載を重ねた。つまり学会から除名されることを意味する。なぜか? それはただミレニアム懸賞問題のひとつ「コラッツ予想」を解くため。
 科学技術が進んだ現代にあっても人類には解けない難問が幾つかある。もちろん最大は宇宙の紀元、宇宙の構造、ブラックホール、はてまた死後の世界など。
 数学(物理学)にも未だ解けない難問がある。それをミレニアム懸賞問題と呼ぶ。なんでミレニアムか? それは1000年、10世紀をまたぐ問いだから。多くのチャレンジャーが挑み失敗を重ねた。

 懸賞金はもちろん、名誉栄誉が欲しい訳でもない。「山があるから登る」の理屈。正孝もこのミレニアム問題に憑りつかれたひとり。40歳前のある晩のこと何者かによって引き込まれた。その表現が相応しい。
 「超弦理論の数理的解明」が専門。なので懸賞問題のことは知ってはいたがそれほど関心があった訳ではなかった。なのに突如として関心の矛先が向かう。これは明らかに自分の意思とは違う何者かの仕業だろう。
 後に至って、当時のことを想うと、まさにこの言葉通りだ。中学生の時、誰もが認める容姿端麗な彼女が出来て初デートまでし有頂天の絶頂期に、何故か同じクラスの顔よりも頭脳明晰な彼女に恋してしまう。二兎を追う者は一兎をも得ず、の格言通りに、結局はどちらにも愛想を尽かされた。それと同じ。
 仕事も家族もそっちのけ。毎日ただひたすら難問のことだけを考える。結果大学での職を失い、家族も去って行った。収入は貯蓄と両親から譲られた財産のみ。時間が惜しいので、飲まず食わずの毎日が続く。遊ぶ時間などは思いもよらない。
 離婚にあたって、夫婦の財産の家は妻と子供に提供したので、必然とアパート暮らしとなる。ふらっと、子供の頃生まれ育った東京の下町・深川を訪ね、偶々見つけた不動産屋に依頼した。今すぐに住める適当な物件を。但し、静かな処、思索に相応しい場所。

 奨められたのが運河沿いの築40年ものの古ぼけたアパートの2階。まぁ、確かに8つある部屋には3人しか入居してなかった。場所は鶴岡八幡宮裏の境内林に隣接する住宅街。夏には蝉の大合唱はある。ただ自然の音に人間の耳は不快感を覚えない。思索にはもってこいの場所に思えた。
 それから20年間、課題に挑んだ。ただ、ひたすら、執着、執念、妄執を続けた。
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