第9話

文字数 3,072文字

 多賀谷雄介は二人ずれを偶然見かけてしまった。東京に木枯らし1号が吹いたその日のこと。明治道路沿いのネカフェに入ろうとしていた。
 この日は大学での講義を終え実家に帰る処を、吉岡灯からのLINEが入った。今から来れないかとある。これはマンションの主(あるじ)が留守で、一緒にひと晩を過ごしたいとのお誘い。乗らない理由はない。次の信号でUターンする。そして、100メートル走った信号待ちで見かけたのだ。

 ひとりは研究室に出入りする新人JD、そしてもうひとりに眼が釘付けになる。あれは伝説の数学者、本田正孝。彼は、低次元位相幾何学の一種、いわゆる「結び目理論」で70年代に彌永賞を受賞、80年代に日本版フィールズ賞と称させる春季賞の候補となるも辞退。その後、忽然と姿を消す。大学からも学会からもそして世間からも。
 噂ではミレニアム懸賞問題「コラッツ予想」に魅せられた為と言われる。それから15年後、一度だけ姿を現した。恩師の葬式に。誰もが驚き携帯カメラを向けた。その時の、変わり果てた姿を雄介は鮮明に記憶している。
 歳を経れば外見は替わる。だが、野放図な白髪頭と無精ひげに隠された顔には達観した知性が醸し出されていた。彼は数少ない友人との会話で「コラッツ予想」の解読をほのめかしたとされている。でもそれから10年以上経ても、論文は掲載されていない。
 友人だった数人の数学者は彼のことを「ポアンカレ予想」を解いたグレゴリー・ペルレマンに擬えて、「コラッツ予想」を解き終えたあとの虚無感の中にいる、と称している。
 ペルレマンは論文こそ発表したが、フィールズ賞も懸賞金も辞退し隠遁してしまった。本田正孝はペルレマンのさらに上をゆく。もはや、成果と呼べる論文さえも拒んでいる。
 雄介などにはとても理解がゆかない価値観だ。15年かけて丹精込めて熟成させたワインやブランデーを飲もうともせず、振舞おうともしない。なぜ? 盛大な論文発表パーティーを主催し、マスメディアを呼び寄せ、世界中の数学、物理学者をアッと謂わせることが出来るのに。名誉も栄誉も彼の手中にある。それなのに?
 雄介はプリウスをネカフェの駐車場に止めて、2人が出て来るのを待つことにした。再度確認したい。スマホに画像も収めたい。
 場所は薄暗いネットカフェ。それにあまりに歳の差のあるカップル。これはいま世間で話題のパパ活と言うヤツだ。六本木のクラブでたびたび見かける。あれの廉価版か。灯は1回1万円までだと言った。ただこれは茶飯ではないので、2万円くらいか? だとすればせいぜい1時間と踏んだ。店の看板には時間ごとの価格が表示されている。ツインルーム1時間1100円とある。
 ゆっくり男女の営みを楽しむならば普通ラブホに行く。シャワーや風呂、避妊具までも用意されている。なのに簡易なネカフェを選ぶのはセックスを望まない女性心理の裏返し。つまりお触り、その先の手や口でのヌキまでだ。しかもそんなに時間も掛けたくはない。Twitterのタグを見れば女子の心理はよく分かる。
 それにしても高名な数学者がパパ活とは? ♂族としては理解できるが、あまりのギャップに悩む。間違いなく本田正孝だとすれば60代後半。孫がちょうどあのJDの歳。倫理観はないのか?
 スマホでの検索では失踪するまでの経歴、業績のみ記されていて家族構成などはまったく分からない。ただ既婚者ではあったようだ。過去の授賞式に夫人を同行させていた。ただ、職を辞したってことは収入の途が絶たれることを意味する。
 家計を預かる奥方には許されざる蛮行。おまけに仕事に出掛けない。煩わしいご主人が毎日家に居ることになる。大抵の女属や子供たちには耐えられないだろう。収入なしの引き籠りではとっくに離婚を申し出されていてもおかしくはない。
 となると、人恋しさ故の所業か? 人生を賭して挑んだ世紀の難問を解き終えた彼には何も残ってはいないだろう。これは充分に予想できた。ペルレマンも「ポアンカレ予想」を解き終えたあとは、スウェーデンの片田舎に安息を求めて引っ込んでしまった。
 趣味は庭いじりとキノコ狩りだそうだ。なんでスウェーデンなのかの問いには、やはり数学者で唯一の気心の許せる妹、エレーナ・ペルレマンが居住していたから。けれど本田正孝は一人っ子と記載されている。現在、どうやって食っているのか? などと、つい余計なことまで考えてしまう。
 あ、出て来た。
 雄介は車内のウィンドウ越しに正孝をスマホで捉える。どうやら間違いはなさそうだ。やや頭髪は薄くなっているものの、面影は色濃く残っている。
 自分の方に向かって来るので焦った。つい、身をかがめる姿勢をとってしまう。考えてみれば彼には雄介などは見知らぬ存在。2台隣の軽自動車に乗り込んだ。そして程なくして駐車場をあとにする。JDの彼女は足早に最寄りの駅へ向かう。
 雄介のプリウスは吉岡灯のマンションに。携帯に電話すると、弾んだ声が還って来た。
「ゆうさん、逢いたかった。これから来られるの? 嬉しいわ。気が引けてこっちからは電話出来ないよ。だって授業中かもしんないし。周りには私より若いJDがたんさん…気が引ける」
 そんなことを口にする灯に無性に逢いたくなった。若いJDと言っても過保護、自己中、アピール好き、世間知らずで、世界とは自分中心にのみ在る。気配り気遣いが全くない。最高学府の大学生のくせに教養の欠片もない。
 それに比して灯は気配り上手。万事控えめで自分を前面に出すことはない。面映ゆい表情がなんとも愛おしく花のように微笑むことが出来る女子。高卒とは言うが社会の出来事に関心を持ち考察深い。世界情勢を話題にしてもついて来る。足して料理が上手。
 今夜も、何もない在り合わせと言いながら、旨味満点のマルゲリータパスタを用意してくれた。マンションの1階テナントの高級スーパーで、1本1万円近いシャンパンを例のクレカで買って来た。
 勢いよく栓を引き抜く。
 ポン!
 溢れ出る泡立つ透明な黄色の液体。灯の歓声が響く。
 その時、雄介の頭の中にはこれから成すべきことが泡のように沸々と浮かぶ。ほくそ笑む雄介。
「あれ、なにニヤニヤしてんの?」
「うん? スパがあまりに美味しいからだよ。美味しい食事に美人、申し分ないよ」
 灯が雄介の膝にまたがり含んだシャンパンを口移しする。甘美な舌が入り込んでくる。スカートが大きく捲れ上がり雪のように白い太腿が露(あらわ)になる。灯が耳の中に喘ぎ声を交えながら、そっと吐息を入れる。五感が痺れた。陶酔に酔いしれる。
「ねえ、わたしをゆうさんのものにしてくれる? もうこんな生活耐えられない」
 雄介は大きく頷きながら今宵も性欲の泥梨(ないり)へと絡めとられてゆく。
 翌朝、ベッドで目覚めると、灯はシャワーを浴びていた。浴室からアロマの佳い香りが漂ってくる。初冬の遅い太陽がようやくベランダに顔を覗かせる。今日は午後からパトロンである大手電子機器メーカーとの面談が控えていた。
 雄介は悦楽に酔いしれた重い身体をやっとベッドから起こし、水を飲むためにリビングのキッチンカウンターに移動した。冷蔵庫の上に無造作に、封を切った手紙が置かれていた。
 宛名には、吉岡桃花と記されていた。そして実家の住所も。群馬県高崎市〇とある。彼女の本名が分かった。灯の方が彼女には相応しい名だと感じた。たぶん自らも灯と呼ばれることを好んだのだ。
 雄介は冷えた炭酸水を一杯飲み、再び享楽へと彼女が待つ浴室に向かった。
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