奈落
文字数 3,191文字
「実験体18729の移植実験は終了。体内にて毒物の生成を確認。移植部位は正常に稼働しているようだ。実験体18729を覚醒させろ」
淡々とした声で白衣の男が告げ、検体の身体から麻酔が抜かれていく。
手術台に横たえられた少年は、目を覚ますと同時に産声に似た悲鳴を上げた。
「あ、がああああああああああああああああああ!!」
血管の中を針が走っている気分だ。全身が痛くて気が狂いそうになり、脳は焼けつきそうになるほどに熱い。肺がまともに機能せず、呼吸の仕方を忘れた犬のように喘ぐ。
その様子を見ても、少年の周りにいる白衣の男たちの反応は冷たいものだった。羽をもがれた昆虫が暴れるさまを、淡々と冷静に観察し、記憶にとり意見を交わす。
「検体が生成した毒物が、検体自身を破壊し始めたか。惜しいな。今回の実験には貴重な神話生物を使ったというのに……。無駄遣いをさせやがって、このクズが」
「今回も失敗か。猛毒系の神話生物の移植は難しいな。免疫を生成する機能も移植しているはずなのに、どうしても毒の生成の方が強くなって検体を殺してしまう。両者の均衡を保つことができれば、手術の成功率は上がるはずなのだが」
「そろそろこの実験も取りやめるべきだな。成功したところで、毒物が生成できるようになるだけでは割に合わん。毒物を扱わせたいなら、手持ちだけで十分だからな。元より実利より学術的興味の側面が強い実験だった。これ以上やる意味もあるまい」
冷徹な会話が交わされている間も、少年の苦しみは終わらない。いっそすぐに殺してほしいほどの激痛だったが、半端に生みだされる毒の抗体が少年の命を延命し、ゆっくりと真綿で首を絞めるように少年の命を奪っていく。
手術台の上で暴れまわる少年をわずらわしく思った白衣の一人が、少年の顎を掴んで不快な苦悶の叫びを力づくで止めた。
「うるさい検体だな。失敗作な上に、我々の会話を邪魔するとは不愉快極まる。人間というのは下等生物のくせに、無駄にしぶとくていやになるな。実験はもう失敗したとわかったのだから、とっとと死にたまえ。用済みの人間は、死者にすら劣るのだから」
顎を掴んだ手に力が籠り、少年の顎骨が砕かれる。まともな声が出せなくなった少年は、声にならない悲鳴を上げた。唯一の救いは、顎の骨折が気にならないほど、全身を走る毒は激痛を伴っており、もはや痛みに関して麻痺しつつあることだろう。
傷めつけても一向に大人しくならない検体に舌打ちし、白衣の男の一人がメスを取り出し、少年の首元へと当てた。だが、そのメスが走る前に別の白衣が止める。
「バカ。こいつの血液は毒物なんだぞ?刃物で殺して血が撒き散ったら、大惨事じゃないか。殺すのなら、このまま勝手に死ぬのを待つか、窒息死させろ」
「俺は殺し合いが好きな兵士たちと違って、良識のある研究者だぞ?絞殺は手に感触が残るから嫌いなんだ。やるならおまえがやれ」
実験の過程で検体が死ぬことには罪悪感を抱かない者たちだったが、自らの手で生物を殺すというのは嫌だったようだ。白衣の男たちは互いに押し付け合うが、自分から少年を殺そうとする者はいなかった。
かと言って、このまま少年が死ぬまで待っていれば、いつまで経っても手術台が空かない。早急に少年を処理したかった一人が提案する。
「……仕方ない。このまま廃棄槽に捨てよう」
「そうだな。どうせ死んだら廃棄槽に送られるんだし、順番が逆になるだけだ。あそこなら毒が撒き散らされても影響あるまい」
少年の身体が担がれ、ダストシュートへと押し込められる。長い長い落下の後、少年の身体が水音を立てて廃棄槽に着水した。衝撃で骨が数本いかれたが、その時点で毒は少年の神経すらも侵していたため、痛みは感じなかった。
「――――っ!!」
まともに動かない身体を必死に動かし、少年は水面へと上がって浮遊物に掴まる。周囲の光景を見たからか、あるいは死に対する本能的抵抗か、少年は砕けた顎で咆哮を上げる。
そこは地獄だった。
糞便と汚水の海の中に、腐乱死体がいくつも浮いていた。かろうじて手術着と分かるボロボロの布切れをつけたその死体の目から鼠が這い出し、スズランの方へと顔を向ける。その顔には毛がなく、年老いた男のような顔をした怪生物だった。
人面鼠は少年を見て笑うように顔を歪ませると、少年へと跳びかかった。
鼠の歯が肉を食い破り、汚水に赤い花を咲かせる。少年はそれを払いのけようとしたが、浮遊物に掴まるのがやっとの状態ではままならない。
だが、少年の肉を食い破り、体内まで顔を突っ込もうとしていた人面鼠は、白目を剥いて息絶え、汚物の海へと落ちた。少年の身体を流れる毒にやられたのだ。
一先ずはほっとした少年だったが、顔を上げた瞬間に身体を硬直させる。廃棄槽にある排水口から、汚物に浮かぶ死体の上から、数え切れないほどの数の人面鼠が少年を見つめており、湧き上がる食欲を抑えきれずに涎を垂らしていた。
彼らにとって、毒を恐れる理性より、食欲という原始的本能の方が勝るのだろう。鼠たちに喰い殺されるというおぞましい未来を見た少年は身を震わせながら思った。
「(……殺して、やる)」
それは憤怒だった。少年はこの絶望的状況の中で、恐怖よりも先に強い怒りを感じた。
身体をいじられたことに対する怒り、ゴミのように捨てられたことに対する怒り、餌扱いされて喰い殺されそうになっていることに対する怒り、自分に降りかかる理不尽な運命すべてに対する怒りがその瞳に込められていた。
「(殺してやる)」
少年の毒は、襲いかかってくる彼らを殺すだろう。だが、一つ一つの傷は小さくとも、いずれ少年の身体は食い散らかされる。それが避けられたとしても、自分の身体を流れる毒か、破傷風で死ぬことになるだろう。
それがわかっていてもなお、少年の心に渦巻くのは強い怒りのみだった。毒のせいで頭がいかれてしまっていたのか、元々の性格だったのかはわからない。だが、その強靭な精神力こそが、彼の肉体と精神を支えていたことは間違いない。
「(殺してやるっ!!)」
人面鼠たちが一斉に飛びかかり、少年の身体は鼠たちに覆われてしまう。毒でやられた鼠がバタバタと死んでいくが、その都度新しい鼠が加わり隙間を埋めていく。
「(死んで、たまるか)」
だが、いくら心を強く持とうと、抵抗の手段のない少年に抗うことはできない。痛覚はなくなっていたが、肉を食い破って自分の体に潜り込む異物の存在は感じ取れた。
「(あぁ、この世界は糞ったれで理不尽だ。だが、それでも――)」
二本の指を食いちぎられ、三本指になった手で人面鼠を一匹掴み、握り潰して殺す。
そんなことは何の意味もない行為だっただろう。だが、指を食いちぎられ、眼球を抉り取られ、内臓に潜り込まれてもなお、彼の心が折れていないことを示していた。
「(俺は生きる!てめえらを全員殺して、生き残ってやるんだっ!)」
それは怒りや闘志というより、もはや狂気に近かっただろう。
だが、少年を覆い尽していた人面鼠たちが、突如として泡を吹き始め、汚物の海へとその死体を投じる。周囲を取り囲んでいた鼠たちも、もはや少年には跳びかかろうとはせずに、逆に逃げるように走り去って行った。
「……これは驚いた。その状態で進化したのか。いやはや、感嘆に値する」
何者かの声がする。誰かがいたことより、まだ聴覚が機能していたことに驚いた。
「ぜひとも所感を聞きたいところだが、残念。その傷では助けられそうにない。まぁ、こうして会ったのも何かの縁だ。介錯を望むなら、してあげるがどうかな?」
少年の答えは決まっていた。
淡々とした声で白衣の男が告げ、検体の身体から麻酔が抜かれていく。
手術台に横たえられた少年は、目を覚ますと同時に産声に似た悲鳴を上げた。
「あ、がああああああああああああああああああ!!」
血管の中を針が走っている気分だ。全身が痛くて気が狂いそうになり、脳は焼けつきそうになるほどに熱い。肺がまともに機能せず、呼吸の仕方を忘れた犬のように喘ぐ。
その様子を見ても、少年の周りにいる白衣の男たちの反応は冷たいものだった。羽をもがれた昆虫が暴れるさまを、淡々と冷静に観察し、記憶にとり意見を交わす。
「検体が生成した毒物が、検体自身を破壊し始めたか。惜しいな。今回の実験には貴重な神話生物を使ったというのに……。無駄遣いをさせやがって、このクズが」
「今回も失敗か。猛毒系の神話生物の移植は難しいな。免疫を生成する機能も移植しているはずなのに、どうしても毒の生成の方が強くなって検体を殺してしまう。両者の均衡を保つことができれば、手術の成功率は上がるはずなのだが」
「そろそろこの実験も取りやめるべきだな。成功したところで、毒物が生成できるようになるだけでは割に合わん。毒物を扱わせたいなら、手持ちだけで十分だからな。元より実利より学術的興味の側面が強い実験だった。これ以上やる意味もあるまい」
冷徹な会話が交わされている間も、少年の苦しみは終わらない。いっそすぐに殺してほしいほどの激痛だったが、半端に生みだされる毒の抗体が少年の命を延命し、ゆっくりと真綿で首を絞めるように少年の命を奪っていく。
手術台の上で暴れまわる少年をわずらわしく思った白衣の一人が、少年の顎を掴んで不快な苦悶の叫びを力づくで止めた。
「うるさい検体だな。失敗作な上に、我々の会話を邪魔するとは不愉快極まる。人間というのは下等生物のくせに、無駄にしぶとくていやになるな。実験はもう失敗したとわかったのだから、とっとと死にたまえ。用済みの人間は、死者にすら劣るのだから」
顎を掴んだ手に力が籠り、少年の顎骨が砕かれる。まともな声が出せなくなった少年は、声にならない悲鳴を上げた。唯一の救いは、顎の骨折が気にならないほど、全身を走る毒は激痛を伴っており、もはや痛みに関して麻痺しつつあることだろう。
傷めつけても一向に大人しくならない検体に舌打ちし、白衣の男の一人がメスを取り出し、少年の首元へと当てた。だが、そのメスが走る前に別の白衣が止める。
「バカ。こいつの血液は毒物なんだぞ?刃物で殺して血が撒き散ったら、大惨事じゃないか。殺すのなら、このまま勝手に死ぬのを待つか、窒息死させろ」
「俺は殺し合いが好きな兵士たちと違って、良識のある研究者だぞ?絞殺は手に感触が残るから嫌いなんだ。やるならおまえがやれ」
実験の過程で検体が死ぬことには罪悪感を抱かない者たちだったが、自らの手で生物を殺すというのは嫌だったようだ。白衣の男たちは互いに押し付け合うが、自分から少年を殺そうとする者はいなかった。
かと言って、このまま少年が死ぬまで待っていれば、いつまで経っても手術台が空かない。早急に少年を処理したかった一人が提案する。
「……仕方ない。このまま廃棄槽に捨てよう」
「そうだな。どうせ死んだら廃棄槽に送られるんだし、順番が逆になるだけだ。あそこなら毒が撒き散らされても影響あるまい」
少年の身体が担がれ、ダストシュートへと押し込められる。長い長い落下の後、少年の身体が水音を立てて廃棄槽に着水した。衝撃で骨が数本いかれたが、その時点で毒は少年の神経すらも侵していたため、痛みは感じなかった。
「――――っ!!」
まともに動かない身体を必死に動かし、少年は水面へと上がって浮遊物に掴まる。周囲の光景を見たからか、あるいは死に対する本能的抵抗か、少年は砕けた顎で咆哮を上げる。
そこは地獄だった。
糞便と汚水の海の中に、腐乱死体がいくつも浮いていた。かろうじて手術着と分かるボロボロの布切れをつけたその死体の目から鼠が這い出し、スズランの方へと顔を向ける。その顔には毛がなく、年老いた男のような顔をした怪生物だった。
人面鼠は少年を見て笑うように顔を歪ませると、少年へと跳びかかった。
鼠の歯が肉を食い破り、汚水に赤い花を咲かせる。少年はそれを払いのけようとしたが、浮遊物に掴まるのがやっとの状態ではままならない。
だが、少年の肉を食い破り、体内まで顔を突っ込もうとしていた人面鼠は、白目を剥いて息絶え、汚物の海へと落ちた。少年の身体を流れる毒にやられたのだ。
一先ずはほっとした少年だったが、顔を上げた瞬間に身体を硬直させる。廃棄槽にある排水口から、汚物に浮かぶ死体の上から、数え切れないほどの数の人面鼠が少年を見つめており、湧き上がる食欲を抑えきれずに涎を垂らしていた。
彼らにとって、毒を恐れる理性より、食欲という原始的本能の方が勝るのだろう。鼠たちに喰い殺されるというおぞましい未来を見た少年は身を震わせながら思った。
「(……殺して、やる)」
それは憤怒だった。少年はこの絶望的状況の中で、恐怖よりも先に強い怒りを感じた。
身体をいじられたことに対する怒り、ゴミのように捨てられたことに対する怒り、餌扱いされて喰い殺されそうになっていることに対する怒り、自分に降りかかる理不尽な運命すべてに対する怒りがその瞳に込められていた。
「(殺してやる)」
少年の毒は、襲いかかってくる彼らを殺すだろう。だが、一つ一つの傷は小さくとも、いずれ少年の身体は食い散らかされる。それが避けられたとしても、自分の身体を流れる毒か、破傷風で死ぬことになるだろう。
それがわかっていてもなお、少年の心に渦巻くのは強い怒りのみだった。毒のせいで頭がいかれてしまっていたのか、元々の性格だったのかはわからない。だが、その強靭な精神力こそが、彼の肉体と精神を支えていたことは間違いない。
「(殺してやるっ!!)」
人面鼠たちが一斉に飛びかかり、少年の身体は鼠たちに覆われてしまう。毒でやられた鼠がバタバタと死んでいくが、その都度新しい鼠が加わり隙間を埋めていく。
「(死んで、たまるか)」
だが、いくら心を強く持とうと、抵抗の手段のない少年に抗うことはできない。痛覚はなくなっていたが、肉を食い破って自分の体に潜り込む異物の存在は感じ取れた。
「(あぁ、この世界は糞ったれで理不尽だ。だが、それでも――)」
二本の指を食いちぎられ、三本指になった手で人面鼠を一匹掴み、握り潰して殺す。
そんなことは何の意味もない行為だっただろう。だが、指を食いちぎられ、眼球を抉り取られ、内臓に潜り込まれてもなお、彼の心が折れていないことを示していた。
「(俺は生きる!てめえらを全員殺して、生き残ってやるんだっ!)」
それは怒りや闘志というより、もはや狂気に近かっただろう。
だが、少年を覆い尽していた人面鼠たちが、突如として泡を吹き始め、汚物の海へとその死体を投じる。周囲を取り囲んでいた鼠たちも、もはや少年には跳びかかろうとはせずに、逆に逃げるように走り去って行った。
「……これは驚いた。その状態で進化したのか。いやはや、感嘆に値する」
何者かの声がする。誰かがいたことより、まだ聴覚が機能していたことに驚いた。
「ぜひとも所感を聞きたいところだが、残念。その傷では助けられそうにない。まぁ、こうして会ったのも何かの縁だ。介錯を望むなら、してあげるがどうかな?」
少年の答えは決まっていた。