機会
文字数 1,843文字
「くそ、くらえ、だ」
瀕死の少年が口にできるのはそれが限界だった。最後の力がつきた彼は、漂流物に掴まる力も失われ、汚水の海へと沈んでいく。
「結構。大変に結構。諦めの悪い人間は嫌いじゃない」
が、その前にこもった声の主が少年を汚水の中から引きずり出し、僅かにある陸地へと引き摺りあげる。
声の感じからして男のように思えるが、はっきりとはわからない。幼いスズランはまだ残っている左目で相手を見上げる。声の主はガスマスクで顔を隠しており、全身をゆったりとした一繋がりの服で包んでいる。性別はおろか、人間か鬼かすらわからない。
「あぁ、この服装が珍しいかい?なにせ、ここは廃棄槽だからね。こういう恰好をしていなければ、有毒ガスや感染症ですぐに死んでしまう。好きでこんな恰好をしているわけではないので、そのあたり勘違いしないように」
不審者はおどけた口調で言うが、それに反応できるだけの体力が残っていない。目蓋が閉じかけていたスズランの頭を不審者が小突き、それを阻止する。
「あぁ、寝ない方がいい。今寝たら、確実に君は死ぬよ。もっとも、この環境で治療のしようなんてないから、遅かれ早かれ君は死ぬだろうが。それでも生きるという選択をした以上、君は一秒でも長く生きる努力をする義務がある」
「……あんたは、なんだ?ここに、住んでる、のか?」
「うん、意識を保つために話をするのはいいことだ。君を助けてしまった以上、僕にはそれにつきあう義務があるだろう」
ガスマスクの人物は、少年に見えるように指を一本立ててみせる。
「一つ目の質問だが、見ての通り曲者だ。九頭竜の所属じゃあない。種族で言うなら鬼だね。なんでここにいるかは企業秘密ということにしておこう」
続いて、もう一本指を立てる。
「二つ目の質問の答えは、いいえ、だ。余所者なんだから当然なんだけど、そうじゃなかったとしても、こんなところに住むのはごめんこうむりたいね」
「殿」
話し相手の背後から、別のガスマスクが現れる。二人とも同じ格好なので、どちらがどちらかわからなくなりそうだが、身長差がかなりあることともう一人の声が少し高かったことから、二人目は女性だろうと見当がついた。
「ここの地固めはまだ終わっておらず、長居は危険です。これ以上のお戯れはご遠慮ください。半妖の遺体がご所望でしたら、今すぐ止めを――」
「無粋」
刃物を取り出した女に対して、短く切って捨てる。たった一言だけであったが、女は気圧されて動けなくなってしまった。
「彼が死を望んだのなら、僕は迷わずその選択をしただろう。だが、彼が生を望んだ以上、それが叶わぬものであれ、力づくで奪うのは美しくない。今の彼にとっての一秒は、我々にとっての一年と同じ価値を持つ。死にゆく彼に、もっと敬意を払いたまえ」
「…………」
何も言うことができず、女は黙り込んでしまう。ガスマスクで隠されているため、彼女がどのように思っていることは伺い知ることができない。
が、突如彼女はするりと動いて、男の横に立つ。
「殿」
「うん、気付いているよ」
ガスマスクの二人組は、揃って上を見上げている。
そこには廃棄槽の天井と入り組んだ排水管があるだけで、特に何かが起きているようには見えない。だが、彼らはその向こう側が見えるかのように、じっと上を見つめている。
「連れていけるのは一人だけだね?」
「……はい。それが現在の搬送限界です。早急にこの場を離れましょう」
女の方が少年を抱きかかえ、天井を見詰めたまま後ずさりする。だが、男の方が逆方向に歩きだしたのを見て、ぎょっとなる。
「殿っ!?危険です!」
「機会というものはそう何度も巡り合えるものじゃない。幸運であれ、悪運であれ、出会った瞬間に掴みとれない者は何者にもなることができない。ただの視察のつもりだったけど、僕は運がいいようだ。それを見逃すほど僕は日和見じゃないよ」
迷いのない足取り。
これまでの経験から、女は何を言っても主人が行動を変えないということを察した。苦悩はあれど、女は文句一つ言わずにそれに従う。そこには主人の行いに疑問を抱かない絶対の忠誠が感じ取れた。
小言の一つでも期待していた男は、彼女の気まじめさに対して、マスクの下で苦笑を洩らす。内心を口に出さず、男はおどけた口調で言った。
「では、命懸けの探索にいざ行かん、とかっこつけて言ってみるよ」
瀕死の少年が口にできるのはそれが限界だった。最後の力がつきた彼は、漂流物に掴まる力も失われ、汚水の海へと沈んでいく。
「結構。大変に結構。諦めの悪い人間は嫌いじゃない」
が、その前にこもった声の主が少年を汚水の中から引きずり出し、僅かにある陸地へと引き摺りあげる。
声の感じからして男のように思えるが、はっきりとはわからない。幼いスズランはまだ残っている左目で相手を見上げる。声の主はガスマスクで顔を隠しており、全身をゆったりとした一繋がりの服で包んでいる。性別はおろか、人間か鬼かすらわからない。
「あぁ、この服装が珍しいかい?なにせ、ここは廃棄槽だからね。こういう恰好をしていなければ、有毒ガスや感染症ですぐに死んでしまう。好きでこんな恰好をしているわけではないので、そのあたり勘違いしないように」
不審者はおどけた口調で言うが、それに反応できるだけの体力が残っていない。目蓋が閉じかけていたスズランの頭を不審者が小突き、それを阻止する。
「あぁ、寝ない方がいい。今寝たら、確実に君は死ぬよ。もっとも、この環境で治療のしようなんてないから、遅かれ早かれ君は死ぬだろうが。それでも生きるという選択をした以上、君は一秒でも長く生きる努力をする義務がある」
「……あんたは、なんだ?ここに、住んでる、のか?」
「うん、意識を保つために話をするのはいいことだ。君を助けてしまった以上、僕にはそれにつきあう義務があるだろう」
ガスマスクの人物は、少年に見えるように指を一本立ててみせる。
「一つ目の質問だが、見ての通り曲者だ。九頭竜の所属じゃあない。種族で言うなら鬼だね。なんでここにいるかは企業秘密ということにしておこう」
続いて、もう一本指を立てる。
「二つ目の質問の答えは、いいえ、だ。余所者なんだから当然なんだけど、そうじゃなかったとしても、こんなところに住むのはごめんこうむりたいね」
「殿」
話し相手の背後から、別のガスマスクが現れる。二人とも同じ格好なので、どちらがどちらかわからなくなりそうだが、身長差がかなりあることともう一人の声が少し高かったことから、二人目は女性だろうと見当がついた。
「ここの地固めはまだ終わっておらず、長居は危険です。これ以上のお戯れはご遠慮ください。半妖の遺体がご所望でしたら、今すぐ止めを――」
「無粋」
刃物を取り出した女に対して、短く切って捨てる。たった一言だけであったが、女は気圧されて動けなくなってしまった。
「彼が死を望んだのなら、僕は迷わずその選択をしただろう。だが、彼が生を望んだ以上、それが叶わぬものであれ、力づくで奪うのは美しくない。今の彼にとっての一秒は、我々にとっての一年と同じ価値を持つ。死にゆく彼に、もっと敬意を払いたまえ」
「…………」
何も言うことができず、女は黙り込んでしまう。ガスマスクで隠されているため、彼女がどのように思っていることは伺い知ることができない。
が、突如彼女はするりと動いて、男の横に立つ。
「殿」
「うん、気付いているよ」
ガスマスクの二人組は、揃って上を見上げている。
そこには廃棄槽の天井と入り組んだ排水管があるだけで、特に何かが起きているようには見えない。だが、彼らはその向こう側が見えるかのように、じっと上を見つめている。
「連れていけるのは一人だけだね?」
「……はい。それが現在の搬送限界です。早急にこの場を離れましょう」
女の方が少年を抱きかかえ、天井を見詰めたまま後ずさりする。だが、男の方が逆方向に歩きだしたのを見て、ぎょっとなる。
「殿っ!?危険です!」
「機会というものはそう何度も巡り合えるものじゃない。幸運であれ、悪運であれ、出会った瞬間に掴みとれない者は何者にもなることができない。ただの視察のつもりだったけど、僕は運がいいようだ。それを見逃すほど僕は日和見じゃないよ」
迷いのない足取り。
これまでの経験から、女は何を言っても主人が行動を変えないということを察した。苦悩はあれど、女は文句一つ言わずにそれに従う。そこには主人の行いに疑問を抱かない絶対の忠誠が感じ取れた。
小言の一つでも期待していた男は、彼女の気まじめさに対して、マスクの下で苦笑を洩らす。内心を口に出さず、男はおどけた口調で言った。
「では、命懸けの探索にいざ行かん、とかっこつけて言ってみるよ」