木陰
文字数 3,369文字
鳶の鳴く声で顔を上げたユキの瞳に、澄み渡るような夏の青空が映り込む。夏の陽気と運動後の脈動で息を弾ませながらも、その顔には嬉しげな微笑が浮かんでいた。
「おいおい、捕らわれのお姫さまなんだから、もうちょっとしおらしくしてみようぜ。神様仏様、私をお救いください。そして、私以外の奴の足の小指折れろ、とか」
「そんなやさぐれたお姫様にはなりたくないわね。それとも、ご希望通りしおらしくしていたら、助けに来たぜ、お姫さまとでも言ってくれるのかしら?」
「いやぁ、俺はせいぜい通行人に踏まれる道草だからな。いや、毒草か?動けねえし」
「私もしおらしいという言葉は似合わないから、お互いさまね」
スズランは木陰で横になっており、ユキはそのとなりに腰掛けていた。
彼らはスズランとメノウを監視兼護衛として、ユキを刈島城に連行している最中だった。土胡坐軍の目をごまかすため、結城衆は敢えて合流せず、三~四名ほどの単位でそれぞれ刈島城に向かっている。小集団での行動を得意とする結城衆での最善手だ。
だが、その途中でスズランの悪癖が出てしまった。
「あなた、倒れるまで熱中症に気付かないなんて、よく今まで生きて来られたわね」
「夏でなけれりゃ、こうはならないのよ。オタクこそ、意外と体力あるな」
「これでも鬼だもの。あなたたちと違って鍛練こそしていないものの、もともとの身体の作りが違うわ。それよりあなたはきちんと水を飲みなさい」
スズランが背嚢を指差したので、ユキはそれを取り出し、スズランの口元へと持っていく。加えて、一緒に取りだした手拭いを少し水に浸し、彼の額に当ててやった。
それから、ユキははたと気づいたように水筒をじっと見つめた後、恐る恐るといった様子で口をつける。保温も何もない竹水筒の水は温かったが、乾いた喉が潤っていく感覚は何にも劣らぬ心地よさがあり、鼻を通る竹の香りもまた風情があって楽しかった。
「少し顔が赤いぜ。オタクも熱中症なんじゃないか?」
「っ!?そ、そんなことはないわ。それより、こんなにのんびりとしていていいの?」
「ここはもう九頭竜領だし、蓮蛇軍は壊滅したって話だ。土胡坐にしても、霧見一族の軍が足止めしたから、まだまだだいぶ後方だ。このあたりは安全だよ」
とはいえ、スズランもメノウも決して油断はしていない。熱中症で倒れながらも、スズランはユキと周囲に気を配ることを欠かさないし、メノウも常に視界内にいる。
蓮蛇軍が壊滅したという話を聞いて、ユキは顔を強張らせる。
「……サクラが――蓮蛇軍が壊滅したというのは本当なの?」
「あぁ、それは間違いない。仲間から連絡が回ってきたからな」
そう言って、スズランが小高い丘で鳶を腕に留めているメノウを指差す。彼女は鳥の足についている筒から紙を取り出し、それに目を通していた。
「鬼たちは遠方と会話ができる便利な絡繰を持っているらしいが、俺たち結城衆にはそんな便利なものは渡されないから昔ながらの古臭い伝書鳥さ。だけど、手紙の内容は暗号で書かれていて、結城衆にしかわからない。機密性が高いから、情報の精度は確かさ」
サクラの生存を完全否定され、ユキは顔を伏せ、唇を噛みしめる。胸を締め付ける痛みに顔を歪ませながらも、涙だけは見せまいと耐えていた。
「サクラのバカ。どんな大怪我でも、生きてさえいれば治してあげられたのに」
「……蓮蛇軍の隊長は知り合いか。俺に言われるのも腹が立つだろうけど、ご愁傷さまだな。てっきり蓮蛇軍もおまえをただの実験体としか思ってないと思ったが」
「それは間違ってないわ。私は蓮蛇の実験施設で、さまざまな実験を受ける傍ら、負傷兵の治療も行っていたの。ある時、サクラの部隊が戦場で大打撃を受けて、私は彼女たちを全員治療したわ。だから、サクラ隊は全員顔見知り」
過去を懐かしむほどに、胸の痛みは強くなっていく。異形の外見であり、残酷な側面も持つものの、ユキにとって彼らは良き人たちだった。だが、どれだけ思い起こそうとも、彼らの顔を見ることは二度とできないのだ。
「とてもバカな娘でね。私のことを自分と部下の命の恩人だって言って、それ以来よく気を使ってくれたの。サクラの口利きで、痛い実験はなくなって、とても過ごしやすくなったわ。誘拐された私を救い出そうとしたのも、蓮蛇軍の命令じゃなくて、彼女自身の義侠心からよ。……本当にバカな人たち。私が彼らの傷を癒したのは、ただ命令されたからというだけなのに。命懸けで私を救いに来るなんて」
自分や仲間を救ってくれたのだから、こちらもそれに報いなければならない。それが蓮蛇のサクラ隊が持つ気質だった。
そこに邪な思いも打算もない。停戦条約を破ってしまったことも成り行き上だったのだろう。一隊の長ともあろう者が、恩返しのためだけに国を揺るがす条約違反をしたのだ。
いつものように皮肉を口にしようかと思ったが、スズランは口ごもってしまった。
下手をすれば祖国を敵に回す行為。そこまでして仁義を通す度胸と、迷わずそれに付き従う部下を持つほどの人望が、自分にはあるだろうか?少なくとも後者はない。ここでサクラを皮肉っても、持たざる者の負け惜しみにしかならない。
「……で、頼みの綱のサクラちゃんは死んじまって、監視役の一人は熱中症で倒れているわけですが、逃げてみようとか思っちゃったりする?」
「ううん。だって、私が逃げたら、あなたたちは殺されるのでしょう?」
沈黙に耐えられなくて出た、いつもの軽口だったが、ユキは真摯に即答する。
意外な答えにスズランは目を白黒させた。確かに、ユキを逃がしてしまったら、スズランとメノウは責任を取らされて処刑されるだろう。だが、どうしてそんなことをユキが気にする必要があるのか、スズランには理解できなかった。
「えぇっと、ユキさん?こうやって仲良くおしゃべりとかしちゃってるわけだけど、俺たちって別にお友達でもないどころか、昨日会ったばかりの敵同士なんだぜ?そのあたり、ご理解なさってらっしゃる?」
「もちろん。でも、敵であろうと味方であろうと、私のせいで誰かが死ぬのは嫌なの」
そう言いながら、ユキは何かを思い出すように遠い目をする。
自分が外に出るとき、彼女自身の意志に関わらず、必ず誰かが死ぬ。それは分不相応なまでに大きな力を持ってしまった者の宿命だ。それを当然と考えられるだけの傍若無人さがあれば問題なかっただろうが、ユキはそうではなかった。
彼女が抱いているのは諦めと恐れ。自分が自由を望むことで誰かが死ぬのなら、自分は不自由なままでいい。そんな思いが言葉に籠っていることに気付いたスズランは、なぜか無性に腹が立った。
「自分の幸せのせいで誰かが不幸になるくらいなら、自分は不幸なままでいいってか?オタク、とんだ博愛主義者だねぇ。そんなもん、生きてりゃ誰だって経験することだろ」
口を突いて出る言葉には、いつも以上に棘があった。自分でもわけがわからないくらいに心がささくれだっているのがわかる。
「それは違うわ。私は誰かのためにこんな生き方をしているんじゃなくて、自分のためにまだマシだと思う方を選んでいるだけ。私は望んでこの道を歩いているの」
それは他に選択肢がなかっただけだと言いたかった。だが、スズランはそれを言えなかった。彼女の手を引いて他の選択肢を示すということは、祖国に対して反逆するということと同じだ。スズランにはそんなことをする勇気はなかった。
そんなスズランの目を見つめて、ユキは子どもを安心させる母のように微笑んだ。
「私は十分幸せよ。だから、そんなふうに自分を責めないで。優しい道草さん」
自分を責めている?俺が?スズランは自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。
ただ、彼女の諦観と自分の無力さに対して、無性に腹が立ち、痛みを感じないはずの胸が痛んだ。だって、俺はそれが嫌だからこそ、強くなろうとしたんじゃなかったのか。
記憶より先に想いが先に蘇り、脳が混乱する。答えのないまま、彼は問いかけた。
「なぁ、ユキ。俺たちは以前に会ったことがあるのか?」
「おいおい、捕らわれのお姫さまなんだから、もうちょっとしおらしくしてみようぜ。神様仏様、私をお救いください。そして、私以外の奴の足の小指折れろ、とか」
「そんなやさぐれたお姫様にはなりたくないわね。それとも、ご希望通りしおらしくしていたら、助けに来たぜ、お姫さまとでも言ってくれるのかしら?」
「いやぁ、俺はせいぜい通行人に踏まれる道草だからな。いや、毒草か?動けねえし」
「私もしおらしいという言葉は似合わないから、お互いさまね」
スズランは木陰で横になっており、ユキはそのとなりに腰掛けていた。
彼らはスズランとメノウを監視兼護衛として、ユキを刈島城に連行している最中だった。土胡坐軍の目をごまかすため、結城衆は敢えて合流せず、三~四名ほどの単位でそれぞれ刈島城に向かっている。小集団での行動を得意とする結城衆での最善手だ。
だが、その途中でスズランの悪癖が出てしまった。
「あなた、倒れるまで熱中症に気付かないなんて、よく今まで生きて来られたわね」
「夏でなけれりゃ、こうはならないのよ。オタクこそ、意外と体力あるな」
「これでも鬼だもの。あなたたちと違って鍛練こそしていないものの、もともとの身体の作りが違うわ。それよりあなたはきちんと水を飲みなさい」
スズランが背嚢を指差したので、ユキはそれを取り出し、スズランの口元へと持っていく。加えて、一緒に取りだした手拭いを少し水に浸し、彼の額に当ててやった。
それから、ユキははたと気づいたように水筒をじっと見つめた後、恐る恐るといった様子で口をつける。保温も何もない竹水筒の水は温かったが、乾いた喉が潤っていく感覚は何にも劣らぬ心地よさがあり、鼻を通る竹の香りもまた風情があって楽しかった。
「少し顔が赤いぜ。オタクも熱中症なんじゃないか?」
「っ!?そ、そんなことはないわ。それより、こんなにのんびりとしていていいの?」
「ここはもう九頭竜領だし、蓮蛇軍は壊滅したって話だ。土胡坐にしても、霧見一族の軍が足止めしたから、まだまだだいぶ後方だ。このあたりは安全だよ」
とはいえ、スズランもメノウも決して油断はしていない。熱中症で倒れながらも、スズランはユキと周囲に気を配ることを欠かさないし、メノウも常に視界内にいる。
蓮蛇軍が壊滅したという話を聞いて、ユキは顔を強張らせる。
「……サクラが――蓮蛇軍が壊滅したというのは本当なの?」
「あぁ、それは間違いない。仲間から連絡が回ってきたからな」
そう言って、スズランが小高い丘で鳶を腕に留めているメノウを指差す。彼女は鳥の足についている筒から紙を取り出し、それに目を通していた。
「鬼たちは遠方と会話ができる便利な絡繰を持っているらしいが、俺たち結城衆にはそんな便利なものは渡されないから昔ながらの古臭い伝書鳥さ。だけど、手紙の内容は暗号で書かれていて、結城衆にしかわからない。機密性が高いから、情報の精度は確かさ」
サクラの生存を完全否定され、ユキは顔を伏せ、唇を噛みしめる。胸を締め付ける痛みに顔を歪ませながらも、涙だけは見せまいと耐えていた。
「サクラのバカ。どんな大怪我でも、生きてさえいれば治してあげられたのに」
「……蓮蛇軍の隊長は知り合いか。俺に言われるのも腹が立つだろうけど、ご愁傷さまだな。てっきり蓮蛇軍もおまえをただの実験体としか思ってないと思ったが」
「それは間違ってないわ。私は蓮蛇の実験施設で、さまざまな実験を受ける傍ら、負傷兵の治療も行っていたの。ある時、サクラの部隊が戦場で大打撃を受けて、私は彼女たちを全員治療したわ。だから、サクラ隊は全員顔見知り」
過去を懐かしむほどに、胸の痛みは強くなっていく。異形の外見であり、残酷な側面も持つものの、ユキにとって彼らは良き人たちだった。だが、どれだけ思い起こそうとも、彼らの顔を見ることは二度とできないのだ。
「とてもバカな娘でね。私のことを自分と部下の命の恩人だって言って、それ以来よく気を使ってくれたの。サクラの口利きで、痛い実験はなくなって、とても過ごしやすくなったわ。誘拐された私を救い出そうとしたのも、蓮蛇軍の命令じゃなくて、彼女自身の義侠心からよ。……本当にバカな人たち。私が彼らの傷を癒したのは、ただ命令されたからというだけなのに。命懸けで私を救いに来るなんて」
自分や仲間を救ってくれたのだから、こちらもそれに報いなければならない。それが蓮蛇のサクラ隊が持つ気質だった。
そこに邪な思いも打算もない。停戦条約を破ってしまったことも成り行き上だったのだろう。一隊の長ともあろう者が、恩返しのためだけに国を揺るがす条約違反をしたのだ。
いつものように皮肉を口にしようかと思ったが、スズランは口ごもってしまった。
下手をすれば祖国を敵に回す行為。そこまでして仁義を通す度胸と、迷わずそれに付き従う部下を持つほどの人望が、自分にはあるだろうか?少なくとも後者はない。ここでサクラを皮肉っても、持たざる者の負け惜しみにしかならない。
「……で、頼みの綱のサクラちゃんは死んじまって、監視役の一人は熱中症で倒れているわけですが、逃げてみようとか思っちゃったりする?」
「ううん。だって、私が逃げたら、あなたたちは殺されるのでしょう?」
沈黙に耐えられなくて出た、いつもの軽口だったが、ユキは真摯に即答する。
意外な答えにスズランは目を白黒させた。確かに、ユキを逃がしてしまったら、スズランとメノウは責任を取らされて処刑されるだろう。だが、どうしてそんなことをユキが気にする必要があるのか、スズランには理解できなかった。
「えぇっと、ユキさん?こうやって仲良くおしゃべりとかしちゃってるわけだけど、俺たちって別にお友達でもないどころか、昨日会ったばかりの敵同士なんだぜ?そのあたり、ご理解なさってらっしゃる?」
「もちろん。でも、敵であろうと味方であろうと、私のせいで誰かが死ぬのは嫌なの」
そう言いながら、ユキは何かを思い出すように遠い目をする。
自分が外に出るとき、彼女自身の意志に関わらず、必ず誰かが死ぬ。それは分不相応なまでに大きな力を持ってしまった者の宿命だ。それを当然と考えられるだけの傍若無人さがあれば問題なかっただろうが、ユキはそうではなかった。
彼女が抱いているのは諦めと恐れ。自分が自由を望むことで誰かが死ぬのなら、自分は不自由なままでいい。そんな思いが言葉に籠っていることに気付いたスズランは、なぜか無性に腹が立った。
「自分の幸せのせいで誰かが不幸になるくらいなら、自分は不幸なままでいいってか?オタク、とんだ博愛主義者だねぇ。そんなもん、生きてりゃ誰だって経験することだろ」
口を突いて出る言葉には、いつも以上に棘があった。自分でもわけがわからないくらいに心がささくれだっているのがわかる。
「それは違うわ。私は誰かのためにこんな生き方をしているんじゃなくて、自分のためにまだマシだと思う方を選んでいるだけ。私は望んでこの道を歩いているの」
それは他に選択肢がなかっただけだと言いたかった。だが、スズランはそれを言えなかった。彼女の手を引いて他の選択肢を示すということは、祖国に対して反逆するということと同じだ。スズランにはそんなことをする勇気はなかった。
そんなスズランの目を見つめて、ユキは子どもを安心させる母のように微笑んだ。
「私は十分幸せよ。だから、そんなふうに自分を責めないで。優しい道草さん」
自分を責めている?俺が?スズランは自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。
ただ、彼女の諦観と自分の無力さに対して、無性に腹が立ち、痛みを感じないはずの胸が痛んだ。だって、俺はそれが嫌だからこそ、強くなろうとしたんじゃなかったのか。
記憶より先に想いが先に蘇り、脳が混乱する。答えのないまま、彼は問いかけた。
「なぁ、ユキ。俺たちは以前に会ったことがあるのか?」