怪物
文字数 5,084文字
スズランの術の真価は肉弾戦にある。全身が毒物兵器であり、触れただけで必殺の攻撃となる彼の身体は全身兵器だ。いかにタマフネの身体能力が優れていたとしても、接近戦においてはスズランの方に大きなアドバンテージがある。
――そんな自惚れは、たったの一撃で粉々に打ち崩された。
タマフネの身体が一瞬ぶれたと感じた時には、彼はすでに拳を繰り出した後だった。
工夫も何もないただの右ストレート。だが、それに対してスズランが出来た反応は、かろうじてクナイの刃で受け止めることだけだった。
反撃に転ずるか、後ろに跳んで衝撃を減らすか。コンマ一秒にも満たぬ時の中で、スズランは後者を選ぶ。それがスズランの生死を分けた。
「す、スズランっ!?」
遠くからユキの声が聞こえてくる。いつの間にそんなに遠くに?その疑問の答えを見つける前に、スズランの背中が大木に叩きつけられ、口から大量の血が吐き出される。
「なっ、がっ……」
気がつけば、二人が相対した場所から十メートルは離れた位置で倒れていた。砕けたクナイの刃とままならぬ呼吸から、今の一撃で吹き飛ばされたのだと悟る。
「化け物、が……」
「応とも。俺は妖怪だ。とっさに後ろに跳んだのは正解だったな。前に踏み込んでたら、おまえの胸に風穴が空いていた」
タマフネが乱杭歯を剥きだしにして笑う。
接近戦なら有利などと思っていた、数秒前の自分をぶん殴ってやりたい。毒手は確かに一撃必殺だが、相手の鉄拳も一撃喰らえば即死だ。相手に触れるためにはあの剛腕を潜り抜けなければいけないのだが、考えただけでもぞっとしない。
タマフネの踏み込みで地面が爆発する勢いで跳ね、スズランとの距離を一歩で詰める。
辛うじて身を捻って直撃はかわすも、完全には回避しきれずに弾き飛ばされる。僅かにかすっただけのはずなのに、まるで巨大なイノシシの突進を受けた気分だった。
スズランは新たなクナイを取り出そうとしたが、そこで初めて右手の指が脱臼し、あらぬ方向を向いていることに気付く。
「調子に乗るなよ、この筋肉だるま!!」
無事な左を軽く振ると、袖の下から黒い縄が現れる。縄はあたかも生き物であるかのように動き、タマフネの腕に絡みついた。
「お?」
絡みついた縄を力任せに引きちぎろうとするが、軽く巻きついた程度に見える細い縄はびくともしない。膂力に自信のあったタマフネはほんの少し驚いた顔になる。
「忍法・絡み蛇。鋼より硬い土蜘蛛の糸で編んだ縄だ。一見簡単に外れそうに見えて、夫の浮気を知って激怒した妻並みに執念深いぜ」
「……だからなんだよ」
縄で繋がれて動きを制限され、不利になるのはスズランのほうだ。タマフネはスズランを手繰り寄せるために、力任せに縄を引く。
タマフネの足に力が入ったと見た瞬間、唐突に縄が緩み、スズランの手許へと戻っていった。体勢を崩しかけたタマフネがたたらを踏んだ。
「絡み蛇は、縄を自由自在に操る術なんだよ。引きちぎることはできないが、絡めるのも外すのも自由自在だ」
「地味な技だな、おい。だからそれがなんだって……」
言いかけて、タマフネは唐突な目眩を覚え、膝をつく。同時に腕に違和感。見れば、縄が絡んでいた部分が紫色に変色していた。
「毒か」
普段は服の下に隠してあるこの縄は、スズランの身体から染み出る毒をたっぷりと吸っており、触れただけで毒に侵される。中距離戦におけるスズランの攻撃の要だ。直接触れるよりは毒性は下がるものの、相手を殺すには十分すぎる量が染み込んでいた。
タマフネは即座に変色した部分に噛みつき、肉の表面を噛みちぎって吐き出す。血が噴水のように溢れ出るが、タマフネは何事もなかったかのように立ち上がる。
「……ナナフシといい、オタクといい、血抜きが豪快すぎるだろ。もうちょっとお上品に戦ってくれよ。俺が楽になるから」
「ちっと甘く見てたぜ、スズラン。なかなか面白い芸を持ってるじゃねえか。人間相手に血を流すとは思わなかったぜ」
ある程度毒が回った状態で毒抜きしても効果は薄いはずだが、元々の体格が大きいせいか、毒で動きが鈍っているようには見えない。
「あぁ、思い出したぜ。そういや、毒物を作りだす鬼胤の移植に成功した奴が一人だけいたな。そうか、俺が布槌を離れた後に羅刹になったのか」
「そりゃどうも、知っててもらえて恐悦至極。ついでに、俺を殺すことの難しさはわかったろ?仮に俺を殺せたとしても、返り血一滴浴びればオタクは死ぬ。ここは一つ、諦めてもらえませんかねぇ?」
血に染まった手をタマフネに見せつけながら、威嚇するように言う。だが、脅しの甲斐なく、魚人はむしろ口元を大きくゆがませて笑みを浮かべた。
「今度はおまえが俺のことを甘く見すぎてるみたいだな」
タマフネは背中に手を回すと、先端に貝殻状の球体がついた二本の鉄棒を取り出す。棒同士をつなぎ合わせると、鉄棒が伸びて二メートル長の鉄棍へと姿を変えた。
それと同時にタマフネの鱗状の体表から黒い粘液のようなものが湧き出たかと思うと、タマフネの身体を覆って黒い西洋鎧のごとき姿へと変貌していった。全身を鋼の装甲で覆ってしまったタマフネの威容を見て、スズランは目を見開いて絶句するしかなかった。
「なっ……」
「遊びは終わり。ここからは蹂躙の始まりだぜ」
タマフネが鉄棍のスイッチを押しこむと、両端についた球体が高速回転を引き起こす。
本能に頼るまでもなく身の危険を感じたスズランは、大きく身を捻じって、眼前に迫る鉄棍の一撃をかわす。先端で高速回転する球体はスズランの前髪をかすめ、地面へと叩きつけられた。
超腕力から振り下ろされた鉄塊は、その衝撃で大きく地面にめり込んで周囲に土砂を飛ばす。飛ばされた土砂は、散弾銃のように周囲に飛び散り、それを身に受けるだけでスズランの身体は抉られた。
余波だけでもすさまじい威力を誇る一撃に、スズランは背筋を凍らせながらも必死に反撃の手段を考える。
凄まじい威力を誇る鉄鎚だが、その強力さゆえに先端のほとんどが地面に埋まってしまった。これでは簡単に抜くことはできないはずだから、反撃するなら今しかない……そう思ったが、この鉄鎚の恐ろしさはそこからだった。
高速回転する球体は、表面にある貝状の小さな溝で地面を掘削する。土中に埋まったはずの鉄鎚はその勢いのままに、プリンを抉るかのように抵抗なく地面を削り取った。
防御など無意味。大振りなくせに隙も少なく、かわし続けるのも難しい。
即座にスズランは、両手から縄を飛ばす。守りに入れば一分も保たない。生き残るためには攻めるしかないと判断。縄の一本は鉄鎚に、もう一本はタマフネの腕に絡まる。
しかし、タマフネは鉄鎚の一振りでそれらを削断してしまう。鋼を超える硬度を持つ縄でさえ、あの高速回転する掘削鉄鎚の前では糸こんにゃくのようであった。
「毒は……やっぱ通らねえよな」
タマフネの腕には縄の切れ端が残っていたが、先刻と違って毒が回っている様子は見えない。全身を覆う鋼の鎧が、縄に染み込んだ毒が体内に侵入するのを防いでいるのだ。
霧見一族。海底都市の王と呼ばれる鬼神、九頭竜の尖兵たる妖怪集団。
魚に似た外見通り、彼らは泳ぎを得意とし、水中で呼吸することも可能。だが、真に恐ろしいのは、彼らの一人一人が海洋生物に由来する特殊能力を持っているという点だ。
ウロコフネタマガイ。世にも珍しい硫化鉄の鱗を持つ巻貝。この巻貝の特殊能力を持つ霧見一族の兵士は、自身を鋼鉄で覆って攻撃や防御に使用することができる。
スズランは同じ能力を持つ霧見一族見たことがあったが、それは本来身体の一部を数ミリ覆う程度であり、硬度も決して高いものではなかった。
だが、タマフネの操る装甲は規格外のレベルで群を抜いている。全身を数センチはある分厚い鋼鉄で覆っており、装甲を薄くしなければいけない関節部にさえ鎖帷子のような網目状の鎧が守っている。
スズランの毒の強みは、皮膚接触だけでも浸透することだ。これによってスズランは接近戦で無類の強さを誇るのだが、タマフネの特性はこれを完全に無効化している。全身を鋼鉄の鎧で守られたタマフネの身体には、毒を浸透させる隙がない。
縄を使った毒殺を諦め、無事な方の手でクナイを取り出して握る。皮膚接触での毒が通用しないなら、装甲の薄い部分から手傷を負わせて、直接体内に毒を投入するしかない。
「……あっ、無理だ、これ。いくらなんでも化け物すぎるだろ!」
スズランとて、毒に頼りきりの戦いをしてきたわけではない。毒がなくても、結城衆の中でも優れた戦闘技術を持っていると自負している。しかし、そんな彼であっても、勝ち目なしと断ずるに迷いはなかった。
全身が相当の重量であるだろうに、タマフネの動きには些かの陰りもない。
彼の持つ鉄槌は最大の脅威であったが、そもタマフネの膂力で放たれる鋼鉄の身体を駆使した体術はそれだけで必殺だ。それらの攻撃を回避してクナイを突き刺すなど、空に手を伸ばして月を掴むがごとしだ。
「誇っていいぜ。人間の分際で、俺とここまで渡りあえたのはおまえが初めてだ」
再び振りぬかれた鉄槌を、スズランは必死の思いで避ける。
が、避けた先で、クナイを握った手を包み込むようにしてタマフネの手が重ねられた。必殺の攻撃は囮。格下の相手であるにもかかわらず、タマフネには油断の欠片すらない。
振りほどこうとするも、万力の握力でびくともしない。まるで熊の口内に手を突っ込んだかのようだ。ぎしぎしと今にも拳が砕かれそうだ。
「予想以上に楽しめたぜ。予想外の展開にはならなかったがな」
脇腹を何度も蹴りつけて逃れようとするスズランだったが、鋼鉄で覆われた身体はびくともしない。
タマフネは手を離さずに、そのままスズランを地面に叩きつける。受け身など取れる状況ではない。スズランの身体は大きく跳ね、全身の骨が砕ける音が響く。
痛覚の有無など関係ない。もはや肉体で正常に機能している部位はなく、指一本まともに動かない。精神より先に肉体の限界がきた。
「(格が、違い、すぎる)」
人間と妖怪では身体能力に大きな差がある。その中でもタマフネは霧見一族の千人長を務める大物。半妖とはいえ、所詮は人間に過ぎない自分が敵うはずもなかった。
止めを刺すため、タマフネが鉄槌を振り上げる。
彼がスズランを生かしておく理由はない。霧見一族の奴隷に過ぎない身で、刃を向けてしまったのだ。処罰されるのが必然だ。
「ま、待ちなさい!」
あわや鉄槌が振り下ろされるかと思われた時、力強い声が背後から届く。
振り返ると、クナイの刃を手にした銀髪の少女が彼を睨みつけていた。失神から目覚めたばかりのようで、足元はふらついている。
隣に立つメノウは困惑した表情で、ユキを押さえつけるかどうかを迷っている。メノウ自身、スズランを助けられるなら助けたいという気持ちはあるが、タマフネ――ひいては霧見一族に反旗を翻してまで助けるのは抵抗がある。その相反する気持ちが、ユキを取り押さえることに迷いを生じさせているのだろう。
ユキが握っているクナイの刃は、タマフネの拳を受けて砕かれたスズランのものだ。たまたま近くに転がっていたものを拾い上げたのだろう。
「もう勝負はついたでしょう?彼を放しなさい」
「……放さなかったら、どうするんだ?まさか、その玩具以前のクズ鉄で俺と戦うつもりか?戦えもしねえ女が、男同士の戦いに首を突っ込むんじゃねえよ」
苛立った声でタマフネが言う。彼は戦いに水を差されること、特に女に指図されることを嫌っていた。女は男の言うことを黙って聞いていればいいという考えの持ち主だった。
まして、相手は人間相手でも組み伏せられそうなか弱い鬼。武力を持って上下関係を決める霧見一族において、弱い女というのはもっとも軽んじられる存在だ。そんな相手の言うことなど聞くはずもなく、見下すように睨みつける。
常人なら目があっただけで戦意を喪失してしまいそうな殺気を前にして、しかし、ユキは目をそらすことなく毅然とした瞳で睨み返す。
「こうするわ」
ユキは刃を自分の首に押し当てると、そのまま力を込めて突き立てた。
――そんな自惚れは、たったの一撃で粉々に打ち崩された。
タマフネの身体が一瞬ぶれたと感じた時には、彼はすでに拳を繰り出した後だった。
工夫も何もないただの右ストレート。だが、それに対してスズランが出来た反応は、かろうじてクナイの刃で受け止めることだけだった。
反撃に転ずるか、後ろに跳んで衝撃を減らすか。コンマ一秒にも満たぬ時の中で、スズランは後者を選ぶ。それがスズランの生死を分けた。
「す、スズランっ!?」
遠くからユキの声が聞こえてくる。いつの間にそんなに遠くに?その疑問の答えを見つける前に、スズランの背中が大木に叩きつけられ、口から大量の血が吐き出される。
「なっ、がっ……」
気がつけば、二人が相対した場所から十メートルは離れた位置で倒れていた。砕けたクナイの刃とままならぬ呼吸から、今の一撃で吹き飛ばされたのだと悟る。
「化け物、が……」
「応とも。俺は妖怪だ。とっさに後ろに跳んだのは正解だったな。前に踏み込んでたら、おまえの胸に風穴が空いていた」
タマフネが乱杭歯を剥きだしにして笑う。
接近戦なら有利などと思っていた、数秒前の自分をぶん殴ってやりたい。毒手は確かに一撃必殺だが、相手の鉄拳も一撃喰らえば即死だ。相手に触れるためにはあの剛腕を潜り抜けなければいけないのだが、考えただけでもぞっとしない。
タマフネの踏み込みで地面が爆発する勢いで跳ね、スズランとの距離を一歩で詰める。
辛うじて身を捻って直撃はかわすも、完全には回避しきれずに弾き飛ばされる。僅かにかすっただけのはずなのに、まるで巨大なイノシシの突進を受けた気分だった。
スズランは新たなクナイを取り出そうとしたが、そこで初めて右手の指が脱臼し、あらぬ方向を向いていることに気付く。
「調子に乗るなよ、この筋肉だるま!!」
無事な左を軽く振ると、袖の下から黒い縄が現れる。縄はあたかも生き物であるかのように動き、タマフネの腕に絡みついた。
「お?」
絡みついた縄を力任せに引きちぎろうとするが、軽く巻きついた程度に見える細い縄はびくともしない。膂力に自信のあったタマフネはほんの少し驚いた顔になる。
「忍法・絡み蛇。鋼より硬い土蜘蛛の糸で編んだ縄だ。一見簡単に外れそうに見えて、夫の浮気を知って激怒した妻並みに執念深いぜ」
「……だからなんだよ」
縄で繋がれて動きを制限され、不利になるのはスズランのほうだ。タマフネはスズランを手繰り寄せるために、力任せに縄を引く。
タマフネの足に力が入ったと見た瞬間、唐突に縄が緩み、スズランの手許へと戻っていった。体勢を崩しかけたタマフネがたたらを踏んだ。
「絡み蛇は、縄を自由自在に操る術なんだよ。引きちぎることはできないが、絡めるのも外すのも自由自在だ」
「地味な技だな、おい。だからそれがなんだって……」
言いかけて、タマフネは唐突な目眩を覚え、膝をつく。同時に腕に違和感。見れば、縄が絡んでいた部分が紫色に変色していた。
「毒か」
普段は服の下に隠してあるこの縄は、スズランの身体から染み出る毒をたっぷりと吸っており、触れただけで毒に侵される。中距離戦におけるスズランの攻撃の要だ。直接触れるよりは毒性は下がるものの、相手を殺すには十分すぎる量が染み込んでいた。
タマフネは即座に変色した部分に噛みつき、肉の表面を噛みちぎって吐き出す。血が噴水のように溢れ出るが、タマフネは何事もなかったかのように立ち上がる。
「……ナナフシといい、オタクといい、血抜きが豪快すぎるだろ。もうちょっとお上品に戦ってくれよ。俺が楽になるから」
「ちっと甘く見てたぜ、スズラン。なかなか面白い芸を持ってるじゃねえか。人間相手に血を流すとは思わなかったぜ」
ある程度毒が回った状態で毒抜きしても効果は薄いはずだが、元々の体格が大きいせいか、毒で動きが鈍っているようには見えない。
「あぁ、思い出したぜ。そういや、毒物を作りだす鬼胤の移植に成功した奴が一人だけいたな。そうか、俺が布槌を離れた後に羅刹になったのか」
「そりゃどうも、知っててもらえて恐悦至極。ついでに、俺を殺すことの難しさはわかったろ?仮に俺を殺せたとしても、返り血一滴浴びればオタクは死ぬ。ここは一つ、諦めてもらえませんかねぇ?」
血に染まった手をタマフネに見せつけながら、威嚇するように言う。だが、脅しの甲斐なく、魚人はむしろ口元を大きくゆがませて笑みを浮かべた。
「今度はおまえが俺のことを甘く見すぎてるみたいだな」
タマフネは背中に手を回すと、先端に貝殻状の球体がついた二本の鉄棒を取り出す。棒同士をつなぎ合わせると、鉄棒が伸びて二メートル長の鉄棍へと姿を変えた。
それと同時にタマフネの鱗状の体表から黒い粘液のようなものが湧き出たかと思うと、タマフネの身体を覆って黒い西洋鎧のごとき姿へと変貌していった。全身を鋼の装甲で覆ってしまったタマフネの威容を見て、スズランは目を見開いて絶句するしかなかった。
「なっ……」
「遊びは終わり。ここからは蹂躙の始まりだぜ」
タマフネが鉄棍のスイッチを押しこむと、両端についた球体が高速回転を引き起こす。
本能に頼るまでもなく身の危険を感じたスズランは、大きく身を捻じって、眼前に迫る鉄棍の一撃をかわす。先端で高速回転する球体はスズランの前髪をかすめ、地面へと叩きつけられた。
超腕力から振り下ろされた鉄塊は、その衝撃で大きく地面にめり込んで周囲に土砂を飛ばす。飛ばされた土砂は、散弾銃のように周囲に飛び散り、それを身に受けるだけでスズランの身体は抉られた。
余波だけでもすさまじい威力を誇る一撃に、スズランは背筋を凍らせながらも必死に反撃の手段を考える。
凄まじい威力を誇る鉄鎚だが、その強力さゆえに先端のほとんどが地面に埋まってしまった。これでは簡単に抜くことはできないはずだから、反撃するなら今しかない……そう思ったが、この鉄鎚の恐ろしさはそこからだった。
高速回転する球体は、表面にある貝状の小さな溝で地面を掘削する。土中に埋まったはずの鉄鎚はその勢いのままに、プリンを抉るかのように抵抗なく地面を削り取った。
防御など無意味。大振りなくせに隙も少なく、かわし続けるのも難しい。
即座にスズランは、両手から縄を飛ばす。守りに入れば一分も保たない。生き残るためには攻めるしかないと判断。縄の一本は鉄鎚に、もう一本はタマフネの腕に絡まる。
しかし、タマフネは鉄鎚の一振りでそれらを削断してしまう。鋼を超える硬度を持つ縄でさえ、あの高速回転する掘削鉄鎚の前では糸こんにゃくのようであった。
「毒は……やっぱ通らねえよな」
タマフネの腕には縄の切れ端が残っていたが、先刻と違って毒が回っている様子は見えない。全身を覆う鋼の鎧が、縄に染み込んだ毒が体内に侵入するのを防いでいるのだ。
霧見一族。海底都市の王と呼ばれる鬼神、九頭竜の尖兵たる妖怪集団。
魚に似た外見通り、彼らは泳ぎを得意とし、水中で呼吸することも可能。だが、真に恐ろしいのは、彼らの一人一人が海洋生物に由来する特殊能力を持っているという点だ。
ウロコフネタマガイ。世にも珍しい硫化鉄の鱗を持つ巻貝。この巻貝の特殊能力を持つ霧見一族の兵士は、自身を鋼鉄で覆って攻撃や防御に使用することができる。
スズランは同じ能力を持つ霧見一族見たことがあったが、それは本来身体の一部を数ミリ覆う程度であり、硬度も決して高いものではなかった。
だが、タマフネの操る装甲は規格外のレベルで群を抜いている。全身を数センチはある分厚い鋼鉄で覆っており、装甲を薄くしなければいけない関節部にさえ鎖帷子のような網目状の鎧が守っている。
スズランの毒の強みは、皮膚接触だけでも浸透することだ。これによってスズランは接近戦で無類の強さを誇るのだが、タマフネの特性はこれを完全に無効化している。全身を鋼鉄の鎧で守られたタマフネの身体には、毒を浸透させる隙がない。
縄を使った毒殺を諦め、無事な方の手でクナイを取り出して握る。皮膚接触での毒が通用しないなら、装甲の薄い部分から手傷を負わせて、直接体内に毒を投入するしかない。
「……あっ、無理だ、これ。いくらなんでも化け物すぎるだろ!」
スズランとて、毒に頼りきりの戦いをしてきたわけではない。毒がなくても、結城衆の中でも優れた戦闘技術を持っていると自負している。しかし、そんな彼であっても、勝ち目なしと断ずるに迷いはなかった。
全身が相当の重量であるだろうに、タマフネの動きには些かの陰りもない。
彼の持つ鉄槌は最大の脅威であったが、そもタマフネの膂力で放たれる鋼鉄の身体を駆使した体術はそれだけで必殺だ。それらの攻撃を回避してクナイを突き刺すなど、空に手を伸ばして月を掴むがごとしだ。
「誇っていいぜ。人間の分際で、俺とここまで渡りあえたのはおまえが初めてだ」
再び振りぬかれた鉄槌を、スズランは必死の思いで避ける。
が、避けた先で、クナイを握った手を包み込むようにしてタマフネの手が重ねられた。必殺の攻撃は囮。格下の相手であるにもかかわらず、タマフネには油断の欠片すらない。
振りほどこうとするも、万力の握力でびくともしない。まるで熊の口内に手を突っ込んだかのようだ。ぎしぎしと今にも拳が砕かれそうだ。
「予想以上に楽しめたぜ。予想外の展開にはならなかったがな」
脇腹を何度も蹴りつけて逃れようとするスズランだったが、鋼鉄で覆われた身体はびくともしない。
タマフネは手を離さずに、そのままスズランを地面に叩きつける。受け身など取れる状況ではない。スズランの身体は大きく跳ね、全身の骨が砕ける音が響く。
痛覚の有無など関係ない。もはや肉体で正常に機能している部位はなく、指一本まともに動かない。精神より先に肉体の限界がきた。
「(格が、違い、すぎる)」
人間と妖怪では身体能力に大きな差がある。その中でもタマフネは霧見一族の千人長を務める大物。半妖とはいえ、所詮は人間に過ぎない自分が敵うはずもなかった。
止めを刺すため、タマフネが鉄槌を振り上げる。
彼がスズランを生かしておく理由はない。霧見一族の奴隷に過ぎない身で、刃を向けてしまったのだ。処罰されるのが必然だ。
「ま、待ちなさい!」
あわや鉄槌が振り下ろされるかと思われた時、力強い声が背後から届く。
振り返ると、クナイの刃を手にした銀髪の少女が彼を睨みつけていた。失神から目覚めたばかりのようで、足元はふらついている。
隣に立つメノウは困惑した表情で、ユキを押さえつけるかどうかを迷っている。メノウ自身、スズランを助けられるなら助けたいという気持ちはあるが、タマフネ――ひいては霧見一族に反旗を翻してまで助けるのは抵抗がある。その相反する気持ちが、ユキを取り押さえることに迷いを生じさせているのだろう。
ユキが握っているクナイの刃は、タマフネの拳を受けて砕かれたスズランのものだ。たまたま近くに転がっていたものを拾い上げたのだろう。
「もう勝負はついたでしょう?彼を放しなさい」
「……放さなかったら、どうするんだ?まさか、その玩具以前のクズ鉄で俺と戦うつもりか?戦えもしねえ女が、男同士の戦いに首を突っ込むんじゃねえよ」
苛立った声でタマフネが言う。彼は戦いに水を差されること、特に女に指図されることを嫌っていた。女は男の言うことを黙って聞いていればいいという考えの持ち主だった。
まして、相手は人間相手でも組み伏せられそうなか弱い鬼。武力を持って上下関係を決める霧見一族において、弱い女というのはもっとも軽んじられる存在だ。そんな相手の言うことなど聞くはずもなく、見下すように睨みつける。
常人なら目があっただけで戦意を喪失してしまいそうな殺気を前にして、しかし、ユキは目をそらすことなく毅然とした瞳で睨み返す。
「こうするわ」
ユキは刃を自分の首に押し当てると、そのまま力を込めて突き立てた。