文字数 5,215文字

「くそ、くらえ、だ」

 手放しかけた意識を、間一髪のところで引っつかむ。
 今のが走馬灯というやつだろうか。最後に思い出した記憶が汚物の海へと落ちたことなんて本気で嫌過ぎる。どうせならもっといい思い出がいいと思ったが、よくよく考えてみれば大した思い出なんかないと気付く。よかったと思える記憶なんて、ツユクサの爺から春画本を盗んだことくらいだ。マジでロクな人生送ってないな、俺。

「優しくされる謂れはないけど、それでも女性に対してそれはないんじゃないかしら?」

 霞んだ視界で見上げれば、すぐそばにユキの顔があった。そこで初めて、スズランは自分がユキに抱きかかえられていると気付いた。彼女は衣服が血で染まることも構わず、スズランの血濡れた手を握っていた。意識を失っていた間に近づいていたようだ。
 改めてすぐ近くで見れば、雪原に舞い降りた天使のように美しい少女だった。その赤い瞳には魔力でも宿っているようで、スズランはしばし彼女に見惚れていた。

「だめ!スズランから離れてー!!」

 いつもどこか抜けているメノウが、焦った声を上げた。その声に喚起され、スズランは事態に気付き、はっとした顔になる。
 スズランの身体に触れれば、毒に侵される。だからこそ、メノウがユキを引きとめていたのだが、見た目の華奢さに油断してしまった。思った以上に強い力でメノウを引き剥がし、スズランの元へと駆け寄ったのだ。
 すぐにメノウも後を追おうとしたが、二の足を踏む。爪の先まで毒で構築されているスズランの身体の中で、血液はもっとも毒性が高く、即死級の威力を誇る。彼女であっても迂闊に近寄ることができないのだ。
 なにより、ユキがすでにスズランの血に触れてしまっている以上、対処のしようがない。事実、ユキの身体はスズランの血液に触れてしまった部分が紫色に変色しており、白魚のように澄んでいた手には見るも痛々しい斑色になりつつあった。
 ユキの顔が苦痛に歪む。白かった顔も首元まで変色していた。
 だが、それでも彼女はスズランの手を離さなかった。

「大丈夫。あなたが生きたいと願う限り、私があなたを絶対に死なせない」

 ユキはスズランを安心させるように微笑む。
 本来ならすでにスズランの毒を受け、血を吐き、苦しみのた打ち回った上で息を引き取っているはずだが、ユキは明らかに毒の影響を受けていながらもまだ生きていた。
 彼女は血だまりの中から治療具とスズランのクナイを拾い上げると、スズランの手を握ったまま、器用に彼の衣服を斬り裂いて脱がせていく。彼女の真剣な様子に気圧され、スズランとメノウもそれ以上は口出しすることができずに様子を伺うしかできない。
 スズランの鍛え抜かれた肉体が月夜に晒される。
 オケラ爺に噛まれた痕から流れる出血と、ナナフシの肉鞭を受けてできた打撲痕が痛々しい。皮膚と肉が抉られ、皮下筋肉が顔をのぞかせている。いくつかの骨が折れたことにより肉体の全形に歪みを生じさせ、傷ついた内蔵の影響により口から血が垂れている。控えめに見ても死に体で、むしろよくまだ生きているといった風だった。
 ユキは慈愛のこもった手つきで傷だらけの身体に触れ、毒に侵されることも構わず治療を施していく。裂けた傷口を縫い、出血を止めるために的確に血管を圧迫、骨を正常な位置に戻して添え木で固定する。
十代前半と思われる若さにも関わらず、熟練の医者も舌を巻く手際の良さだった。だが、その作業が決して楽なものではないということは、彼女の表情を見ればわかる。スズランの毒は遅いながらも着々と彼女を侵食しており、口の端から一筋の血が流れていた。

「あっ、ぐうぅぅぅぅっ!?」

 手術を施される痛みに、スズランが苦悶の声を上げて身体を仰け反らせる。麻酔を施されていないのだから当然なのだが、スズランとメノウがはっとした顔になる。

「(スズランが痛がっている!?)」

 痛覚を持たないはずの男が痛みを訴える様子にメノウは混乱したが、彼女以上に混乱しているのはスズラン自身だった。なにせ、今まで失われていた感覚が取り戻されたのだ。久しぶりに感じる痛みという感覚を理解できず、大袈裟なほどに暴れ出す。
 ユキはそんな彼に馬乗りになって身体を抑えつけた。着物が着崩れ、白い太ももが露わになるが気にせず治療を続ける。彼女が人間でないからだろうか。その力は思った以上に強く、力で抵抗しても簡単には抜け出せなさそうだ
 先刻まで判然としていなかった視界が、今は少しずつくっきりしたものへと変わっていっていた。思考も定まってきており、スズランは自分の状況を理解し始める。
 スズランは生まれながらの無痛症ではない。自分の肉体を襲う不思議な感覚が、痛みというものだということも思いだした。痛みが特に強いのは右腕だ。熱を帯びた右手は火でもつけられたような感覚だったが、不思議とそれを辛いとは感じない。
 ユキが治療のためにスズランの傷口に触れる。
 最初こそ触れられた箇所は激しい痛みを伴ったが、治療が進むうちに痛みは痺れるような快楽へと変わっていった。
 脳が蕩けてしまいそうな感覚に、スズランは却って未知に対する恐怖を感じる。理性からユキを引き離そうとしたが、ちょうど一通りの治療を終えたユキが顔を近づけ、治療を施した部位に舌を這わせる。
 快楽というものは過ぎれば暴力になるということを、スズランは初めて経験した。脳に直接麻薬をぶち込まれたような感覚に、身体が混乱して痙攣する。ユキはそんな彼に覆いかぶさるようにして、横たわる我が子にキスをするように優しく、身体の隅々に口づけ舌を這わせていく。その度に得も言われぬ愉悦が貫き、スズランは手籠にされている処女のように情けない甘い声を上げる。
 それは食欲や性欲とは遥か別次元の、まったく未知の体験だ。痛みを感じるのが久しぶりなら、快楽を感じるのも久しぶりなスズランがこの暴力的感情に抗えるはずもない。
 このまま燃え尽きてしまうのではないかという熱情が最高潮に達した時、少女の動きがピタリと止まった。いつの間にか閉じていた目蓋を開ける。眼前、鼻と鼻が触れあいそうな距離にユキの顔があった。
 彼女はやや疲弊した様子で、白い肌には赤みが差し、玉の汗が浮かんでいる。初雪のように美しい銀髪が風に揺れ、赤く輝く瞳がスズランを映していた。

 ――あぁ、少女の外見に惑わされていた。月に照らし出された彼女の姿は、まさしく恐ろしい鬼であり……淫魔のようであった。

「わーわーわー……」

 かなり離れた位置から、両手で顔を覆ったメノウが、指の隙間からばっちりと一部始終を見ていた。顔は隠れていたが耳が真っ赤になっているのが見て取れ、彼女の心情に影響されたのか頭から湯気が出ている。
 そんな幼馴染の様子で急激に冷静さを取り戻したスズランが身体を跳ね起こし、ユキを突き飛ばして身を離す。いくら筋力で負けているとはいえ、技術量で圧倒的な差があるため、冷静に対応すれば引き離すのは容易い。

「い、いきなり求めてくるにしては激しすぎませんかねぇ!?毒を食うなら皿までとは言うけど、こういう食われ方はちょっと予想外すぎるんだけど!?」

 その声には怒りが込められていたが、それは彼女への怒りというより、彼女を拒否できなかった自分への恥ずかしさから来るものだった。
 だが、ユキの方はそんなスズランの反応などどこ吹く風で、しれっとした顔で言う。

「治療しただけよ。副作用で疲労感がものすごいと思うけど、痛む場所はもうないと思うわ。あと、貧血はどうしようもないから、しばらくは激しい運動はしないように」
「いや、あれのどこが治療……」

 言いかけて、全身の痛みが消えうせていることに気付く。傷口はもちろんのこと、骨折の痛みすらも感じられない。彼女の言う通り、長距離をやった直後のような疲労感はあるが、傷口はほぼ塞がっており、古傷の痕すら薄くなっていた。

「傷が深かったから、出血がひどくなりすぎる前に唾液を塗り込ませてもらったわ。これくらいの軽い怪我なら触れるだけでも十分なんだけど……」
「えっ!?んんんんんんっ!?」

 呆然となっているスズランを置いてメノウに近づいたユキが、不意打ち気味に彼女の右手を握り込む。
 その途端、メノウは頬を紅潮させ、内股気味にその場に座り込んでしまった。スズランの元まで聞こえてくるほどに彼女の息は荒くなり、目の端には僅かに涙が浮かぶ。能力が暴走しかけているのか、彼女を中心に熱気が満ち始めていた。

「はい、こっちも終わり。どうも治療中は神経過敏になるみたいで、慣れないうちはこうなってしまうの」

 ユキが手を離すと、メノウは耐えきれなくなったように地面に突っ伏し、ピクピクと痙攣しだす。
 え、えげつない。先刻まで自分もあんな感じだったと思うと死にたくなる。
 スズランは何度か手を開け閉じして感覚を確かめる。先刻までは過敏なほどの痛覚や触覚が戻っていたが、それらは少しずつ失われ、元の無痛症へと戻ってきているのを感じた。

「なるほどねぇ。一時的とはいえ、俺の無痛症すら『治療』したってことか」
「……そう。治せるかと思ったけど、あなたの無痛症や毒は消せなかったのね」

 スズランの毒は体内に鬼胤が移植されているからこそ発生するものだ。それを外科的に切除しなければ消せるわけがない。無痛症は毒で神経がいかれたことによる影響なので、毒と無痛症はワンセットだ。一時的に治すことができても、毒を生成している源たる鬼胤を切除しない限りは完全に治すことは不可能だ。
 彼女もそのことをわかっていたが、とても口惜しそうだった。彼女の額には玉の汗が浮いていたが、スズランの毒による変調は薄れつつある。変色していた肌は少しずつ元の色を取り戻しつつあり、苦しげだった呼吸も落ち着きつつある。
 スズランはようやく、彼女の能力について合点がいった。

「なるほどねぇ。九頭竜の旦那方が血眼になって、おたくを求める理由がわかったぜ。あらゆる怪我を治してしまう力……そんなものを持つ鬼がいるなら誰だって欲しがる」

 鬼や妖怪はそれぞれさまざまな能力を持つが、治癒能力は極めて希少で、かつある意味でどんな能力よりも恐ろしい。
 どれだけ重傷を負ったとしても、死んでさえいなければ一瞬で治療してしまうということは、ほぼ際限のない死兵を無限に製造できてしまうということだ。やり方によっては毒よりも遥かに強力な兵器だ。
 だが、ユキは首を振ってそれを否定する。

「二つ誤解しているわ。これは私自身の力じゃなくて、ある鬼の鬼胤が私の身体に埋め込まれているから使える力なの」
「……おいおい、オタク、鬼だよな?鬼に別の鬼の鬼胤を埋め込んだっていうのか?」
「えぇ、あなたたち半妖と似ているわね」

 鬼胤は鬼が特殊能力を発揮するために必要な臓器だ。結城衆はこれを移植することで鬼の能力を発現させる。だが、鬼に別の鬼胤を移植するなんて話は初めて聞いた。

「そんな話、初耳だけどー、考えてみればどこかがそういう実験をやっていてもおかしくないよねー。結城衆(わたしたち)の上位互換みたいなものだしー」
「…………」

 二人の反応にユキはしばしの沈黙で持って答える。その間、じっとスズランを見つめていたが、理由がわからずにスズランが首を傾げた。
 どうしたのかと問おうとした時、再びユキが口を開いてそれを遮った。

「もう一つは、私の能力のこと。私の能力は傷口を塞ぐだけじゃないわ。私の汗は病を癒し、私の肌は毒を消し、私の血は若返りの薬になる。他にも色々できるらしいけど……私自身どんなことがどこまでできるのか完璧には把握できてない。やり方さえ分かれば、死者を蘇らせることもできるかもね」
「なっ……」

 もしそれが事実だとすれば、それはもう半妖はおろか鬼の領域を逸脱している。スズランとメノウも半妖の中では強い方だが、彼女は別格だ。それではまるで――
 そこまで考えて、一つの可能性に思い至る。

「あんた、まさか……」

 ありえるのか?鬼胤の移植手術は、成功率が極めて低いというのに。だが、彼女が言っていることが真実だとすれば、ユキの能力は普通の鬼胤で発現できる所業ではない。死者の蘇生などという能力は、神の領域に足を踏み入れている。つまり――
 そんなスズランの思いを見破ったかのように、ユキは告げた。

「まるで『鬼神』みたいでしょう?えぇ、そのとおり。私に埋め込まれた鬼胤は、ただの鬼のものじゃない。鬼たちの頂点にして、神たる存在『鬼神』のもの。私はこの世で唯一、鬼神の移植実験に成功した鬼なの」
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登場人物紹介

名前:ユキ

性別:♀

年齢:14

勢力:???

[プロフィール]

一本角の鬼。雪のように白い髪と肌、燃えるような紅玉の瞳を持つ。

囚われの身であるらしく、首輪と手かせをつけられているようだが……。

名前:サクラ

性別:♀

年齢:14

勢力:蓮蛇

[プロフィール]

二本角の鬼。黒髪と長い足が特徴の童女。

自身過剰で能天気だが、蓮蛇勢力で一部隊を任せられる程度の地位はあるようだ。

名前:タマフネ

性別:♂

年齢:32

勢力:九頭竜・霧見一族

[プロフィール]

身長二メートルを超える巨漢。人間と魚を足して二で割ったような外見。

九頭竜勢力の千人長。ユキの護送任務を担当する。

名前:スズラン

性別:♂

年齢:15

勢力:九頭竜・結城衆

[プロフィール]

真夏であっても厚着でいる少年。結城七羅刹の一人。

どれくらい強いかというと、開幕で狸に負けるくらいには強い。

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