夢
文字数 3,118文字
四畳半の部屋と三〇センチ四方の格子窓。それが幼い頃の世界のすべてだった。
窓から見える星々に目を輝かせ、養母が語り聞かせてくれる話に胸を躍らせ、安全な牢獄の中で何も恐れることなく眠る。それだけで私は幸せだった。
「嘘ね。本当はいつだって不満だったんでしょう?満足なふりをしていたのは、そうしていなければ私が悲しむから。あなた自身は生きることを楽しいと思ったことはない」
優しい養母の顔で、私の中の闇が告げる。
そんなことはない!私は自由なんて欲しくなかった。母さんと二人だけで過ごす毎日は、私にとって宝石箱で、それが失われるくらいなら外の世界なんていらなかった!
「でも、あなたは牢屋の外に出てしまった。中の世界だけで満足していたのなら、なぜあなたは、あの日、外へと行ってしまったの?」
ほんの出来心だったのだ。たまたま拾った針金を、大して期待もせず鍵穴に入れてみただけなのだ。その時は養母が眠っていて退屈だったから、ただの遊びのつもりだったのだ。
だけど、偶然に偶然が重なってしまったのか、鍵はあっさりと開いてしまった。
出てはいけないと言われていたけど、養母が眠っている間の少しくらい、ほんの少しだけ外を探検してみてもばれないと思ったのだ。あの頃の私はまだ子どもで、それがどんな結果を産むのかということをわかっていなかったのだ。
「まだ子どもだったもの。生まれて初めての冒険は楽しかったでしょうね。でも、監視役を担っていた私は、それを防げなかった咎で殺された。私はあなたのせいで死んだのよ」
それは事実だったから、その言葉に反論できなかった。四畳半の部屋と三〇センチ四方の格子窓。それで満足していれば、人間奴隷である養母が死ぬことはなかった。養母を殺したのは私だ。その思いは私の心臓を掴み、その苦しさから私は嗚咽を漏らす。
そんな私を、養母が優しく抱き締めた。生前、私にそうしてくれたように。
「いいのよ、ユキ。これ以上苦しまなくていいの。重責を背負って生き続けるのは辛いでしょう?一生囚われの生活は悲しいでしょう?楽になって、天国でお母さんと一緒に、また仲良く過ごしましょう?」
それはなんて魅力的な提案だろうと私は思った。今すぐその言葉に飛びつき、受け入れたいという欲求が湧きあがる。だが、そんな時、いつも思い浮かぶ光景がある。
だから、私は言った。
「だめ。どんなに苦しくても、私はまだ死ねないの」
決意を込めてそう言うと、養母は悲しそうな顔をして言った。
「いいから、とっとと死ね」
優しい表情の養母はそこにはもうなく、般若の顔で私の首を締め付ける。否、母さんは最初からいなかった。目の前にいるのは、私の記憶から作り上げた幻想だ。
瞳に涙が浮かび上がる。首を絞めつけられている苦しみのせいではない。こんなものは母さんを殺した胸の痛みに比べれば大したものではない。
私はただ、本物の母さんには二度と会えないことが悲しかったのだ。
◆◆◆◆◆◆
微かな物音がして、ユキは現実へと覚醒する。
ここ数日ですっかり汚れてしまった衣服は、寝汗でぐっしょりと濡れていた。それが夏特有の気候によるものだけではなく、不吉な夢を見たせいでもあることは明らかだ。しばらくぶりに布槌に戻ってきたせいで、嫌な記憶を思い出してしまった。
ユキは廃屋の床上に横たえていた身体を起こす。廃村にある家の一つで、サクラたちとの合流予定地点だった。野外活動などほとんど経験がないから、緊張で夢見が悪かったのかもしれない。額に手をやると熱を発しており、少し頭痛がした。
「ナナフシ?」
自分とともにこの廃村に来た妖怪に声をかける。彼は自分の護衛兼監視役なので、すぐそばにいるはずだが返事はなかった。
目を覚ますきっかけとなった物音は気のせいだったのだろうか?ユキは身だしなみを気持ちだけ整えると、廃屋の引き戸から外へと出る。九頭竜の追手から隠れるため、灯りを灯すことを禁じられているため、かなり暗い。空には星々が輝いているが、自然が作り出す暗闇を照らしだすにはあまりに心許ない。
夜目は効く方だったので、表に出て周囲を見回してみる。夏の夜は蒸し暑く、ケラやクビキリギリスの鳴き声が木霊していた。
風で木々や草原が薙いでいるだけで、特に気になるものは見当たらない。何事もなさそうだったので、室内に戻ろうかと思ったが、それこそがおかしいと気付いて思いとどまった。何事もないなら、ナナフシたち――蓮蛇の妖怪たちが目につくはずなのだ。
声を上げるか室内に戻るか迷っていたユキの首筋に冷たいものが押し当てられる。それが刃物であるとわかった途端、ユキの身体は石像のように固まってしまった。
「……ユキ殿とお見受けする。我々は鬼神九頭竜に雇われし者。大人しく我々に従い、同行していただけるなら、手荒なまねはしないと約束しよう」
背後から、男がくぐもった声でささやく。
いつの間に背後に回られていたのか気付けなかった。このような事態に慣れておらず、混乱で黙りこんでしまうユキの前に新たに三つの人影が闇から染み出してきた。
黒装束に身を包んだ四人組。顔立ちや身体付きからして、霧見一族ではなさそうだ。それどころか、鬼や妖怪ですらないように見える。
「あなたたち、人間なの?」
問いかけてはみたが、返答はなかった。慣れている者なら人間とそれ以外を見分けるなど容易なことだったが、久方ぶりに人間を見たユキは少し自信が持てない。もっとも、人間であろうが鬼であろうが、ユキが勝てるような相手ではないことは違いない。
ふと、赤い瞳と目が合う。
取り囲んでいる四人はいずれも同じような服装だったので特徴がなかった。その内の一人が身体付きから女性だろうということがわかるていどだ。だが、ユキはそれよりも、一番遠巻きに立っている男から目が離せなくなっていた。
男は特別際立った外見をしていたわけではない。真夏であるにもかかわらず、やけに着膨れしているなと感じるくらいで、他と同様、顔は覆面で覆われており、表情を満足に読み取ることすらできない。ただ、彼の赤い瞳はいやに印象的であり、その瞳の魔力には、ユキの記憶の扉をこじ開けるに十分な力があった。
「……スズラン?」
思わず口を突いて出た言葉に、黒装束の四人組は大小あれ反応を示した。訓練された忍びとは言え、見ず知らずの標的にいきなり名前を言い当てられて動揺したのだろう。
予想が当たったことと偶然の再会を喜ぶ気持ちよりも先に、ユキは背中がぞわりと粟立つのを感じる。なぜこんな簡単なことを予測できなかったのだろう。三国の境界地である布槌といえば、結城衆が活発に動く土地ではないか。そんな場所で九頭竜勢力が急遽兵士を動員するとすれば、結城衆が駆り出されるのは必然だ。
「逃げなさい!命が惜しいのなら、今すぐに!」
喉元に刃物を押し当てられていることも忘れて叫ぶ。誰の味方をして、誰を敵に回すべきかなど考えている余裕はなかった。
先刻外を見回した際、何事もないと誤解した。だが、結城衆が姿を現したことで、彼らが身を隠していたのだとわかった。ならば、彼ら以外にも身を隠している者がいてもおかしくない。いや、私の傍に誰もいないことの方がおかしいのだ 。
ユキの叫びを合図にしたように突然地面が盛り上がり、そこから何か大きなものが飛び出す。不意打ちに反応すること叶わず、スズランは鋭い牙に貫かれた。
窓から見える星々に目を輝かせ、養母が語り聞かせてくれる話に胸を躍らせ、安全な牢獄の中で何も恐れることなく眠る。それだけで私は幸せだった。
「嘘ね。本当はいつだって不満だったんでしょう?満足なふりをしていたのは、そうしていなければ私が悲しむから。あなた自身は生きることを楽しいと思ったことはない」
優しい養母の顔で、私の中の闇が告げる。
そんなことはない!私は自由なんて欲しくなかった。母さんと二人だけで過ごす毎日は、私にとって宝石箱で、それが失われるくらいなら外の世界なんていらなかった!
「でも、あなたは牢屋の外に出てしまった。中の世界だけで満足していたのなら、なぜあなたは、あの日、外へと行ってしまったの?」
ほんの出来心だったのだ。たまたま拾った針金を、大して期待もせず鍵穴に入れてみただけなのだ。その時は養母が眠っていて退屈だったから、ただの遊びのつもりだったのだ。
だけど、偶然に偶然が重なってしまったのか、鍵はあっさりと開いてしまった。
出てはいけないと言われていたけど、養母が眠っている間の少しくらい、ほんの少しだけ外を探検してみてもばれないと思ったのだ。あの頃の私はまだ子どもで、それがどんな結果を産むのかということをわかっていなかったのだ。
「まだ子どもだったもの。生まれて初めての冒険は楽しかったでしょうね。でも、監視役を担っていた私は、それを防げなかった咎で殺された。私はあなたのせいで死んだのよ」
それは事実だったから、その言葉に反論できなかった。四畳半の部屋と三〇センチ四方の格子窓。それで満足していれば、人間奴隷である養母が死ぬことはなかった。養母を殺したのは私だ。その思いは私の心臓を掴み、その苦しさから私は嗚咽を漏らす。
そんな私を、養母が優しく抱き締めた。生前、私にそうしてくれたように。
「いいのよ、ユキ。これ以上苦しまなくていいの。重責を背負って生き続けるのは辛いでしょう?一生囚われの生活は悲しいでしょう?楽になって、天国でお母さんと一緒に、また仲良く過ごしましょう?」
それはなんて魅力的な提案だろうと私は思った。今すぐその言葉に飛びつき、受け入れたいという欲求が湧きあがる。だが、そんな時、いつも思い浮かぶ光景がある。
だから、私は言った。
「だめ。どんなに苦しくても、私はまだ死ねないの」
決意を込めてそう言うと、養母は悲しそうな顔をして言った。
「いいから、とっとと死ね」
優しい表情の養母はそこにはもうなく、般若の顔で私の首を締め付ける。否、母さんは最初からいなかった。目の前にいるのは、私の記憶から作り上げた幻想だ。
瞳に涙が浮かび上がる。首を絞めつけられている苦しみのせいではない。こんなものは母さんを殺した胸の痛みに比べれば大したものではない。
私はただ、本物の母さんには二度と会えないことが悲しかったのだ。
◆◆◆◆◆◆
微かな物音がして、ユキは現実へと覚醒する。
ここ数日ですっかり汚れてしまった衣服は、寝汗でぐっしょりと濡れていた。それが夏特有の気候によるものだけではなく、不吉な夢を見たせいでもあることは明らかだ。しばらくぶりに布槌に戻ってきたせいで、嫌な記憶を思い出してしまった。
ユキは廃屋の床上に横たえていた身体を起こす。廃村にある家の一つで、サクラたちとの合流予定地点だった。野外活動などほとんど経験がないから、緊張で夢見が悪かったのかもしれない。額に手をやると熱を発しており、少し頭痛がした。
「ナナフシ?」
自分とともにこの廃村に来た妖怪に声をかける。彼は自分の護衛兼監視役なので、すぐそばにいるはずだが返事はなかった。
目を覚ますきっかけとなった物音は気のせいだったのだろうか?ユキは身だしなみを気持ちだけ整えると、廃屋の引き戸から外へと出る。九頭竜の追手から隠れるため、灯りを灯すことを禁じられているため、かなり暗い。空には星々が輝いているが、自然が作り出す暗闇を照らしだすにはあまりに心許ない。
夜目は効く方だったので、表に出て周囲を見回してみる。夏の夜は蒸し暑く、ケラやクビキリギリスの鳴き声が木霊していた。
風で木々や草原が薙いでいるだけで、特に気になるものは見当たらない。何事もなさそうだったので、室内に戻ろうかと思ったが、それこそがおかしいと気付いて思いとどまった。何事もないなら、ナナフシたち――蓮蛇の妖怪たちが目につくはずなのだ。
声を上げるか室内に戻るか迷っていたユキの首筋に冷たいものが押し当てられる。それが刃物であるとわかった途端、ユキの身体は石像のように固まってしまった。
「……ユキ殿とお見受けする。我々は鬼神九頭竜に雇われし者。大人しく我々に従い、同行していただけるなら、手荒なまねはしないと約束しよう」
背後から、男がくぐもった声でささやく。
いつの間に背後に回られていたのか気付けなかった。このような事態に慣れておらず、混乱で黙りこんでしまうユキの前に新たに三つの人影が闇から染み出してきた。
黒装束に身を包んだ四人組。顔立ちや身体付きからして、霧見一族ではなさそうだ。それどころか、鬼や妖怪ですらないように見える。
「あなたたち、人間なの?」
問いかけてはみたが、返答はなかった。慣れている者なら人間とそれ以外を見分けるなど容易なことだったが、久方ぶりに人間を見たユキは少し自信が持てない。もっとも、人間であろうが鬼であろうが、ユキが勝てるような相手ではないことは違いない。
ふと、赤い瞳と目が合う。
取り囲んでいる四人はいずれも同じような服装だったので特徴がなかった。その内の一人が身体付きから女性だろうということがわかるていどだ。だが、ユキはそれよりも、一番遠巻きに立っている男から目が離せなくなっていた。
男は特別際立った外見をしていたわけではない。真夏であるにもかかわらず、やけに着膨れしているなと感じるくらいで、他と同様、顔は覆面で覆われており、表情を満足に読み取ることすらできない。ただ、彼の赤い瞳はいやに印象的であり、その瞳の魔力には、ユキの記憶の扉をこじ開けるに十分な力があった。
「……スズラン?」
思わず口を突いて出た言葉に、黒装束の四人組は大小あれ反応を示した。訓練された忍びとは言え、見ず知らずの標的にいきなり名前を言い当てられて動揺したのだろう。
予想が当たったことと偶然の再会を喜ぶ気持ちよりも先に、ユキは背中がぞわりと粟立つのを感じる。なぜこんな簡単なことを予測できなかったのだろう。三国の境界地である布槌といえば、結城衆が活発に動く土地ではないか。そんな場所で九頭竜勢力が急遽兵士を動員するとすれば、結城衆が駆り出されるのは必然だ。
「逃げなさい!命が惜しいのなら、今すぐに!」
喉元に刃物を押し当てられていることも忘れて叫ぶ。誰の味方をして、誰を敵に回すべきかなど考えている余裕はなかった。
先刻外を見回した際、何事もないと誤解した。だが、結城衆が姿を現したことで、彼らが身を隠していたのだとわかった。ならば、彼ら以外にも身を隠している者がいてもおかしくない。いや、
ユキの叫びを合図にしたように突然地面が盛り上がり、そこから何か大きなものが飛び出す。不意打ちに反応すること叶わず、スズランは鋭い牙に貫かれた。