第4章 アイ ラブ ザ ワールド―(2)

文字数 2,439文字

 企画の仕事は楽しい。自分の思い描く商品や、それを後押しするコピー、デザイン、イベントなど、あらゆるものを形にしていく。そう、想像を創造している。あ、これもコピーに使えそうだ。思いついたものを、私はひたすらノートに書き留めるようにしている。どんなささいなことでも、どんなくだらないことでも。
 残念ながら実現しなかった企画のネタも、このノートにはびっしりと書き込まれている。もう何冊くらい部屋に積み上げられているかわからない。でも、崩れそうなそのタワーを見るたびに、私の胸はどこか熱くなる。
 これが私の生きてきた道なんだと、形にできている気がする。まさに想像を創造した結果だと思う。ああ、これは本当に使えそうなコピーだな。
 ふふふ、と息が漏れる。毎日が楽しい。自然と笑みがこぼれてしまう。想像を創造。これだけ突然聞いたらおやじギャグみたいだけど、きちんと書き留めておこう。シャーペンをさらさらと、まっさらなページの上で走らせる。
 さらさらさら、さらさらさら、さ、までいったところで、字を間違えてしまった。ああ、と思わずつぶやいてしまう。その声に反応して、周りの視線がさっと私に集まる。顔が熱い。みんな、そこまで注目しなくていいのに。
 直さなきゃ、と思ったところで、手元に消しゴムがないことに気づく。今度は声に出さずに、ああ、と心の中だけで唱える。
 おかしい。この前、キタさんにもらいに行ったばかりなのに。いいかげんにしてくださいと言われたばかりなのに。
 昨日までは普通に使って、ちゃんと置いておいたはずだけど、もう私も年なのだろうか。まだ角が減っただけの白い消しゴムを思って、申し訳なくなってくる。これから活躍してくれるはずだったのに、私の不注意でごめんね。
 目を閉じて、両手を合わせて、どこかへ旅立ってしまった消しゴムへ思いを馳せる。周りが何かひそひそとささやいているけど気にしない。集中して、余計な雑念を払い落として、ごめんねともう一度強く思った。
 やがてひそひそ話が、くすくすと笑い声に変わった頃、私は勢いよく立ち上がった。がたん、と椅子のきしむ音が大きく響く。
 それを合図に、くすくすという笑い声がぴたりと止まる。水を打ったように、沈黙が耳を貫く。
「総務へ行ってきます」
 周りに軽く、でもきちんと会釈をしてから、企画フロアを出る。廊下で少し立ち止まると、またひそひそと話し声が始まる。どれだけ耳をすませても、その内容は拾えずに、ひそひそひそひそとしか聞こえない。
 仕方なく私は歩きだした。キタさんに何と言おう。許してくれるだろうか。



「え?」
 案の定というか、私のせいなのはもちろんなのだけど、キタさんはわかりやすく眉をひそめた。私の姿を確認した瞬間から、苦虫をつぶしたような顔をしていたので、きっとキタさんもある程度の予想はしていたはず。でも、私が改めて「消しゴムをお願いします」と申しでたところで、その表情はさらに険しいものになった。
「アズマさん、つい先日も消しゴムを取りにきましたよね?」
 詰問の態勢に入ったキタさんは、とても怖い。いつぞや給湯室で誰かが『鬼のキタ』と揶揄していたっけ。あれは誰だったっけ。ミナミくんだったかもしれない。
「アズマさん、聞いてます?」
「あ、はい。ごめんなさい」
 うっかり別の方向へ思考をめぐらせていると、それを見透かしたかのようにキタさんの追及が入る。ついつい気がそぞろになりがちだ。いけない、しっかりしなきゃ。
「そのときお伝えしましたよね? これが最後ですよと。あれはイエローカードの意味合いですよ?」
「はい。本当にごめんなさい。申し訳ないです」
 弁解の余地もない。だって、どう考えても私が悪い。何度も何度も備品を粗末にしてしまって、キタさんにも不愉快な思いをさせてしまっている。キタさんはあきれたようにため息をつく。
「アズマさん、いつもいつもとにかく謝ってくださいますけど」
 言い訳する立場ではない。謝罪をすれば許されるわけじゃないだろうけど、それでも悪いことをしたら謝るほかない。
「何か理由でもあるんですか?」
「え?」
 キタさんはいつの間にか鬼の形相から一転、困ったように私を見つめている。まるで小さい子どもを相手にしているみたいに。変なの。私のほうがよっぽど年上のはずなのに。
「理由があるなら教えてください。いつも何も聞かずに、いろいろと決めつけてしまっていたから」
 そっと目を伏せるキタさんは、とてもつらそうに見えた。こんな彼女は初めてだ。私は面食らった。『鬼のキタ』の異名を持つ女性とは思えない。ミナミくんが今のキタさんを見たら、何と言うだろう。ギスギスしている彼女よりもよっぽど、
「私も悪いなと思って。ちゃんと聞きますから。理由があるなら」
「理由なんてないですよ」
 今の彼女はやりにくい。
 私はきれいに笑ってみせた。毎朝、鏡の前で笑顔の練習をしている。口角を上げて、でも歯は見せすぎずに。顎を引いて、でも背筋はしゃんと伸ばして。笑顔は無敵だ。笑顔はすべてを解決してくれる。
 にっこりと微笑んでみせると、キタさんはまだ何か言いたげだったけど、「そうですか」とつぶやいて、新しい消しゴムを手渡してくれた。
「ありがとうございます」
 腰から角度をつけて、お辞儀をする。両手はぴんと指先まで神経を張って、軽く体の前で合わせる。左手を上、右手を下にそろえる。これも毎朝、練習をしている。我ながらうまくできたんじゃないかな?
 顔を上げて、目が合ったキタさんは、なぜかかわいそうな人を見るような悲しみを携えていた。
 何だろう。嫌だな。
 ほんの少し負の感情が頭をよぎって、私は慌てて笑顔でそれを振り払った。キタさんはニシくんに似た、ぎこちない笑みを浮かべる。
 受け取った消しゴムをぎゅっと握りしめる。二度となくさないように。もうここに来なくて済むように。
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