第3章 アイ ラブ ワーク―(2)

文字数 5,067文字

 マンションに着くと、予告どおり恋人は帰っておらず、とりあえずは一人で適当に夕飯を済ませた。缶ビールをちびちび飲みながらテレビをつけると、幼児連続殺人事件の犯人が死刑判決を下されたというニュースが流れた。キタあたりが喜びそうなニュースだ。殺人犯を死刑求刑する人間も、殺人を犯しているという発想をするのは俺だけなのだろうか。野蛮な行為をしているという意味では同じではないのか。
 理由なく罪のない子どもを殺めた人間と、罪を犯した人間を罰するべく殺める人間と、背景は異なれど選んでる道は結局同じだ。でも、どんなニュースでも動機をやたらと追究する風潮を見ると、きっと大事なのは背景だと声高に叫ぶ輩が多いのだろう。子どもを愛しているキタなんかはそうなのだろう。
 頭が少しくらくらとしてくる。酔いが回るのが、年々早くなっている。安上がりで済むのはよいが、自分の年齢を痛感してしまう。
 あっという間に映像が切り替わり、次のニュースが機械的に流れる。渦中の法案について、識者たちが物知り顔で論議している。無意識に小さく舌打ちをするのと、携帯が鳴るのとは同時だった。
「もしもし」
『おう、もしもし。俺、俺』
「詐欺かよ」
 向こうの明るい口調につられて、こちらも自然と笑みがこぼれる。大学時代からの悪友で、コンサルタントとして起業成功したスズキだった。昔からのノリはそのままに、毎日仕事仕事でしんどくも充実した日々を過ごしているらしい。人づてにお互いの近況は何となく知ってはいたが、連絡を取り合うのは久しぶりだった。
 一週間ほど前から、俺のほうから様子伺いのメールをちょこちょこ送っていた。それで近いうちに一度会おうというところまで話は進んでいたのだが、もともと筆まめでないスズキは痺れを切らしたようで、ついに直に連絡をよこしてきたようだ。
「悪いな。俺から連絡してたのに」
『いいって。むしろいきなり電話して悪い。メールでのやり取りがまどろっこしくて』
「昔からせっかちだもんな、おまえ」
 もうお互いの性分や癖、好みや許せないことなどは基本情報として頭に入っている。スズキは俺の性癖も知っている。俺が今、恋人と同棲していて、その恋人が同性だということも知っている。家族にさえもいまだカミングアウトしていない俺にとって、事情を知りながらも変わりなく接してくれる、数少ない友人の一人だった。
 そんなスズキにほのかな恋心を抱いたこともあった。それだけはスズキも知らない、俺が墓場まで持っていく所存の事実だ。
『むしろ今いいか? 彼氏もいるのか?』
「いや、向こうはまだ仕事。多分、今日は遅くなるよ。つーか、何このやり取り。浮気のお誘い?」
『んなわけねえだろ』
 電話越しにスズキのからからという気持ちのよい笑い声が届く。ただの冗談だ。冗談からほんの少しはみ出すようなことがあってもいいと、俺はこっそり思っているけど。
『おまえが連絡くれたあれ、仕事斡旋の件』
「ああ」
 もちろん、十中八九その用事だということはわかっている。起業とまではいかなくても、俺も独立してフリーランスでやっていこうと思うのだ。主に翻訳の仕事を。
『一件、マッチしそうなクライアントがいるんだよ。おまえが書いてくれた英語での商品紹介コラム、試しに見せたらセンスがいいってよ』
「マジで?」
 正直、商品を売り込むコピーを考えるのには自信があった。長く営業をしていると、どんな謳い文句が顧客に響くかはつかめてくる。あとは見せ方の問題だ。
 ただ、俺の英語力が評価されるかについては不安があった。今の職場じゃあ、英語を使う場面なんて皆無だし、英語を取り入れようという風潮もない。ひたすら独学で勉強するしかなかった。
 英会話教室に足しげく通ったり、たまに長期休暇を取って、プチホームステイの真似事もやった。試験も年に一回は必ず受けた。それでも、何せ実践で使った試しがないために、どこまで通用するのかは読めなかった。
『マジマジ。翻訳の仕事には程遠いかもしんないけどさ、とりあえずは英語を生かした仕事ってことでやってみてくれないか?』
 素直に興奮が湧き上がった。血が熱くなるのがわかった。
「もちろんやるよ。やらせてもらう。ありがとう!」
 前のめりになっている俺に気づいたのか、スズキは『落ち着けよ』と笑っている。そのおかげで、今から勇み足になってはいけないと冷静さを取り戻す。スズキは俺の扱い方をよく心得ている。付き合いの期間だけで言えば、恋人よりもずっと長いのだ。
 それから簡単な仕事の流れの説明を受けたあと、お互いの近況と愚痴をこぼし合った。スズキは仕事が順調で、順調すぎて彼女ができないらしい。今は彼女よりも、ゆっくり眠れる時間が欲しいとぼやいていた。
 俺は恋人とそれなりにうまくやっていること、職場は相変わらず時代遅れで、うさんくさい商品ばかりを開発していること、職場のキタという女とはどうにも肌が合わないということ。
 軽快に会話を弾ませていると、料理番組を映しだしているテレビに目がいく。不意にスズキが電話をかけてくる直前のニュースを思い出す。
「そういえば、この国もいよいよ危ないかもなあ」
『は? 何だよ、急に』
 話の腰を折られたスズキが素っ頓狂な声を出す。裏返ったような調子がおかしくて、俺は笑いを噛み殺しながら「ほら、あの法案」と単語だけで伝える。スズキもすぐに「ああ、あの法案」と応じる。そのくらい、よくも悪くも世間の関心の対象になっているということだ。
「今にも戦争だのテロだの始まりそうだよな」
『確かに。こんだけデモ活動が起こってるのに、聞く耳持たずで成立しそうだな』
「どいつもこいつも好戦的なくせに、自分だとか家族の身を守るとか大義名分ばっか押しだしやがって」
 休憩室から聞こえてきたキタとニシくんの会話。キタの持論に吐き気がしそうだった。家族家族って呪文のように唱えれば、それで何もかも許されると思っているかのような振る舞い。何度思い返しても、胸のあたりがもやもやする。
『何だよ、熱いな。でもまあ、おまえも独立志向だし、ちょうどいいんじゃない?』
「え?」
『この国を捨てて、世界へ羽ばたくにはちょうどいい』
 スズキは笑って、『じゃあ、そろそろ。詳細はまたメールで』と通話を切った。ツーツーという音を聞きながら、しばし考えた。
 俺は自分のことだけ考えて、危険から一抜けしようとしてるのか。それじゃあ、キタとあまり変わらない。
 首を振って、懸念を払い落とす。俺は違う。グローバルな視点を持って世界を見渡して、つながっていきたいという思いは、キタの利己主義な被害者意識とはまるで違う。
 やがて料理番組も終わり、また隙間を縫うようにニュースが流れる。大規模なデモの様子だった。空撮での映像は、わらわらと群がる蟻のように見える。
 蟻の力をなめるなよ、と心の中だけでつぶやいて、俺は机を片づけてから英語のテキストを開いた。恋人が帰ってくるまで、たっぷり時間がある。でも、時間は使わなければ全くないのと同じだ。
 新たなスタートへとはやる気持ちを抑えながら、集中力を深めていった。



 キタが息子のトラブルだとかで、青ざめながら帰っていくのを見て、いい気味だと思ったのは間違いない。でも、それは当然のことだ。自分の子どもだけは正しくて、自分の子どもだけは大丈夫と思うのは、大きな勘違いだ。ようやく気づいたか、という優越感があふれて、俺は一人でにやけてしまっていた。
 受け取ったばかりのボールペンをくるくると回しながら、鼻歌でも歌いたくなるほど足取りは軽かった。ボールペンはもう腐るほど、机の引き出しの中で眠っている。それはあの女に対する、ささやかな反抗のつもりだった。
 でも、一本、また一本と増やすたびに、自分がどんどんつまらない人間になっていくのもわかった。だが、今日でこれ以上数が増えることはなくなるかもしれない。
 ボールペンの回転速度を上げて、給湯室を通り過ぎようとしたところで、水を飲んでいたらしいニシくんが慌てたように声をかけてきた。
「ミナミさんっ……げほっ、ごほっ」
 むせながら必死で呼び止めようとしている、こんなニシくんはめずらしい。何か仕事上のトラブルでもあったのだろうか。キタの制止を振り切って、お詫びを入れたという顧客がまた何か蒸し返してきたのだろうか。咳が収まるまで、俺は「落ち着けよー」といつもどおりの陽気なキャラで待ち構えた。
「すみません、お忙しいところ引き止めてしまって」
「いやー、全然忙しくないから大丈夫」
「え? そんなことはないでしょ」
 そこで神妙な面持ちだったニシくんは、少しだけ表情を崩す。ニシくんは肩に力が入りすぎているように思う。もっと適当でいいのに。もっと手を抜いていいのに。こんな仕事。
「あの、キタさん……何かあったんですか?」
 おずおずと切りだした問いかけは、全く予想外のものだった。どういう意図があって、そんな質問が飛びだすのだろう。探ろうとしてみても、ニシくんの目は真剣そのもので、字面以上の真意はつかめない。
「何か子どものトラブルがあったみたいで、慌てて帰ったけど?」
 試すように応じると、そんなつもりはないのに言葉にトゲが生える。ニシくんはそれを敏感に感じ取ったようで、俺の機嫌を損ねないようにあたふたと言葉を選ぶ。
「あ、いや、込み入った事情ならいいんです。すみません、興味本位で首を突っ込むようなことを言って……」
 ニシくんは人の顔色を窺うくせに、人と人との関係性には鈍感すぎる。どうも俺がキタのプライベートを守っていると勘違いしていそうだ。そんなわけがない。よりにもよって最低の勘違いだ。あまりにも的外れすぎて、放っておけばいいものをついつい軌道修正したくなる。
「別にそんな気遣わなくていいよ。俺もよく知らないだけだし。ただ、彼女の子どもが何かしでかしたらしいよ」
 言わなくてもいいあいまいな情報を伝えたくなるのは、キタの評判をさりげなく落としたいからだ。浅ましいのはわかっている。でも、止められない。
「親バカだからな、あの人。自分の子どもが何かされるって杞憂してても、何かするとは思いもしてなさそうだもん」
 悪意は一度こぼしたなら、次から次へとあふれだしてしまう。そこで自分の中にこれだけ膿となって溜まっていたことを思い知る。腐りきった臭いに、思わず顔をしかめてしまうほどに。
 しかし、それが完全に出てしまう前に、ニシくんは蓋をしようとする。
「でも、キタさんって、案外見てるところは見てるんだなって思いました。確かにそれが自分のことと結びついてないのが問題なんですけど」
 ニシくんがこれだけ理路整然と物を言うのを、俺は初めて見た。その姿に驚くと同時に、キタへの意外すぎる評価が俺の胸をざわつかせた。何を言ってるんだ、ニシくんは。別に褒めちぎっているわけでもなく、とても客観的な分析に聞こえる。それでも、何を言ってるんだ、こいつは。
「見てるって、どこを見てるんだよ」
 突然の重低音に、ニシくんは目を丸くした。当然だろう。俺は普段、阿呆みたいに声をワンオクターブくらい高めに設定して、いつも阿呆なふりをしている。決して真面目にならない。決して本気にならない。それが俺の、このつまらない職場でのルールだった。
「自分のことしか見てないだろ」
 でも、こめかみに力が入る。歯がゆさで頭に血が上る。
「もしくは自分の家族のことしか頭にないだろ」
 許せない、俺が決めたルールを破るのは俺じゃなくて、
「それ以外のことなんか認めないだろ、あの女は」
 俺が認めていない人間だなんて。
 青筋を立てた俺を見て、ニシくんはすっかりと言葉を失った。じっとりと汗を浮かべて、挙動不審になる彼を見てもなお、俺の怒りは引かなかった。俺は俺に対しても憤りを抱いていた。
 こんなにも、俺はキタのことを気にしていて、感情に荒波を起こせるなんて。
 俺が途方もない怒りの着地点を見つけるより早く、ニシくんは「すみませんでした」と短い謝罪でそそくさと隙間をすり抜けていった。その言葉で、一瞬怒りがめくれたように見えても、裏側もまだ怒りのままで、俺は軽快に回していたはずのボールペンを折らんばかりの強さで握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
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