第3章 アイ ラブ ワーク―(5)

文字数 2,233文字

 今月の売上成績もまあまあだった。ノルマを落とすわけでもなく、かといって目に見えるほど右肩上がりでもない。後輩のあこがれになるほどではないが、上司に叱責されることもない。ここ数年の自分の営業成績を見て、これが俺の生き方なのかと納得できた。
 それでも資料を整理していると、伊達に五年そこそこやってきたわけじゃないと胸を張れる自分もいた。営業先でのやり取りを書き留めたノートブック。得意先から集めたアンケート用紙。商品別にPR事項をまとめたクリアファイル。勲章までいくと大げさだが、こっそり誰かに自慢したくなるくらいのネタには十分なる。
「あれ? どうしたの、ミナミくん。断捨離?」
 しみじみと机の上に積み上げた自分の歴史を振り返っていると、のんびりとした口調で微笑んでいるアズマさんが近寄ってきた。
「あー、お疲れ様です」
「ふふ、お疲れ様。すごい量だね。整理整頓すると、仕事もはかどるもんね」
 アズマさんは目を細める。三日月のような隙間から漏れる光は純粋そのもので、この人には敵わないなと肩をすくめてみせる。
「俺、退職するんです」
「え?」
 三日月が突然、満月に程近くなる。つい二日前の話だが、俺は上司に退職届を提出した。理由を聞かれたし、引き止められもしたが、適当に愛想を振りまくとすんなり了承してくれた。社交辞令なんて、せいぜいこんなもんだ。じゃあ本気で残留を望まれたら、それはそれで応えられないわけだから、俺もずいぶんと勝手な人間だ。
 退職届を出した日は、同僚にも驚かれたし、部署の違う人間にもいろいろと尋ねられた。恐る恐る話しかけてくるニシくんには、この前の悪態を謝るついでに、笑い話のようにいろいろとしゃべった。キタにも呼び止められ、「うちの会社にとっては痛恨の一撃ね」と半ば真剣に言われた。俺はにやりと笑ってみせ、「あんたがいれば大丈夫でしょ」と返してやったが、「部署が違うし」と軽くかわされた。向こうのほうが、一枚も二枚も上手だったようだ。
 そんなざわついた二日間を経て、通常運転に戻った頃にアズマさんは一人驚いている。周りの状況に興味がないのか、飛び抜けたマイペースなのか、どちらにしてもこの人は三枚も四枚も上手なのだろう。
「そうなんだ。寂しくなるね」
「いえいえ、そんなー。ありがとうございます」
 退職理由だとかはすっ飛ばして、すんなりと事実のみを受け止める。アズマさんは誰に対してもこうなのだろうか。恐ろしいほどの平等性だ。ずっとずっと、ニシくんよりも、キタよりも俺よりも長い間、この会社に勤めているこの人には、いったい世界はどんなふうに映っているのだろう。最後だし、ちょっとくらい覗き見したいという欲が顔を出した。
「そういえばアズマさん。あれ、どう思います?」
「あれって?」
「今、世間をお騒がせしている、あの法案ですよ」
「どう思うか……うーん、難しいなあ」
 アズマさんはちょっと首を傾げてみせる。本当に迷っているのか、実際は何も考えていないのか、その表情からは読み取れない。「うーん、うーん」と右へ左へ首を動かすアズマさんは、まるで操り人形みたいで少しおかしかった。
 変な質問をしたと反省して、話題を切り上げようとしたところで、アズマさんは答えを出した。とびきりの笑顔と一緒に。
「みんな、もっと仲良くすればいいよね」
 きれいに笑うアズマさんには、一点の迷いも曇りもなかった。小学生みたいな答えを真面目にひねりだして、満足そうに「ね?」と同意を求めてくる。
 俺は鳥肌が立っていた。確かにそのとおり。おっしゃるとおりなのだけど、あまりの無垢さ、あまりの考えのなさに寒気がした。でも、それは決して伝えられない。アズマさんは大真面目だからだ。
「そう、ですね。すみません、変なこと聞いちゃって」
「ううん、気にしないで。あ、新しい仕事は決まってるの?」
「あ、まあ。フリーで働こうと思ってて」
「すごい。ミナミくんならできるよ。頑張ってね」
 にっこりと完璧な笑みをもって、アズマさんは軽やかに立ち去っていく。俺はその姿を見送ってから、再び荷物の整理に取りかかる。応援されたはずなのに、不思議な違和感を抱えながら。
 そのとき資料の山に埋もれていた携帯電話が、存在を主張するかのようにブーブーと震えだした。その振動で崩れ落ちそうなファイルを慌てて受け止めて、携帯電話を救出する。画面を確認すると、メールの受信を知らせていた。
『法案通ったな。いいタイミングで辞めたんじゃないか』
 まさに先ほど話題にしていたところだ。この結果を受けてなお、アズマさんはきっと同じ答えを出すのだろう。画面をスクロールすると、メールには続きがあった。
『でも、どこへ行っても安全な場所なんてないかもしれない。俺と探しに行かないか』
 息が詰まった。俺だけ時間が止まった。穴が開きそうなほど、その文字の羅列を見つめた。文字が少しだけにじむ。それは穴が開く気配ですらない、ただの俺自身の問題だ。
 穴は開かない。安全な場所への抜け道は、そう簡単には見つからない。今のこの世界では。
「じゃあ、ここにいても同じかもしれないな」
 俺のつぶやきは、メールの文字にはならず、誰にも聞き取られることもなく、ただ自分の中へ重く沈んでいって、やがて溶けて消えた。

                                  ―第4章へつづく―
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