第1章 アイ ラブ ア ペン―(1)
文字数 2,894文字
「さっさと死刑にしちゃえばいいのに」
ばたばたと慌ただしい午前を終え、折り返しの貴重な昼休みの時間に似つかわしくない、物騒な言葉が耳に飛び込んできても、もう僕はそれほど驚かなかった。
休憩室の大きな窓から見える空は青く、雲は穏やかにぷかぷか浮かんでいる。こういうありきたりな情景を、世間の目を引く言葉で表現できればなあ、と栓なきことを今日も思う。毎日が繰り返しなのだ。ちょこちょこと違うところはあっても、八割方同じならば、もう目新しい発見なんてない。そうあきらめてしまっている自分は、やっぱり才能なんてないんだろう。
小さくため息をつくと、目の前の弁当も冷め切ってしまう気がする。毎朝、せっせと作ってくれる彼女に申し訳ないと思いつつも、塞ぎ込んだ気分は箸の進むスピードを鈍くさせる。
「信じられない。これ以上、何を審議するの? こんな極悪人、許せないわ」
きんきん、と耳に響く甲高い声が、いっそう僕の食欲を減退させる。これも毎日の繰り返しで麻痺しているはずなのに、やっぱりいまだにどこか慣れ切っていないのは、この言葉に何か違和感を抱いているからなのだろう。
でも、やっぱりその違和感を言葉にはできない。
「ねえ、ニシくんもそう思うでしょ?」
自分のふがいなさに本気でげんなりするより先に、少し離れた席からキタさんが鋭い声をかけてくる。一瞬、そのまま箸を落としそうになったけど、あわてて握りなおす。
「へ?」
「へ? じゃなくて、ほら、見てなかったの? 今のニュース」
そう言って、キタさんは休憩室の隅でしゃべるテレビを指差す。正確には、お昼のニュースを読み上げる、若いキャスターを指差している。
「あ、ああ、あの殺人事件の犯人ですか」
画面の端に出ているテロップで、話の内容を察する。言い当てたときには、もう次のニュースへと切り替わろうとしていたが、キタさんはその話題を終わらせようとはしない。
「そう! 信じられる? あんなに小さい子どもを殺しといて、まだ死刑判決が出ないなんて。おかしくない?」
「はあ、まあ……」
「許す余地がないじゃない?」
それを決めるのは、果たしてキタさんなのだろうか。そう言いたいけれど、それだけじゃ何か言い足りない気がして、結局僕は言葉を濁して黙り込んだ。こういうときに無言を貫くのは、圧倒的に僕の知識や語彙が不足しているせいだ。もっともっと本を読まなければいけない。
僕がひそかに、これもまた毎日繰り返しの決意をする中で、キタさんは次から次へと報道されるニュースに、いちいち感想を叫んでいた。
「あら、気の毒ね」やら「かわいそうに」やら、まるで小学生でも言えそうなコメントを、それでもためらいなく口にできるというのは、もしかしたらすごい才能なのかもしれない。だけど、それがいったい何の効果を発揮するのかと問われれば、また僕は言葉に詰まるわけで、やっぱりただの性格だろうな、というところに落ち着く。
もそもそと弁当を食べていると、青い空に飛行機雲が走るのが見えた。くるくる、と旋回して、その白い線はやがてハートを描く。
へえ、粋なことをするなあ。でも、何で?
その疑問への答えは持ち合わせておらず、自問で終わる。やっぱり本だ。本をたくさん読まなきゃいけない。
そう思いつつも、実行できる自信はまるでなかった。白いハートがあっけなく空に消えるように、僕の決意なんていつもあってないようなものなのだ。
午後も与えられたリストを上からつぶしていく。僕の仕事はひたすら電話をかけてかけてかけまくること。いわゆる電話営業だ。
このご時世、まだそんな古臭いことを、と揶揄されそうだし、僕も会社の人間の大半もそう思っているのだけど、古臭いことこそ今響くんだと信じてる少数派が、すべてトップにいる人たちだから仕方がない。
ほぼほぼ、声色だけでもわかるくらい拒絶反応をきっちりと示され、あっけなく門前払いされるのがオチだ(門前までも行けてないけど)。最初は何度も心が折れそうになったけど、これこそ毎日の繰り返しでだんだんと何も感じなくなってくる。タフになったのとは、きっとまた違う。何かが擦り切れてしまったような感じ、これを何と言うのだろう。
あとはどうせ正社員じゃないし、という割り切りは、多分に影響していると思われる。雇用期間の決まっている時給制のパートタイマー。待遇はよろしくないけど、そのぶん責任感を持つ必要もさほどない。あと、仕事に対する誇りのようなものも。
「ただいま戻りましたー」
陽気な声でフロアに入ってきたのは、営業のミナミさんだ。電話営業を推奨しているけど、古臭さを重視する体制はもちろん外回りの営業も必須としている。ミナミさんは五年目に差しかかろうとしている中堅だ。
「あ、お疲れ様です」
自分の席の横を通り過ぎようとしたミナミさんに、挨拶をする。ミナミさんは明るく、「おお、お疲れ様」と返してくれる。
そのまま立ち去っていくかと思われたが、ふとミナミさんは足を止める。ついでにネクタイをちょっとゆるめて、僕の手元を細い目でじっと見つめてくる。
「な、何ですか」
「それ、今日のノルマ?」
僕の顧客リストについて聞いているようだ。「はい」とうなずくと、「それ、応対マニュアル?」と、さらに尋ねてくる。
「はい、そうですけど」
「ちょっと見せて」
そう言って、ミナミさんはマニュアルをぱらぱらとめくりだす。そこに書いてあるのは、商品に関する差しさわりのない定型文と、よくあるQ&Aなんかだ。ミナミさんが今さら目を通したところで、新鮮な情報は何もない。なのに、ミナミさんは割と真剣な顔をして、時折眉間にしわを寄せている。
「あ、あの、何かありましたか」
おずおずと不安を口に出すと、それを合図にミナミさんはいつものほがらかな表情に戻る。
「いやー、ごめんごめん。何もないよ。ありがとうー」
間延びしたような口調で、そっとマニュアルを返される。ミナミさんは鼻歌を歌いながら、そのまま立ち去っていく。
でも、よくよく聞くと、適当なメロディーに乗せたその歌詞は、
「なーにーがー、満足率がー、九十パーセントー」
会社の謳い文句のことを言っていた。ふんふん、と楽しげな様子とは、かなりのギャップがあって、僕は唖然とする。
ただ、その落差に気づかないのか興味がないのか、それとももう大半が知っているのかはわからないけど、フロアの社員はまるで気にする素振りを見せなかった。
ミナミさんは、この仕事に誇りを持っていない。鈍感な僕でも、それくらいはわかる。マニュアルには『奇跡のエキス配合! お客様満足率九十パーセントのサプリメントです』という大げさな宣伝が踊る。
もちろん、僕もこの仕事に対する誇りはない。そもそも思い入れがあってこの仕事を選んだわけでもないし、そもそもほかにやりたいことがあるから、この仕事を選んだのだ。
つまずいてしまうすべてのことを言葉にしたい。そう、僕は小説家になりたいのだ。
ばたばたと慌ただしい午前を終え、折り返しの貴重な昼休みの時間に似つかわしくない、物騒な言葉が耳に飛び込んできても、もう僕はそれほど驚かなかった。
休憩室の大きな窓から見える空は青く、雲は穏やかにぷかぷか浮かんでいる。こういうありきたりな情景を、世間の目を引く言葉で表現できればなあ、と栓なきことを今日も思う。毎日が繰り返しなのだ。ちょこちょこと違うところはあっても、八割方同じならば、もう目新しい発見なんてない。そうあきらめてしまっている自分は、やっぱり才能なんてないんだろう。
小さくため息をつくと、目の前の弁当も冷め切ってしまう気がする。毎朝、せっせと作ってくれる彼女に申し訳ないと思いつつも、塞ぎ込んだ気分は箸の進むスピードを鈍くさせる。
「信じられない。これ以上、何を審議するの? こんな極悪人、許せないわ」
きんきん、と耳に響く甲高い声が、いっそう僕の食欲を減退させる。これも毎日の繰り返しで麻痺しているはずなのに、やっぱりいまだにどこか慣れ切っていないのは、この言葉に何か違和感を抱いているからなのだろう。
でも、やっぱりその違和感を言葉にはできない。
「ねえ、ニシくんもそう思うでしょ?」
自分のふがいなさに本気でげんなりするより先に、少し離れた席からキタさんが鋭い声をかけてくる。一瞬、そのまま箸を落としそうになったけど、あわてて握りなおす。
「へ?」
「へ? じゃなくて、ほら、見てなかったの? 今のニュース」
そう言って、キタさんは休憩室の隅でしゃべるテレビを指差す。正確には、お昼のニュースを読み上げる、若いキャスターを指差している。
「あ、ああ、あの殺人事件の犯人ですか」
画面の端に出ているテロップで、話の内容を察する。言い当てたときには、もう次のニュースへと切り替わろうとしていたが、キタさんはその話題を終わらせようとはしない。
「そう! 信じられる? あんなに小さい子どもを殺しといて、まだ死刑判決が出ないなんて。おかしくない?」
「はあ、まあ……」
「許す余地がないじゃない?」
それを決めるのは、果たしてキタさんなのだろうか。そう言いたいけれど、それだけじゃ何か言い足りない気がして、結局僕は言葉を濁して黙り込んだ。こういうときに無言を貫くのは、圧倒的に僕の知識や語彙が不足しているせいだ。もっともっと本を読まなければいけない。
僕がひそかに、これもまた毎日繰り返しの決意をする中で、キタさんは次から次へと報道されるニュースに、いちいち感想を叫んでいた。
「あら、気の毒ね」やら「かわいそうに」やら、まるで小学生でも言えそうなコメントを、それでもためらいなく口にできるというのは、もしかしたらすごい才能なのかもしれない。だけど、それがいったい何の効果を発揮するのかと問われれば、また僕は言葉に詰まるわけで、やっぱりただの性格だろうな、というところに落ち着く。
もそもそと弁当を食べていると、青い空に飛行機雲が走るのが見えた。くるくる、と旋回して、その白い線はやがてハートを描く。
へえ、粋なことをするなあ。でも、何で?
その疑問への答えは持ち合わせておらず、自問で終わる。やっぱり本だ。本をたくさん読まなきゃいけない。
そう思いつつも、実行できる自信はまるでなかった。白いハートがあっけなく空に消えるように、僕の決意なんていつもあってないようなものなのだ。
午後も与えられたリストを上からつぶしていく。僕の仕事はひたすら電話をかけてかけてかけまくること。いわゆる電話営業だ。
このご時世、まだそんな古臭いことを、と揶揄されそうだし、僕も会社の人間の大半もそう思っているのだけど、古臭いことこそ今響くんだと信じてる少数派が、すべてトップにいる人たちだから仕方がない。
ほぼほぼ、声色だけでもわかるくらい拒絶反応をきっちりと示され、あっけなく門前払いされるのがオチだ(門前までも行けてないけど)。最初は何度も心が折れそうになったけど、これこそ毎日の繰り返しでだんだんと何も感じなくなってくる。タフになったのとは、きっとまた違う。何かが擦り切れてしまったような感じ、これを何と言うのだろう。
あとはどうせ正社員じゃないし、という割り切りは、多分に影響していると思われる。雇用期間の決まっている時給制のパートタイマー。待遇はよろしくないけど、そのぶん責任感を持つ必要もさほどない。あと、仕事に対する誇りのようなものも。
「ただいま戻りましたー」
陽気な声でフロアに入ってきたのは、営業のミナミさんだ。電話営業を推奨しているけど、古臭さを重視する体制はもちろん外回りの営業も必須としている。ミナミさんは五年目に差しかかろうとしている中堅だ。
「あ、お疲れ様です」
自分の席の横を通り過ぎようとしたミナミさんに、挨拶をする。ミナミさんは明るく、「おお、お疲れ様」と返してくれる。
そのまま立ち去っていくかと思われたが、ふとミナミさんは足を止める。ついでにネクタイをちょっとゆるめて、僕の手元を細い目でじっと見つめてくる。
「な、何ですか」
「それ、今日のノルマ?」
僕の顧客リストについて聞いているようだ。「はい」とうなずくと、「それ、応対マニュアル?」と、さらに尋ねてくる。
「はい、そうですけど」
「ちょっと見せて」
そう言って、ミナミさんはマニュアルをぱらぱらとめくりだす。そこに書いてあるのは、商品に関する差しさわりのない定型文と、よくあるQ&Aなんかだ。ミナミさんが今さら目を通したところで、新鮮な情報は何もない。なのに、ミナミさんは割と真剣な顔をして、時折眉間にしわを寄せている。
「あ、あの、何かありましたか」
おずおずと不安を口に出すと、それを合図にミナミさんはいつものほがらかな表情に戻る。
「いやー、ごめんごめん。何もないよ。ありがとうー」
間延びしたような口調で、そっとマニュアルを返される。ミナミさんは鼻歌を歌いながら、そのまま立ち去っていく。
でも、よくよく聞くと、適当なメロディーに乗せたその歌詞は、
「なーにーがー、満足率がー、九十パーセントー」
会社の謳い文句のことを言っていた。ふんふん、と楽しげな様子とは、かなりのギャップがあって、僕は唖然とする。
ただ、その落差に気づかないのか興味がないのか、それとももう大半が知っているのかはわからないけど、フロアの社員はまるで気にする素振りを見せなかった。
ミナミさんは、この仕事に誇りを持っていない。鈍感な僕でも、それくらいはわかる。マニュアルには『奇跡のエキス配合! お客様満足率九十パーセントのサプリメントです』という大げさな宣伝が踊る。
もちろん、僕もこの仕事に対する誇りはない。そもそも思い入れがあってこの仕事を選んだわけでもないし、そもそもほかにやりたいことがあるから、この仕事を選んだのだ。
つまずいてしまうすべてのことを言葉にしたい。そう、僕は小説家になりたいのだ。