第2章 アイ ラブ ア サン―(4)

文字数 1,308文字

 事情をかいつまんで話してから、早退という扱いで帰らせてもらうことにした。近くでその会話が聞こえていたであろうミナミくんは何も言わなかった。ただ、気配から何か言いたそうであることは読み取れた。それに構っている余裕なんてないけど。
「お先に失礼します!」
 そう言い捨てて、ダッシュで職場を飛びだす。途中、ちらりと後ろを窺うと、こっちを見ていた様子のミナミくんが、さっと視線をはずしたところだった。その態度にかすかにいらだちを感じて、物申してやりたい気持ちが少しだけ芽を出す。
 でも、もちろんそれを振り切って急ごうとすると、よそ見をしていたせいで正面から派手に誰かとぶつかった。
「いたっ!」
 ふらついたところを何とか踏みとどまる。向こうもバランスを崩したようだけど、私よりダメージは少ないようで、きょとんとした顔をしている。
「アズマさん……」
 よりにもよって、ここで素直に謝りたくない相手が立ちはだかっていた。注意を怠って全力疾走した私が悪いのだけど、認めたくない自分が確かにいる。
 別に避けることだってできたんじゃないの。あんたもよそ見してたんじゃないの。ていうか、何でこんなとこ歩いてんの。また総務に用があんの。また消しゴムなくしたの。注意してんのに。あれだけ言ってやってんのに。あんたのためを思ってやってんのに。
 あんたが悪いのに。
「ちょっと邪魔……」
「ごめんなさい、キタさん。私、ぼーっとしてて。大丈夫?」
 そう、あんたが悪いからあんたが謝って正解のはずなのに、
「本当、ごめんなさい。けがはなかった?」
 それなのに、何で、
「あ、あとごめんなさい。またね、消しゴムをもらいにきたんです」
 何で私が悪いみたいになってんの。
「もういいです……」
 絞りだした声は、まるで自分のものじゃないように低く重く響いて、アズマさんには届かなかったようで「え?」と困惑している。眉をわかりやすく八の字にして。
「もういいです。消しゴム、十個でも二十個でも持っていってください」
「え、そんなにはいいんですよ。一個で……」
「もういいです。あとぶつかってすみませんでした。よそ見してたのは私なんで。ごめんなさい」
 いつぞやのアズマさんの完璧な角度のお辞儀を思いだし、それをなぞるように頭を下げる。アズマさんは焦ったように「そんな、全然、こちらこそ」とか何とか、ずっと言葉をつないでいる。
 やがて、それも途切れた頃、「じゃあ失礼します」と残して、今度こそ振り返らずに前だけを見て、走りだしてやる。ぐんぐん、ぐんぐんと進む自分の足は、まだこんなに速く動くことができたのだ。
 車に乗り込んで、エンジンをかける。タナカ先生が教えてくれた病院の名前を、カーナビに素早く設定する。安全運転を促すガイダンスが流れて、一呼吸置いてからギアをドライブに入れた。
 病院には息子だけでなく、ナンバラくんもいると聞いている。私はまず、どちらに声をかければいいのだろう。そして、何と言えばいいのだろう。
 正確にルート案内をしてくれるカーナビは答えを教えてはくれないし、私の考える時間をどんどん短縮していくだけだった。
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