第1章 アイ ラブ ア ペン―(3)

文字数 3,964文字

「世の中、どこ行っても危険ね」
 今日も平和な昼飯時に、ひたすら世を憂う声が聞こえてくる。
「でも、日本もいつ狙われるかわからないし……もう、さっさと準備進めてほしいわ」
 キタさんの目線の先には、自衛隊が訓練する映像があった。ああ、新しい法案について言っているのだな、と思った。こういう政治関連の話題は、とにかくパスだ。昨夜の彼女がつぶやいた「沈黙は金」じゃないけど、僕は極力、誰とも政治だの宗教だの、その人の主義主張に値するものにはふれたくない。どれだけ気の合う者同士でも、支持する政党や宗派が違っただけで、あっという間に距離を空けてきて、そのままいなくなった友人も過去にいた。
 僕自身はあまりこだわりはないし、例えば投票用紙に書いた名前が異なっていても、一緒に酒を飲むこともできると思っているのだが、どうもそんなふうに単純にはいかない人間も、世の中にはたくさんいるらしい。
 だから、僕は彼女とも、いや、彼女とこそ、そういった話をしたことは一切ない。一緒に暮らしていて、キタさんが食い入るように見ているようなニュースに、あえてチャンネルを変えたこともあまり記憶にない。
 それよりは無難なバラエティなんかを見て、くだらないなと笑い合っていた。それは僕だけでなく、どこかで彼女も予防線を引いている証拠でもあった。
「平和ったって、ぼーっとしてたらこっちの平和が乱されるだけじゃない。守るために戦うんだから。ねえ、ニシくん?」
 まさかのキラーパスを、キタさんは平気で繰りだしてくる。困るなあ、と内心お手上げ状態になる。見逃してくれないかな、と淡い期待をしても、キタさんはこちらをガン見してくる。スルーは許されない状況のようだ。
「い、いやあ、僕はそういうの、よくわからないんですよね」
「わからないって、自分たちの平和のことでしょうに。うかうかしてたら、自分や自分の家族も殺されちゃうのよ」
 キタさんはより一層険しい視線で、僕を攻め立てる。目を合わせていられなくて、ついつい視線を外す。テレビは自衛隊員の家族へのインタビューに変わっている。平和のためなら仕方がない。でも、どうして自分の夫が、という気持ちも捨て切れない。
 自分の家族が平和のために犠牲になるかもしれない。
 インタビューを受けている女性が、ふいにカメラ目線になり、僕と目が合った。いや、ニュースに出演している人間と目が合うなんていう表現はおかしい。それなのに、その女性は僕を見ている。まっすぐに僕を見ている。
 キタさんは「ねえ、どう思う?」と追及の手を止めず、テレビの中の女性はまるで視界に入れていない。
「それって平和なんですかね」
 気づけば勝手に口が動いていた。キタさんは「は?」と目を丸くしているけど、それ以上に僕自身が驚いていた。
「何それ? どういう意味?」
 どういう意味なんだろう、と僕が尋ねたい。でも、そんな僕の思いには当然知らん顔で、キタさんが攻撃的な口調で投げかけてくる。その必死な形相は、どうして生まれるのだろう。僕がキタさんの平和を脅かす敵なのだろうか。僕がキタさんの家族を殺そうとしているのだろうか。
 次々と湧いてくる疑念に、僕はすっかり混乱してしまい、言葉をうまく探せない。「あの、その」と、声を震わしているあいだに、キタさんがあきらめたようにため息をつく。
「ニシくん、もうちょっと関心持って考えたほうがいいよ。他人事じゃないんだから」
 キタさんはそう吐き捨てて、休憩室から出て行った。テレビはもう全く別のニュースを読み上げていた。



 しばらく呆然としていた僕が我に返ったとき、時計は昼休みの残り時間を無情にも告げていて、慌てて弁当をかき込んだ。何となく彼女に申し訳ない気持ちを抱えながら、急いで自分の席に戻ると、もう同僚はすっかり臨戦態勢に入っている。
 誰もかれもが手元の顧客リストとにらめっこしながら、戦闘開始の番号をプッシュする。僕も午前からの続きをこなしていこうと、慎重に番号を確認する。うっかり間違い電話をしてしまうと、出鼻をくじかれて、その後のやり取りもうまくいかない場合が多い。というのは、勝手な僕のジンクスだ。よく僕は人に言われたことやミスを引きずる。すると、不思議とマイナスの事柄がマイナスの事柄を連れてきて、連鎖反応を起こす。ぱたぱたと勢いよく倒れていくドミノを修正するのが難しいように、立ち直るのにも時間がかかる。
 そんな弱気な僕を、彼女はよく叱咤激励してくれる。そう思うと、ますます弁当を味わえなかったことに罪悪感を覚える。
 という雑念をごちゃごちゃと脳内でかき回していたのが、もう負の連鎖反応の始まりだったのかもしれない。午後一件目の電話から、僕はいきなりマニュアル外の事例に遭遇した。
「もしもし、いつも大変お世話になっております。ライブサプリのニシと申します」
「あ! ライブサプリ?」
「はい、さようでございます」
 いきなりくだけた様子で食いつかれることは、よくあることだ。そして、ちょうど追加注文をしようか迷っていたとか、商品について問い合わせをしようと思っていたとか、そういったタイミングのケースが多い。
 しかし、電話の相手は急に声のトーンを低くして話しだす。
「あのさ、どうなってんの?」
「え?」
「え? じゃないよ。おたくの商品、最悪なんだけど」
 僕は一旦、目を閉じてこっそりと深呼吸する。よくあるケースだ。なかなか効果が出ないけど、どういうことだというクレーム。頭の中のマニュアルをめくり、四十四ページ目が該当する。
「効果には個人差がございますので、一ヵ月というのはあくまで目安です。それよりももっと早く効果を実感されるお客様もいらっしゃいますし、一ヵ月以上かかるお客様ももちろんいらっしゃ」
「そんなこと言ってるんじゃないんだよ」
 僕の完璧なマニュアルどおりの応対を、電話の相手はぴしゃりと遮ってくる。鋭く刺さってくるような声の主は男性だろうか、女性だろうか。僕はそんなことも確認せずに、機械的に電話をかけてしまっていた。怒気をはらんでいる声質は、個人情報を全く教えてはくれない。ただ、はっきりとあなたに対して怒っていますよ、という感情だけが伝わってくる。僕はじっとりと嫌な汗をかいていた。
「これ飲んだら、整腸作用もあるっていうから飲んだのにさ、飲むたび飲むたび、下痢になるんだけど。一回なら自分のせいかなとも思うけどさ、飲むたび飲むたびだよ。繰り返し飲むのがいいって言われたから飲んでるのにさ」
「繰り返し、ですか」
「おたくにこの前電話したら、繰り返し飲まなきゃだめだって言われたんだよ!」
 不意打ちの大音量に、僕は思わず受話器を耳から浮かせた。心臓がばくばくと忙しなく動きだす。落ち着け落ち着け、と呪文のように心の中で唱える。「聞いてんの?」という追い打ちが容赦なく襲いかかってきても、落ち着け落ち着け、と必死に言い聞かせる。
 これは僕のせいじゃない。繰り返し飲めと言った覚えはない。恐らく、僕のあずかり知らぬところで、違う誰かが応対したことがあったのだろう。
「大変申し訳ございませんでした。繰り返しの服用をすすめてしまった人間がいたということですね。確認して、以後注意してまいりますので、そのときの担当者のお名前をちょうだいできますか」
 すると、向こうは黙り込んだ。聞き取れなかったのだろうか。僕はもう一度、噛みくだいて丁寧に説明をする。しかし、なおも電話の相手は無言を貫いている。だんだん、何もない空間に向けて、ひたすらしゃべりかけている気分になってくる。
 それでも電話をこちらから切るわけにはいかない。向こうが受話器を置くのを待ってから、こちらも通話を終了するのが鉄則だ。
 何の応答もない一方的なやり取りが、二分以上続いた。「沈黙は金」と言った彼女を思い出す。確かにそうかもしれない。
 でも、一方で沈黙は怒りだ。圧倒的な怒りだ。そして、それはやがてあきらめに変わる。言い訳の余地もないくらい。許す必要もないくらい。完全な無の状態に。
「……もういいわ」
 長い長い沈黙の末に、電話の相手は僕を見放した。その声は乾き切っていて、平行線だった電話の相手は、ついにもう二度と会えないねじれの位置へと行ってしまっていた。
「あの、えっと」
 整理できないままの頭で、何か言わなければという思いだけが空回りする。口をつくのは、何の意味も持たない間抜けな時間稼ぎばかりだった。
「自分のせいじゃないと思ってるよね?」
「え?」
「会社とか、ほかの電話に出たやつのせいで、自分は関係ないって思ってるよね?」
「そんな……」
「ことあるよね? 誰とか関係ないし。そこにいるんだったら、もう立派な加害者だから」
 息が止まった。呼吸の仕方を忘れた。苦しい。胸が苦しい。痛い。頭が痛い。血の気が引いていくのがわかる。体温が下がっていくのがわかる。全身が小刻みに震えだす。
 隣の席の同僚が電話をかけながらも、僕の様子を窺っているのがわかる。心配そうに、不安げに僕に視線を注いでいる。かわいそうに、といった感じで眉をひそめている。
 でも、違う。今、僕は被害者ではなく、加害者になってしまっているのだ。
「もういいわ。おたくの商品は二度と買わないし。電話もかけてこないでね」
 がちゃりと乱暴に受話器を置く音が耳を突き、ツーツーと無機質な機械音だけがあとに残る。ちょうど一区切りついたらしい同僚は「大丈夫? クレーマー?」と同情してくる。
 僕は何も答えられぬまま、マニュアルではもう置いていい受話器を、いつまでもしっかりと握りしめていた。
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