第2章 アイ ラブ ア サン―(2)

文字数 3,504文字

 どうにかこうにか仕事を片づけて、正確に言うと少々同僚に押しつけて、ダッシュでフロアを飛びだした。
 「ごめん、子どものお迎えがあるから!」と手を合わせると、大抵の人たちは快く引き受けてくれる。
 素早くトイレに向かい、用を足すついでに化粧直しもしておく。息子の友達に会うかもしれないし、身だしなみに気は抜けない。親がどんな身なりをしているかは、子ども同士の関係性にも影響を与える。
 口紅を引いて、よし、と鏡の中の自分を確認して、早足でトイレをあとにしようとしたところで、目の前にぬっと大きな壁が立ちはだかった。
 目線を上げると、ミナミくんがそこにいた。思わず肩に力が入る。いつものように気の抜けた声で「あー、すみません」と言いながらも、冷たい視線をよこしてくる。何の感情もないような、冷め切った瞳。
 応戦してやりたかったけど、それよりも息子だ。私は息子を迎えに行かなければいけない。こんな人に構っている余裕なんてないのだ。
 さっさと何か一言残して立ち去ってやろうとするより先に、ミナミくんのほうが見切りをつける。端から私の存在なんてなかったみたいに、前へ前へと急ぐ。みるみるその背中は小さくなっていった。
 思わず見送る格好になってしまった自分の間抜けさに、嫌気が差した。それにしても何なんだ、あの態度は。何なんだ、あの男は。やがて自己嫌悪のベクトルは、はっきりとミナミくんへと向かう。
 ミナミくん以外は、みんな家族サービスへの理解もあって、とても好意的で、協力的だ。これだからいい年をした独身男は困る。自分一人で生きていけると思い込んでいて、家族という尊さをまるで理解しようとしない。
 言葉にしてやれなかった苛立ちを抱えつつ、私は小走りで駐車場へと急いだ。息が切れて、運転席のシートに腰を落ち着けて、エンジンをかけても、まだ私はもやもやとしていた。振り切るように、アクセルを踏む。
 マイカーを目いっぱいの速度で走らせて、校門の前で待機していると、ぞろぞろと男子中学生の集団がやってきた。その群れの中に我が子を発見した瞬間、先ほどの場面があっさりと引いていった。脳裏にこびりついたミナミくんの表情も、あっけなく遠ざかっていく。
 ププッとクラクションを鳴らすと、ギラギラしたいくつもの目玉が一斉にこちらを向く。その中にしかめっ面をした息子を認めた。手を振ると、ますます眉間にしわを寄せる。周りの友人たちに何か言われるのを振り切って、息子は私の車までも追い越して、ずんずんと進んでいってしまう。
 慌ててエンジンをかけ直して、徐行運転で追いかけても、息子は振り向かない。ようやく足を止めてくれたのは、角を曲がって校門が完全に見えなくなったところだった。私がロックを解除すると、息子は無言で後部座席に乗り込んだ。
「お疲れ様」
 声をかけても、息子はまだうつむいている。
「何? お腹空いた?」
 練習後の体に、車内のこもった空気は少し暑いかなと思い、窓を開けてやる。風が勢いよく入り込んできて、息子の湿っている前髪を揺らした。
「あのさ、校門の前で待つのやめてくんねえかな」
「え?」
 ようやく重い口を開いたかと思いきや、ひどく低いトーンで、深刻な表情を浮かべている。
「マジで恥ずかしいんだよ。周りのやつらにからかわれるし」
「からかわれるって……あんた、もしかしていじめなんかに遭ってないでしょうね?」
「はあ?」
 あきれたような声を上げて、頭をがしがしとかいている息子の腕は、黒々と焼けていて、とてもたくましい。いつの間にか、男の体つきになっている。
「バカじゃねえの、何でそうなるんだよ」
「いじめられてないのね?」
「当たり前だろ。そんな貧弱じゃねえよ。俺が言ってんのはそういうことじゃなくて」
「ならよかった。今日、どっかで夕飯食べてこうか? お父さん、今日も遅いみたいだし」
 お伺いを立てつつも、もう外食は私の中で決定事項だ。家に帰っても、冷蔵庫の中身は何もない。買い物をして帰って、それから料理をする気力はない。
 私の確固たる意思を感じ取ったのか、息子は「もう何でもいい」とつぶやいて、それから腕を組んで眠りの態勢に入った。
 ハンドルを切って、足しげく通っているカレー屋へと車を走らせる。そこのチーズ入りカレーは息子の好物だ。早く食べさせたいという思いと、少しでもゆっくり寝かせてやりたいという思いのあいだで、アクセルとブレーキを踏むバランスに悩み続けた。



 最近のニュースは、実は同じ映像を繰り返し流しているんじゃないかと疑ってしまう。そのくらい似たり寄ったりの、不景気で陰鬱で凄惨なことばかりだ。
 もっと明るい話題はないのだろうか。将来、息子と同世代くらいの子どもたちが、安心して暮らしていけるような喜ばしいニュースは。
 それどころか、息子の未来を脅かすようなことは、ひっきりなしに転がっている。中学生を何人も殺傷した通り魔の容疑者は、いまだに法廷でのらりくらりと生き続けて、また何年後かにはきっと社会復帰している。想像しただけで恐ろしかった。
 長い行列を成しているデモの様子が映しだされる。本当に私には理解不能で、頭の痛くなる報道が多い。今のままじゃ、危険にさらされることがわかっているのに、どうしてそれを迎合できるのだろう。自分自身が巻き込まれるのは、まだ許せる。
 ただ、息子だけは勘弁してほしい。彼には、彼らにはまだまだ未来がある。それを守るためには、脅かすものを排除する必要がある。
 だけど、休憩室でテレビを見ているときに、気弱なニシくんがめずらしくはっきりとものを言ったことがある。
「それって平和なんですかね」
 意味がわからなかった。自分の身や、家族の身を守ることは平和を守ること以外の何物でもないだろう。
 多分、ニシくんは若すぎるのだ。まだパートで何とか生計を立てられると思っているようだし、付き合っている彼女はいるようだけど、結婚や将来設計は眼中になさそうだ。
 確かアズマさんも独身のはずだ。バツがついているとも、子どもがいるとも聞いたことはない。
 みんな、家族を持てばわかる。生活の、いや、人生の大半が家族のことで埋まる。ただ、それを苦痛だとは思わない。むしろ、一人だなんてもう考えられない。守るべきものがないなんて、寂しい人たちだなと同情さえ覚えてしまう。
 『反対』のプラカードを持った人たちがアップで抜かれ、何事か叫んでいる。それは怒気をはらんでいて、身震いさえする形相だった。こんな恐ろしい顔をする人間が、平和のためになんて謳い文句を掲げていると思うと嫌悪感が湧いてくる。
 ふと横に目をやると、弁当箱を片づけたニシくんがぽかんとした顔でテレビに釘づけになっている。私が無関心すぎると指摘したから、少しは興味を持ちだしたのだろうか。
「ニシくん」
「は、あ、お疲れ様です」
 私が声をかけると、怯えたようにおどおどしている。ニシくんは小動物のようだ。そんなつもりはまるでないのに、私が捕食者のような立ち位置になってしまう。
「何? 関心持つようにしたの?」
「はあ、まあそうですね」
「何だかねえ、デモやる人間って本当怖いわよね」
「うーん、そうですかね」
 歯切れの悪い返事は相変わらずだ。だけど、いちいちこちらの言動にうろたえるニシくんは、画面の中で青筋を浮かばせている人間とは無縁だろうなと妙に安心する。
「戦争反対って叫んでる人間が、『死ね』とか言ってるのよ。笑っちゃうわよね」
「え?」
「え?」
 ニシくんの疑問符に、私も首を傾げるかたちとなった。変な間が空いて、どちらからともなく苦笑いが込み上げてくる。
「何? 何かおかしいこと言った、私?」
「あ、いえ。むしろ、ああ、そのとおりだなって思いました」
「じゃあ何でびっくりしてるのよ」
「キタさんがそういうことを言うのが意外っていうか……」
「何それ。バカにしてる?」
「いえいえ。そういうことじゃないんですけど、すみません」
 半分以上は冗談めかして問いただしたつもりだけど、思いのほかとげとげしい口調になってしまったのか、ニシくんはしきりに恐縮して目を泳がせている。デモ隊の人々の目はギラギラと刺すような狂気に満ちている。
 同じ人間でこうも違うんだな、と不思議に思う。そんなことを考えている私の目は、周りからはどんなふうに見えるのだろう。
 「すみません、お先に」とそそくさと去ろうとするニシくんの声で我に返り、私も足早に休憩室をあとにした。
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