第4章 アイ ラブ ザ ワールド―(3)

文字数 4,800文字

 定時で上がれるこの職場は、それだけで長年勤める理由になる。もちろん自分が企画した商品を、今日も購入して、明日も愛用してくれるお客様がいる。それも私を奮い立たせてくれるのは間違いない。
 でも、やっぱり。私は早々と切り上げて、自分の時間を持てることがたまらなくうれしい。季節によっては、まだ空は明るくて、昼間のようで、とても得をした気分になる。年甲斐もなくスキップをしたくなるような、そんな喜び。
 今日も夕焼けに染まる空のキャンバスに、飛行機雲が絵筆を走らせている。ああ、またハートを描いている。素敵な光景だな。
 今ではもう死語になっているアフターファイブというやつで、私はいくつもやりたいことがある。カルチャーセンターで受講している日本画クラスの回数も増やしたいし、ジムに行ってヨガも習ってみたい。体が疲れている日は近所の整体で施術も受けたいし、本屋にも立ち寄りたい。そろそろ美容院に予約も入れたいし、友達とごはんもしたい。
 あれこれ思い浮かべたら、無尽蔵に出てきそうな欲望の中で、私は今日も取捨選択を執り行う。苦渋の決断の末、私が選んだアフターファイブはセミナーに行くことだ。
 ほぼ毎日開催されているそれに通いだして、もう何年がたつだろう。さすがにすべてに顔を出すことは不可能だけど、今でも週に一度は必ず足を運ぶようにしている。
 くよくよと悩んだり、人を妬んだり、誰かを忌み嫌ったりすることの無意味さを徹底的に説いてくれて、代わりに受講者の生活にそっと花を添えるような素敵な一言をプレゼントしてくれる。そのセミナーのおかげで、私はずいぶんと明るくなった。よく笑うようになったし、あまり怒らなくなったし、前向きに物事を捉えられるようになった。
 でも、未だに私の勉強不足のせいで、人との間に誤解が生じたり、すれ違うことがあったりする。だから、私は隙あらば受講するよう心がけている。もっともっと自分を磨いて、周りと共感したり共有したりできるように。
 軽食も提供するイタリアンのお店でピザとジェラートを食べ、紅茶を飲んでから、セミナー会場へと向かった。会場といっても、円卓のある会議室のようなところだ。そのフランクさも、私の好みだったりする。
「おや、アズマさん。久しぶりですね。こんにちは」
「あ、こんにちは。ヒガシノさん。久しぶりって、先週も来ましたよ」
 ラフな格好で、気さくに話しかけてくれるのが、セミナー講師のヒガシノさんだ。初回からとてもよくしてもらっている。私が心の底からあこがれて尊敬をしている、すばらしい方だ。ヒガシノさんは微笑みながら、淀みなく話す。
「アズマさんはいつも熱心に通ってくださるのでうれしいです。話しがいがありますよ」
「いえ、とんでもないです。ヒガシノさんのお話が面白くて、聞き逃さないようにしてるんですよ」
「お上手ですね、アズマさん」
 にっこりと笑う顔がまぶしい。ヒガシノさんは私よりずっと年下だけど、思わず頬を染めてしまいそうになるくらい魅力的だ。ミナミくんと同世代だろうか。でも、ミナミくんには申し訳ないけど、ヒガシノさんのほうが若く見えるし、清潔感があって、礼儀正しい。年下だなんて冗談になってしまうほど、ヒガシノさんはとても大人びて見えた。
「おや、そろそろ時間ですね。始めましょうか。アズマさんもどうぞ、空いている席にお座りください」
 ゆったりとした物腰で、とても紳士的にエスコートしてくれる。ヒガシノさんには、何というか、そう、余裕がある。ささいなことで慌てたり、取り乱したりすることがない。常に物事を俯瞰している。だから、みんなヒガシノさんを信頼して、この場に集っている。
 ヒガシノさんだけ立ったまま、ゆっくりと受講生一人一人を見渡す。やがて、雑談やら物音が止み、静けさが降りた絶妙のタイミングで、彼は口を開く。
「皆さんは、最近可決した法案について、どう思われますか?」
 ヒガシノさんはいつも一言目を、受講生への質問にしている。これで私たちの集中力は一気に研ぎ澄まされる。毎回、どんなボールが投げかけられるかわからない。ドキドキする反面、わくわくしながらプレイボールを待っている。
「いいと思います。私たち、一人一人の生活を守るための手段なのですから」
「少々、強引なところがあるかと思います。まず、説明責任を果たすべきだった」
「違憲行為に当たるのではないかと。私は不信感を抱きました」
 口々に意見が飛び交う。ヒガシノさんはそれらすべてを「うん、うん」と、ただうなずきながらしっかりと聞いている。最後に私の番が回ってきた。ちょうどミナミくんにも同じ質問をされたことを思い出す。私の気持ちは変わっていなかった。
「みんな、もっと仲良くすべきだと思います」
 ヒガシノさんを真っ直ぐ見つめる。相手の目を見て話す。伝えたいことがあるときほど、強く、真っ直ぐと。そうすれば、言葉が追いついていなくとも、真摯な姿勢で気持ちは必ず伝わる。
 ヒガシノさんが教えてくれたことだ。ノートにもきちんと書き留めてある。何度も読み返して、鏡の前で実践した。
 満足そうに微笑み、「皆さん、貴重なご意見をありがとうございます」と、ヒガシノさんは拍手をする。
「それぞれに意見があって当然ですね。どれが間違いでどれが正しいなんて、答えはもちろんありません。ただ、僕が皆さんに共通認識として持ってほしいこと、それはアズマさんの意見に近いかな」
 自分の名前を呼ばれ、うれしいやら恥ずかしいやらで、心臓が跳ねる。うまく笑えているだろうか。
 どぎまぎする私にお構いなしに、ヒガシノさんは続ける。
「採決を通した側も、反対を訴えた側も、みんなどんな顔をしていましたか? どんな様子でしたか? 怒号が飛び交う、議論からはずれた罵り合いが始まる、お互いを論破することしか考えていない、それはそれは恐ろしい顔をしていました。そう、鬼の形相とでも申しましょうか」
 ちょっと笑い声が起こった。『鬼のキタ』を思い出す。でも、そんな人は今日どこにもいなかった。キタさんは変わった。
「みんなの共通認識は平和な暮らしです。それは間違いないでしょう。誰もがそれを願ったうえでの発言、行動だと理解しています。でも、あんな状況での話し合いは有効とは言えないし、友好的でもないですよね。みんな、平等に。みんな、フラットに。そう、アズマさんのお言葉を借りるなら、みんな、仲良くですね。小学生でもひらめきそうなシンプルなスローガンです。でも、それが決定的に欠けていた。悲しいことですね」
 そう、みんな仲良くできればいい。当たり前のことだと思う。ニシくんの、キタさんの、あるいはミナミくんの私を見る眼差し。私の聞こえない周りのささやき。それらは悲しいことだ。
 ヒガシノさんの言葉で、私は胸が詰まった。
「ここにいる皆さんは忘れないでほしいと思います。いつでも平等に。いつでも友好的に。スマイルライフです。いつも耳にタコができそうなくらい言ってしまい恐縮ですが、スマイルライフです」
 おどけた言い回しに、自然とみんなスマイルになる。ヒガシノさんの言葉のパワーはすごい。まるで心を巧みに操っているかのような説得力がある。
「そしてスマイルライフを送った皆さんには、きっと生まれ変わったときにもすばらしいスマイルライフが待っているはずですよ。マイナスの感情を持って人生を過ごした方には、生まれ変わっても負の要素がつきまとうものです。いけませんよ。いつでもスマイルを。そして素敵な来世を。それでは本日の講義に入りましょうか。まず肩の力を抜いて――」



「……ついに死刑執行ですね」
 夕べのヒガシノさんのすばらしい講義を噛みしめながら、買ってきたお弁当の漬物をぽりぽりと噛みしめていたら、暗いトーンで暗いことを言うニシくんの言葉が耳に飛び込んできた。
 普段は外へ食べに行くのだけど、今日は通勤時にワゴン車販売のお弁当屋さんと出会ったので、試しに一つ購入してみた。玄米や無農薬野菜で彩られた、オーガニックを売りにしているらしい健康志向のお弁当はどこか物足りない。だけど、物思いに耽りながら食事をするには、このくらいの味わいがちょうどよかった。
「え?」
 ふと隣のテーブルを見ると、難しい顔をしているニシくんがそこにいた。手元のお弁当箱はもう空っぽになっている。彼女がきっと毎朝作ってくれているのだろうな。
「ニュースですよ」
 ニシくんの視線の先を追うと、休憩室に設置してあるテレビがあった。お昼の報道番組が、世間を騒がせた死刑囚の顔写真を映しだしている。そうか、今日が執行日だったんだ。私はあまり熱心にニュースを見る習慣はない。新聞も取っていない。だから、大体のことは過程を知らないままに、結論だけ見聞きすることが多い。
「ニシくんはきちんとニュースとかをチェックするの?」
 若いのに、世間に関心を向けていて偉いなと感心する。だけど、ニシくんは自嘲気味に首を振る。
「いえ、そんな……最近まで全然知ろうとしてなくて。僕、本当に疎くて。でも、自分の考えくらいは持っておかないといけないかなとか思い始めてて……」
 歯切れの悪い言い方とは対照的に、ニシくんの目は強い意思を持っていた。すごいなと素直に思う。そんな熱意を私も持ちたい。
「偉いね、ニシくん」
「い、いえ、そんなことないです」
「私は全然ニュースとか見ないから。こうやって結果だけ知る感じだし、あまり感情移入できないんだよね」
 ニュースは次から次へと変わる。ニュースが数え切れないほど、毎日あるからだ。私はその速度に追いつけない。昔は追いつこうとしていたこともあると思うけど、うまく記憶を掘り起こせない。いつの間にか振り落とされて、もう私のペースでいいやと吹っ切れたことは確かだ。
「ああ、でも……あんまり感情移入しないほうがいいのかもしれないですね」
 そうやって、私なんかの言葉にも容易く揺れ動いたり、周りからの情報を柔軟に受け入れたり。ニシくんのそれは若さゆえの武器なのだろうか。それとも、もともと持ち合わせていた資質なのだろうか。
「でもね、きっと生まれ変わっても、悪いことをしていた人はなかなか幸せにはなれないと思うよ」
 だから私は、今信じられるものを全力で支持する。ヒガシノさんの教えを、すべて肯定する。
「だからね、ニシくんが心をすり減らすことなんてないよ。神様は見てるから」
 きっと、と言い終わる前に、ニシくんは「違うんです」と制してくる。あれ、ニシくん。人の話は最後まで聞かなくちゃいけないよ。やっぱり、まだまだ子どもみたいだ。ほっとするようなもどかしいような、むずがゆい感覚が残る。何だろう、気持ち悪いな。
 言い切らせて、ほしい。
「多分ですけど、アズマさんが想像してることと、僕が思ってることって違います」
 まだ、私はお弁当を食べ終わっていない。それをこの子はわかっているのかな。
「僕は誰に感情移入してるわけでもないんです……ただ、人を殺した人間が、誰かに殺されてて、不思議だなって」
 薄味の料理が、ただの味気ないものに変わってしまう。ニシくん、やめて。
「生まれ変わりがあるって思ってたら、何でもできてしまいそうですね」
 どうして、そんなこと言うの。何で前言ったことと、一字一句同じことを言うの。同じなくせに、私が受け取る意味はこんなにも違う。
 たどたどしいくせに、全部言葉にしてしまったニシくんは、「すみません、お先に」と立ち上がっていってしまう。
 取り残された私は、案の定お弁当を全部食べられる気がしない。何を口に運んでも、まるで味がしない。健康なものは美味しくない。
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