第4章 アイ ラブ ザ ワールド―(4)

文字数 4,301文字

 消しゴムはあっけなく私の元を去った。
 もう二度となくさないと握りしめたものの、ずっと手の中にしまっておくわけにはいかない。仕事が終わったら、引き出しなり、机の上のペンケースに入れておかなくてはいけない。
 私がほんの少し目を離したら、もういなくなってしまった。
 でも、私は総務に行かなかった。ノートにアイデアを書き込むのも、企画書の校正をするのも、回覧資料にサインをするのも、いつも以上に注意を払って、書き損じをしないようにした。
 そして、それは想像以上に神経を使った。間違えられない、文字として残る責任の重圧に、私は何度となく吐き気を覚えた。もう私の手元にはない消しゴムの存在を意識すればするほど、肩に力が入る。ああ、整体に行きたい。でも、今日は休診日だっけ。ああ、余計なことを考えてしまうと、
「アズマさん。これ、間違ってますよ」
 ばさっと目の前に落とされた資料の束に、私は必要以上に驚いてしまう。おそるおそる振り返ると、同僚がにやにやしながら立っていた。この人の名前は何だっけ。顔は毎日見ているはずなのに、まともに会話をした記憶がない。いや、この人だけじゃない。遠巻きに様子を窺いながら、薄ら笑いを浮かべている人たちをみんな、私は知らない。
「ご、ご、ごめんなさい」
「ここなんですけど」
 私の謝罪なんて聞こえないみたいに、同僚はあちこち角の折れた資料の一部を指差す。
「予算額出してくれてますけど、これじゃ採算合わないです」
「あ、計算間違ったのかな……ごめ」
「あと、新商品サプリのネーミング、もうちょっと新鮮味のあるものにできませんか」
「あ、これ……今あるシリーズに合わせたつもりだったんだけど、ご」
「というか、手書きの入る企画書だと読みにくいです。全部データ化していただけませんかね」
 いいかげんに、と同僚は言い捨てていってしまう。私に何も言わせないまま、言いたいことだけ言って終わりにしてしまう。ニシくんと同じだ。
 また、ひそひそ話が聞こえる。合間合間にくすくすとおかしそうに笑う声も混じる。ただ一言だけ、私の耳は拾う。
「いつになったら、気づくんだろうな」
 私は立ち上がる。もうそれが合図となっているように、気持ちいいくらいぴたりと一瞬だけ沈黙が訪れる。なのに、視線はうるさい。じろじろじろじろと舐めまわされて、とてもうるさい。
「……総務に行ってきます」
 そんなつもりはないのに、蚊の鳴くような声しか絞りだせない自分が嫌だった。ふらふらとフロアを出たら、やっぱり止まっていた時間はひそひそくすくすと動きだすけど、もう立ち止まる気力もなかった。
 あなたたちなんか、生まれ変わったところでろくな人生は待ってはいない。
 心の中だけで言い返した言葉は、まるで呪詛のようだった。でも、違っていることはわかっている。いつになったら気づくんだろう、じゃない。
 私は、本当はもうとっくに気づいているのだから。あなたたちが思うほど、世間離れもできていないのだから。



「消しゴムをお願いします。一個じゃなくて、できるだけ大量に」
 いつぞやキタさんが投げやりに提案してくれたことに、乗っかって甘えることにした。だけど、私が来ても、私がいつもと少し違うことを言っても、キタさんは驚いたりしなかった。怒りもしなかった。『鬼のキタ』はどこへいってしまったのだろう。
「アズマさん、入ってください」
 そう言って、総務室の中へと私を促した。見る限り、フロア内には人の姿はない。私の疑問を察したのか、
「今日はたまたま休みの子がいたり、支社へ研修に行ってる子ばっかりだから、私一人なんです」
 なるほど、と納得した。同じ内勤組でも、お互いの仕事内容や状況をまるで把握していない。人数の違いはあれど、私の部署はほとんど、全員が毎日のように社内にいる。私も社外に出たことなんて、これだけ長い間勤めているのにもかかわらず、恐らく片手で数えられるくらいしかない。
 キタさんは私に椅子をすすめ、さらにはお茶まで出してくれる。まるで来客をもてなすような扱いに、私はひどく恐縮した。こんなことをしてもらう自分を、全く想像できていなかった。
 お茶に手をつけない私の向かいに座り、「私も飲むからついで。気にしないでください」と声をかけてくれるキタさんは、本当に変わった。変わったというほど、深い付き合いはなかったけど、そんな私でもはっきりと「変わった」と言い切れるほどに、キタさんは変わった。
 縮こまったまま、お茶を一口すする。キタさんも飲みながら「茶菓子でもあればいいんだけど」とぼやいている。力の抜けたキタさんの目は放心状態というか、どこか遠くを見ていた。何か返事をしたほうがいいのかな。お茶だけで十分ですとか、おいしい和菓子屋さんを知ってますからお教えしましょうかとか。
 でも、キタさんのぼやきは誰かの同調を求めているような類のものではない。相手の話を聞くときは、とにかく相槌を打つ。そして相手が話し終わるのを待ってから、自分の意見を押しつけにならない程度に提案する。それがヒガシノさんの教えだったけど、私は今それを破った。キタさんのためというより、私のためだ。なぜだかとても疲れていて、話を膨らませる気持ちが生まれなかった。ひたすら機械的にお茶をすする。心ここにあらずなのは、私のほうなのかもしれない。
 その証拠に、先に口火を切ったのはキタさんだったし、私はそれにうまく反応できなかった。何を言われているのか、しばらく理解できなかった。
「アズマさん、疲れてますね」
「…………え?」
 この空間には二人だけしかいないのに、キタさんは誰に向かってしゃべっているのだろうと途方もないことを考えた。途方もないゴールを見つけだす前に、当然のようにこちらに向けられているキタさんの視線とぶつかる。避けられない。
「私が、ですか?」
「嫌がらせを受けてらっしゃるんでしょう?」
 何度視線を外そうとしても、追いかけられる。どう現実逃避をしようとしても、やっぱり私への言葉であることは揺るがない。
 それでも、私は言葉の意味が理解できない。何が嫌がらせ? 誰がしていて、誰が受けているの?
「消しゴムを隠されてますよね。企画開発部の同僚の方々に」
 私の心情を見透かしたかのように、キタさんはいちいち無駄がない。ニシくんのようなたどたどしさや動揺があれば、まだうやむやになるのに。ストレートで、言葉の余白がない。意味がたった一つしかない。
「アズマさん、それは立派な社内いじめですよ。上司に報告すべきです。もし、言いにくいんであれば、私のほうから」
「何を言ってるんですか?」
 自分でも聞いたことのない、温度を失った声だった。両手で握りしめていた湯呑みを、ゆっくりと机に戻す。ごとん、と大きな音が響く。そのくらい圧倒的な沈黙が広がっている。
「何を言ってるんですか?」
 大きく息を吸ってから、同じ問いかけを絞りだす。でも、声が震える。寒くもないのに、体も震える。暑くもないのに、汗もにじむ。何だろう、更年期なのかな。何だろう、嫌だな。うまく言えないけど、ニシくんも、キタさんも、同僚たちも、みんなみんな嫌だな。
 ――ヒガシノさん。
 ジャケットのポケットに入れていた携帯電話も震えだす。ぶるぶるぶるとこごえるように。
 キタさんもそれを察したのか、あきらめたように目を伏せる。
「アズマさん、言ったとおりの意味です。もし本当に何かできることがあったら言ってください。いじめは子どもだろうと大人だろうと、集団では起こりうるものですから。あと……アズマさんは立派な被害者です。何かに遠慮することなんてないんですよ。ごめんなさい、お仕事中に引き止めてしまって」
 立派? 被害者に立派もお粗末もあるのかな。それに私は被害者ばっかりを引き受けているわけでもない。生まれ変わりを信じて、誰かにすすめてしまっている限り、加害者にだってなっているかもしれない。
 携帯電話を取りだすと、メールが一通届いていた。件名は『ヒガシノさん』、差出人はセミナー仲間。ああ、もう嫌な予感しかない。
『あのセミナーはおかしい。いつ告発されるかもわからないから、早く止めたほうがいい』
 はあ、と予想どおりの展開にため息が出る。携帯電話の画面に食い入る私を、キタさんは不思議そうに見つめている。そういえば、お腹が空いた。さっきお昼を食べたばかりなのに、何で。
『これからセミナーでグッズ販売もやるらしい。下手すればねずみ講だ』
 ああ、そうか。やたら健康志向のお弁当をさらに味気なくされて、食べ切れなかったからだ。
『生まれ変われるのかもしれないが、人生は一度だ』
 お腹が空いた。ちょうど腹の虫も鳴った。私は乱暴に携帯電話を放りだした。がつん、と机の角にぶつかって、そのまま派手に床にたたきつけられる。
 その音にキタさんは驚いている。「アズマさん?」と顔色を窺うように、私と一定の距離を保とうとしている。何だかちょっぴりおかしくなってきた。これが『鬼のキタ』だなんて。ミナミくんはどれだけびびりだったのかな。鬼がこんなに簡単に怯えているよ、ミナミくん。
「焼肉」
「え?」
 今、無性にお肉が食べたくなった。コレステロールだとかカロリーだとかを全く無視した、味の濃い脂ぎったお肉を。想像したら、それに呼応するように腹の虫がぐうぐうとやかましい。想像したら創造できてたらいいのに、そうはうまくいかないから、
「焼肉が食べたいです」
 まず言葉にする。言葉にしたら、行動もする。
「一緒に行きませんか、キタさん」
「え?」
「二人が嫌なら、ニシくんも誘って」
 困惑した表情のキタさんに、笑いが込み上げてくる。気づいたら、実際笑ってしまっていた。
 おかしい。おかしい。何でいきなり焼肉を誘うの? それもキタさんと? キタさんだけじゃなくて、何でニシくん? おかしい。おかしい。涙が出てくる。ぽろぽろこぼれる。おかしい。おかしい。私は今、笑ってるの? 泣いてるの?
「いいですよ」
 いつの間にかしゃくり上げていた私の背中を、キタさんはやたらと優しく撫でる。上下に動かすリズムが心地よくて、波が凪いでいく。子どもみたいに、落ち着きを取り戻していくのと同時に、どんどん眠くなってくる。まぶたが重くなっていく。
「今晩行きましょう。ニシくんも誘って」
 その一言で、すっかり安心した私は、いとも簡単に意識を手放した。
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