第2章 アイ ラブ ア サン―(5)

文字数 2,860文字

 病院にたどり着くと、すぐにタナカ先生が手を振って誘導してくれた。こんなに大きな病院に来るのは久しぶりだ。息子が小さい頃は、熱を出しただの、やけどをしただので、すぐに病院にお世話になった。その回数も成長とともに減ってきて、できれば今度は田舎の両親が厄介になるまで避けたい場所だった。
 広々とした待合室の椅子に、息子は腰かけていた。ふてくされたように両手をズボンのポケットに突っ込んで、こちらを見ようともしない。息子から何席か離れたところに、うつむいている少年がナンバラくんだと、タナカ先生が教えてくれた。
 どちらも黙り込んだまま、私が来ても何の反応も示さない。透明人間にでもなった気分だ。
 ナンバラくんのご両親は共働きで、タイミング悪く二人とも出張中だとかで、まだ連絡が取れないといったことを、ぼそぼそと耳打ちするようにタナカ先生が説明してくる。つまり、この場をどうにか親として、大人の対応を見せて、落とすべき落としどころを探さなくちゃいけないのは私なのだ。そう悟った瞬間、どかっと重い荷物を乱暴に投げつけられたような気がした。
 タナカ先生は、私を待っている間に、もう二人に何か言ったのだろうか。どのくらい物事は片づいていて、どのような方向へ向かっているのか、まるで検討がつかない。タナカ先生はそれを教えてくれる気配もない。なぜかすがりつかんばかりの目つきをしていて、早く何か物申せと催促をされているようだった。
 目を閉じて、こめかみを押さえる。ずきずきと脈打っている。ニシくんの、ミナミくんの、アズマさんの顔が次々と浮かび上がってくる。なぜ、こんなときにこんな人たちのことを思いだしてしまうのだろう。誰も彼もみんな、私が好きでもないし、私を好きでもない人ばかりだ。
「ねえ」
 目を開けて、私が一番に声をかけていたのは息子ではなく、縮こまっているナンバラくんだった。タナカ先生は意外そうに目を丸くしていて、息子は小さな舌打ちとともに私をにらみつけてきて、当のナンバラくんは体を大きく震わせて、より一層小さくなってしまうだけだった。
「ねえ、ナンバラくん?」
 なおも呼びかけると、ナンバラくんはこれ以上は無理だろうというくらいに体を折りたたんで、必死に自分の存在を押し殺そうとしている。居場所なんかないみたいに。
「……ごめんなさい」
 だけど、蚊の鳴くような声でささやいた言葉は、なぜかきちんと私の耳に届いた。私は今日だけでいったい何回謝られているんだろう、とどこか冷静に考える。
「キタくんのこと、突き飛ばしてしまって、けがまでさせてしまって、ごめんなさい」
 キタくんというのが息子のことだと、イコールで結びつくまでに時間を要した。息子は相変わらず口を固く結んだまま、私とナンバラくんを交互ににらみつけている。この子はこんなにすべてを否定するような目をしてたっけ。ミナミくんの目が不意に重なったが、すぐに消え去った。
 ミナミくんのほうは、今にも泣きだしてしまいそうだったからだ。
「ナンバラくん、顔を上げて」
 私はナンバラくんの前まで歩み寄り、同じ目線の高さになるようにしゃがんだ。ますますうつむこうとする彼の両手をしっかりと握る。その手はびっくりするほど冷え切っていて、こちらの体温を奪うほどだった。ナンバラくんはそれに呼応するように、ゆっくりとぎこちなく顔を上げる。
 青ざめて生気のないナンバラくんと、初めて目が合う。睫毛が長くて、奥二重で、鼻筋が通っている。少々口が小さいのでバランスが不安定だが、それもまた愛嬌といえば愛嬌で、実は全体的に整った顔立ちをしていた。
 最近、こんなに人の顔を真っ直ぐ観察したことなんてない。息子の特徴さえも、時間とともにあいまいになってしまっている。私の記憶に刻まれているかわいらしいえくぼなんかは、実はもう影も形もなくなっているのかもしれない。
「あなたが謝ることじゃない。だってあなたは被害者なんでしょう?」
 迂回なしのストレートな聞き方に、ナンバラくんは二の句が告げないようだった。タナカ先生もあたふたしだし、息子が一番先に噛みついてくる。
「何言ってんだよ。俺が突き飛ばされたんだよ。俺が被害者」
 ついでにタナカ先生にも「先生、何か変なこと親に言ったんじゃないでしょうね」と、にらみを利かす。タナカ先生は口をつぐむ。その一連のやり取りで、息子が持つ妙な権力を知った。
 息子は私と同じで、大きな勘違いをしている。
「あんた、いじめてたんでしょう。ナンバラくんのことを」
「は?」
 私の問いかけに、息子ははっきりと敵意をむきだしにした。家族なのに。守るべき家族なのに。なぜ、私は今、守るべき対象と火花を散らして対峙しているのだろう。
 私の葛藤なんかお構いなしに、息子は目の前の人間をあっさり敵だと見なす。それが家族だろうと関係ない。平等な敵意だ。
「何だ、それ。知らねえよ。つーか、親のくせに実の子どもを責めるとかおかしくねえ? むしろ、俺心配されるとこなんじゃねえの。マジでけが痛えんだけど」
 最後のほうは、私ではなくナンバラくんに向けて言った。ナンバラくんはますます青ざめて、それを通り越して陶器のように真っ白になって、小刻みに震えだす。
 その振動が、握った手から伝わってくる。いや、私も一緒になって震えているのかもしれない。だって、目の前の息子が、守るべき家族が、間違いなく怖い。怖くて仕方がない。
『さっさと死刑にしちゃえばいいのに』
 私自身が口にした言葉が、狂気じみた鋭利な凶器となって、容赦なく私の頭に突きつけられる。
 私は家族を守ろうとして、守るために、危険な要素は根こそぎ払ってやってほしい。悪いことをした人間は抹消してほしい。悪いことを起こしそうな国は抑制してほしい。そう思っていたのに。
「俺、別に悪くねえし」
 純粋な善意と悪意だけで成り立つほど、世の中は単純じゃない。どちらにも、ほとんど自覚なんてないのだ。
 ナンバラくんの冷たい両手を、もっと力強く握る。もしかしたら痛いかもしれないくらいに、ぎゅっと強く強く。
 すると震えが徐々に緩やかになっていき、ナンバラくんは不思議そうに私を見つめていた。初めて親鳥と対面した雛のように、無垢で穏やかな表情だった。
 それは鏡だったのかもしれない。きっと私も同じような表情を浮かべている。「大丈夫だから」と小さくつぶやいてから、まるで真逆の形相である息子と、もう一度視線を交わす。
「あんたが悪いんだよ」
 私も悪いし、みんな悪い。悪くないなんて、ない。
 ぐにゃりと歪む息子の顔が、いつかまた無邪気に笑っていた幼い日を取り戻してくれるだろうか。信じるしかない。一緒に信じて、立ち直っていくしかない。
 つないだ両手からは、ほんの少しナンバラくんの熱を感じ取れたような気がした。

                                  ―第3章へつづく―
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