第1章 アイ ラブ ア ペン―(4)

文字数 1,806文字

 その電話以降、僕は全く使い物にならなかった。顧客リストを上から順番につぶしていこうと、何回も電話番号をプッシュするけど、コール音を確認したところで、反射的に受話器を置いてしまう。
 顧客リストには名前と住所、電話番号、購入履歴が記載されている。たったそれだけの情報で、一人一人の背景や思いを探るなんて不可能だ。そして、それにいちいち付き合っていたら、こっちの精神が先にやられてしまう。
 でも、僕はすっかり怖気づいていた。また怒られたり、冷たくされることに対してではない。はっきりと自分が加害者になってしまう可能性にだ。
 受話器を上げては置き、上げては置く。一向に顧客と会話をしない僕に、さすがに周りも気づきだす。同僚だけでなく、業務状況を確認するためにうろうろと徘徊する上司も、僕の異変を察し、眉間にしわを寄せる。
 僕は慌てて席を立ち、トイレへと逃げ込んだ。あたかも体調が悪いんです、というような素振りを見せることも忘れない。いったいいつから、こういう演技を覚えたのだろう。
 用を済ませ、念入りに手を洗っても、たいした時間稼ぎにはならず、気持ちも萎えたままだった。そのまま席に戻るにはまだ早すぎて、立て直すあてもないけど何となく給湯室に立ち寄る。会社が導入しているウォーターサーバーで、ぐびぐびと何杯も水を飲む。その温度はきちんと冷えていて、またすぐにトイレに行くはめになりそうだな、と一人で苦笑する。
「あ、お疲れ様」
 ぼんやりとしていたところに、やけに明るい口調で話しかけられ、僕はぎょっとした。そんな様子を見て、軽やかに笑いかけてきたのは、企画開発のアズマさんだった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 ふふふ、と笑みを浮かべるアズマさんは、勤続三十年を迎えようとしている大ベテランだ。挨拶程度にしかしゃべったことはないけど、いつも大御所とは思えない謙虚な姿勢に驚かされていた。ただし、そのぶんとてつもなくマイペースで、どこか浮世離れしている。とは、同僚がしていたうわさ話で得た情報だ。
「電話営業って大変だね。いろいろ言われたりもするでしょ」
 口元に笑みを絶やさないまま、アズマさんはカラフルなマグカップにティーパックを落とし、ポットのお湯を注ぐ。レモンのようなさわやかな香りが鼻をくすぐる。その甘酸っぱさに、強張っていた僕の気持ちは少しほどけていった。
「はあ、そうですね。さっき、結構きついことを言われてしまって」
「そうなの?」
「はい。僕のミス……というわけではないんですけど、でもここにいる限りは僕のせいでもあって、加害者なんだって……まあ、当たり前のことかもしれないんですけど、直接言葉で言われると、こたえるっていうか」
 アズマさんに話したところで、部署も立場も違うし意味はない。だけど、僕の言葉にいちいち神妙にうなずいてくれるアズマさんに、何かをジャッジしてもらいたくなっていた。
「結構、重い言葉だったっていうか、それで調子が狂ってまして」
「そうなんだ。大変だったんだね」
「僕がやっぱりいけないんでしょうか」
「うーん。難しいよね」
「繰り返し服用したほうがいいってすすめられて、そのとおりにしたら下痢になってしまわれたそうなんです。すでに体に合わないことはわかっていたみたいなんですが……繰り返し飲み続けないとだめだと言われたみたいで」
「あ! ごめん、それきっと私が言ったと思う」
「え?」
 思わぬ返答に、僕は不意打ちを食らう。何より「ごめんね」と眉を八の字にするアズマさんだけど、笑顔は崩していないことに違和感を覚えて、また頭がこんがらがってくる。
「え、それ、何でそんなことを……」
「うん。あきらめずにトライしてほしいなって思って。せっかく買ってくれたんだし。でも、結局合わなかったんだね。ごめんね。ごめんね」
 アズマさんは困ったように何度もおじぎをしてくる。僕は呆然としてしまい、何を言うべきかまた言葉が見つからない。それどころか、今どれだけ脳内を検索しても、出てくるフレーズはマニュアルの文言ばかりだった。僕は僕自身の言葉なんて、実は一つも持ち合わせてはいないのかもしれない。
「ごめんね」
 と言いながらも、紅茶を片手にさっさと持ち場に戻っていくアズマさんは、加害者なのだろうか、被害者なのだろうか。謝られた僕は正しいのか、間違っているのか。
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