第3章 アイ ラブ ワーク―(1)

文字数 3,175文字

「どんな他人だって、友達や家族になれるんだよ」
 うふふ、と笑みを絶やさずに、恐ろしいほどの前向きな発言を繰りだすアズマさんに、ニシくんは「はあ」と、何とも間の抜けた応答をしている。
 いったい、どういう話の流れでそんな名言が生まれたのか、あれこれ想像すると笑えてくる。何やら怪しげなセミナーの受け売りなのかもしれないが、俺はそういうアズマさんの考え方は嫌いではない。人類、皆兄弟。いい話じゃないか。そうであってほしいと願う。年齢も国籍も、性別も関係なく、全くのバリアフリーが前提での名言なら、なおのこといい。多分、アズマさんはそこまで考えちゃいないだろうけど。
 辟易するニシくんは、優柔不断でその日暮らしをモットーとしている今時の若者。そういうイメージしかなかったけど、最近はそうでもない。俺の中では好感度がめきめきと上昇中だ。大変にうさんくさい商品をゴリ押ししているうちの会社において、違和感をそのままにせずに、クレームを真っ向から受け止めたといううわさを聞いた。
 顧客に何度も電話をするも空振り。それでもめげないニシくんは、自分の気持ちを一筆したためて、わざわざ手紙を送ったのだそうだ。このご時世に手紙! 何とも古風な振る舞いに、とうとう顧客も折れたのか、ニシくんの弁明やら謝罪を受け入れて、最後にはどうにか和解へと至ったそうだ。
 終わりよければすべてよし。苦い顔をしていた上司も、離れゆく顧客をつなぎ止めてくれたということで、最後にはお咎めなしという決断を下した。それにニシくんが納得しているのかどうかは不明だが、すばらしい情熱に俺は初めてこの職場で胸を打たれた。
 そして何よりも、ニシくんはあの女に啖呵を切ったという話だ。そう、人の気持ちにお構いなしで自分の主張ばかりぶつけて、被害者ぶる女――キタだ。
 キタの制止を振り切って、己の意見を通したニシくん。格好いいねえ。惚れてしまいそうだ。でも、残念。ニシくんにはできた彼女がいるみたいだし、俺にもできた恋人がいる。生まれ変わったらよろしくね、ニシくん。
『今日は残業~。そっちはどう?』
 愛しの恋人からメールが入る。俺の恋人は小さな出版社で版組の仕事をしている。納期が近づくと、深夜に及ぶ残業は当たり前の、グレーゾーンに片足を突っ込んでいるような会社だ。
 だけど、もともとデザインやDTPの仕事をしたかったらしく、肉体的には疲れるけれど、精神的には非常にやりがいを感じていて、まるで苦痛ではないらしい。やりたいことを仕事にしている恋人は、大変輝いている。うらやましい。そしてちょっとだけ妬ましい。
「営業行ってきまーす」
 携帯を胸ポケットにしまい、いつもどおり陽気に宣言して出ていこうとすると、皆が「頼むよ、ミナミくん」とか「お土産よろしくねー」といった軽口で送りだしてくれる。へらへら笑いながら、手を振って応じる。
 社用車に乗り込むと、すぐに笑顔が引いていく。滑稽だなと、急に体温が下がっていくのが自分でもわかる。
 トランクには大量の目玉商品とカタログ。毒々しい色をしているくせに、万能の効果を謳う謎の錠剤を、俺は服用したことなんて一度もない。多分、同僚も試したことはあっても、常用している人間はいない。
 いや、いるか。脳内がお花畑のアズマさんなら、社員割引を使って、大いに活用しているのかもしれない。口元が勝手に歪む。
 こんな阿呆な職場、さっさと抜けなくちゃいけないな。そうわかっていて、そう願っているのに、もう五年ほど腰を落ち着けてしまっている。営業成績も悪くない数字ばかりをたたきだしてしまっている。
 もっと胸を張って、ちゃんと誇れる仕事をしていたい。彼と肩を並べられるように、彼と一緒に生きていけるように。
 携帯を取りだし、素早く返信メールを打つ。
『無理せず頑張れ~。俺はちゃっちゃと切り上げて、夜食でも作って待ってます』
 送信完了を確認してから、エンジンをかける。がたがたと大きな揺れを感じ、五年苦楽を共にした相棒も、もうだいぶガタがきているなと思った。



 適当にいつものルートを回って、愛想よく笑っていたら追加注文を二件ほどもらえた。肌荒れを気にする主婦と、腰が弱ってきたと嘆くじいさん。症状を相談してもらえれば、もうこっちのものだ。もっともらしく相槌を打って、一緒に大変ですねと同調して、これならお役に立てるかもしれませんと含みを持たせながら商品を紹介する。
 うれしそうに契約を交わす相手を見て罪悪感を覚えるのは、入社してからすぐにやめることにした。そんなことをいちいち気にしていたら、こっちの身がもたないし、第一どことなくだまされてみたい、藁にもすがってみたいという気配をにじませる顧客を見ていると、共犯者にでもなれたんじゃないかというふうに納得できるからだ。
 だから、電話口だけで営業するニシくんのようなポジションのほうが、もしかしたらつらい思いをするのかもしれない。変に想像力のある人間は、あれこれと杞憂してしまい、結局己の身を滅ぼす。事実、電話営業はパートで固めているが、いくらでも代わりが利くようにするためだ。恐ろしく入れ替わりが早いポジションで、ニシくんはよくもっているほうだなと感心する。
「お疲れ様ですー。お先に」
 昨日と何ら変わらない、形だけの日報を書いて、さっさと職場を出る。同僚は今日も温かく労ってくれる。
 毎日が茶番だ。俺はまるで本気じゃない。本気じゃないくせに、このぬるま湯で成果を上げて、飯が食えてしまっている。もっと刺激が欲しい。もっと夢中で仕事に没頭したい。俺にしかできないことで、人生設計をしていきたい。
 来月の誕生日で、ついに三十代も半ばになる。切りのよいところだし、そろそろ将来を見据えて本腰を入れねばいけない。脳内ではあれこれとプランやらビジョンが浮かび、色をつけてふくらむ。これからが本当の勝負だなと思うと、不思議と笑いが込み上げてくる。
 口元を歪ませながら歩いていると、ちょうどトイレから出てきたキタとぶつかりそうになった。キタは俺を認識するや否や、怯えたように目を泳がせる。
 いつも強気のキタだが、俺がこの女を心底見限った日から、極力俺との接触を避けるようになったのは感じていた。自分がよく思われていないという空気くらいは読めるようだ。ただ、なぜよく思われていないのか。きっとその理由はわかってはいないだろう。わかっていないというか、多分考えてもいないだろう。
「あー、すみません」
 俺もあの日から積極的に関わるようなことはしない。目を合わさずに、適当にやり過ごす。キタが何か言おうと口を開きかけたのが視界の端に映ったが、もう前に進む足は止めたりしない。
 キタもそれ以上、追ってこようとはしない。どうせ親バカぶりを発揮して、今日もまた仕事を人に振って、息子を迎えに行くのに急ぐはずだ。家族を理由にすれば、何でもまかりとおる世の中、キタはまさにその象徴だと思う。
 間違いなく正しいと家族を盾にする姿は、間違いなく家族を持てない俺にとっては、暴力的にしか見えなかった。そして正義は我にあり、と信じている以上は、自分が加害者になっている可能性なんて思い描いたことさえないだろう。
 オフィスを出ると、清々しい空が広がっている。淀んだ気配を一掃するかのように、空気が澄んでいるように思える。
 家族なんていらない。俺は俺が思う大事な人やことを、大事にしていけばいい。そのためにはこの場所ではだめだ。
 高層ビルが立ち並ぶ中で、頑張って追いつこうと背伸びをしているような職場を振り返り、「あと少しでお別れだ」と一人ごちた。三十代の折り返しまでのカウントダウンは、もう始まっている。
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