第1章 アイ ラブ ア ペン―(5)

文字数 2,786文字

 今日ので出来事をネタに一編。そんなふうに器用に使い回せたら、どんなに楽だろう。お約束事のようにパソコンを立ち上げてみても、それはただの慣習になっているだけで、何一つ僕の脳みそはそれらしい文章を生みださない。僕の指もじっとキーボードに貼りついたまま、そこに根を張ってしまったように動かない。
 加えて、意識せずとも自然にため息が漏れる。憂鬱な出来事こそが、表現の力になる。とか何とか、どこぞの作家がインタビューで答えていた記憶があるけど、僕に関して言えばそれはまるで当てはまらない。憂鬱な出来事は、どうしようもなく憂鬱になる。ただ、それだけだ。
「ニシくん、ごはんできたよ」
 と、パソコンの前で石と化している僕に、彼女はいつもどおり声をかけてくれた。そこで一瞬、ふと力が抜けて、ようやく「うーん」と体を伸ばす。ぱきぱき、とあちこちで関節が音を立てる。
『いただきます』
 手を合わせて、声をそろえて、食卓で向かい合う。もそもそと料理を口に運ぶ僕だけど、やっぱり気が散って、味がいまいちつかめない。彼女に申し訳なくて、でも何を弁明すればいいのかもわからなくて、今日の出来事をうまく伝えられる自信もなくて、結局僕は食べることに専念するくせに、「おいしい」の一言も喉につかえて出てこない。
「あ、デモやってる」
 彼女の不意の一言に、思わずはっと顔を上げる。そこには彼女の横顔があって、その視線はつけっぱなしのテレビに注がれていた。それに倣うと、夜のニュースが大規模なデモの様子を報道していた。新しい法案に対する抗議デモだ。
 長い長い行列に、僕は度胆を抜かれた。今日の昼間、あれだけキタさんが施行を催促していたものが、今これだけの人数に『NО』を突きつけられている。僕は知らなかった。何も知らなかった。特別、知ろうともしていなかったのだ。
「こんなに」
 黙り込んでいた僕が絞りだした声はひどくかすれていて、彼女はぴくりと反応する。
「こんなに、反対されてんだな……」
 後半は自分でも聞き取れないくらい、弱々しい声量になってしまう。でも、彼女はきちんとそれを拾ってくれて、「うん、そうだね」と応答する。
「だけど、これ届いてないかもね。何が何でも決議したいみたいだし」
 さらっと現実を口にする彼女は、とても落ち着いていて、ずいぶんと大人びて見えた。
「でも、当事者の家族はたまんないよ、きっと」
 だから、僕も置いていかれないように、必死で言葉を探す。今日得たばかりのつたない情報でも、頼りない知識でも、自分の考えをどうにかこうにか織り交ぜて、せめて目の前の人間には伝えておく。だって、そうじゃないと、
「何かあってからじゃ遅いんだし。誰だって自分が危険な目に遭うのなんて嫌だし」
 僕は一生、小説家になれないどころか、
「大切な人と一緒にごはんも食べられないなんて、平和でも何でもないよ」
 被害者や加害者になったことに気づかないままに、
「と、俺は思う……ごめん、俺がそう思ってるだけ」
 いつの間にか、目の前の人を失ってしまう。自分の言葉に責任を持たないかぎり、言葉を扱う資格はないのだ、きっと。
「めずらしいね」
 彼女は持っていた箸と茶碗を置いて、口元をほころばせている。急に堅苦しくしてしまった空気を、彼女は一瞬で柔らかいものにしてしまう。そういえば、そういうところに強くあこがれていたんだっけ、と古い記憶がまたひょっこり顔を出す。
「え?」
「めずらしいね。普段、ニュースなんか見たって、自分の意見なんか言わないのに」
「ああ、いや、ごめん……」
「何で謝るの? たまにはいいじゃん。これだけ一緒にいるんだし」
 すっと彼女が手を差しだしてくる。その意図がわからず、僕が間の抜けた顔をしていると、
「おかわり、いるんじゃないの?」
 そこで僕の手元にある茶碗が空っぽになっていることに気がついた。どれだけ気分が塞がっていても、きちんと無意識に空腹を満たしていた自分に耳が赤くなる。
 にやにやと意地悪に笑う彼女に、僕は「おいしいよ」と伝えて、茶碗を渡す。彼女の頬にも赤みが差したような気がした。



 休憩室で弁当を食べ終わり、窓の外を見ると、また飛行機雲がハートを描いていた。突き抜けるような青空によく映える。ただ、僕はその光景を冷静に受け止めている。きれいだなとか、面白いことするなとか、そういうただの好奇心は抜け落ちてしまっていた。
「あら! すごい、ハートじゃない」
 あの飛行機に負けないくらいの鋭い速度で、キタさんが高らかに声を上げる。
「きれいね。何かのイベントで飛んでるのかしら? ねえ、ニシくん」
「あれ、戦闘機ですよ」
「え?」
「戦闘機です、自衛隊の」
 昨夜、飛行機雲の話を何気なく彼女にしたら、「ああ、あれはね」と思わぬ種明かしをしてくれた。この街には、少し離れてはいるけど自衛隊の基地があるのだ。恐らく、そこの訓練飛行なのだろうと。
 彼女はただ事実のみを淡々と教えてくれたけど、それだけで僕は十分だった。それをどう解釈して、どういう言葉を生みだすのかは、全部自分次第だ。
 やけにきっぱりとした口調の僕に、キタさんは少なからず戸惑っているようで、いつものような矢継ぎ早の応酬がない。僕はさらに言葉を続ける。じっくりと考えたうえでの、自分自身で決めたことを。
「僕、電話しようと思ってるんです」
「え? 誰に?」
「うちの製品を服用して、体調を崩したと言われたお客様にです」
「は? 何、それ? クレーマーでしょ、ただの。やめなさいよ。下手にかかわったって、向こうは自分の非なんか認めないわよ」
「違いますよ。僕が認めるんです」
「は? ニシくん、何言ってんの?」
「僕が自分の非を認めて、自分の言葉で謝りたいんです」
「……それは上司の指示?」
「いえ、違います」
「だったら変に問題をいじくるのはやめなさい。こっちが悪いことになるわよ」
 いつの間にか目の色を変えて、噛みついてくるキタさんを怖いとは思わなかった。ただ、なぜかとてつもなく悲しくなった。今までに出会ったことのない深い悲しみに、急に足元が抜けたような感覚に陥った。
 どこまでも高く青い空と、どこまでも落ちていける底知れぬ穴と、そこを行き来する果てしないエレベーターに乗って、僕は、あるいはキタさんは、今どのくらいの位置にいるのだろう。
「こっちが悪いんですよ」
 真っ直ぐキタさんと視線を合わせると、向こうが怯えたようにうつむいた。もうキタさんと向き合うことはないのかもしれない。
「僕が悪いんです」
 窓の外では、ハートの飛行機雲はとっくに空に消えてしまっていた。

                                  ―第2章へつづく―
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