第4章 アイ ラブ ザ ワールド―(1)

文字数 3,048文字

「僕はそんな簡単に誰とも仲良くはできないですね」
 他人とはもちろん、家族や友人とだってどこか距離はあるし、そもそも平等に接することなんて無理です。そうニシくんは続けた。どことなく暗い顔をして、あきらめているかのように。
 体調でも悪いのかな。もしくは彼女がいるみたいだけど、喧嘩中とかなのかもしれない。ニシくんは話すたびに、ネガティブな結論へと向かっていく。マイナスに考えたところで、意味がないのに。
 私にとって、ニシくんは不思議だ。ううん、ニシくんだけじゃない。例えば総務のキタさんも、この前退職したミナミくんも、どこかみんな負のオーラをにじませていた。自分なんかと自虐的であったり、周りに敵意を持ったり、つまらなさそうに物事を見ていたり。どれもこれも人生を楽しむためには不必要なものだ。
 でも、そういうマイナスな感情を乗り越えてこそ、プラスの要因が生まれてくるのかもしれないな。だとしたら、やっぱり人生に無駄なことなんかない。この前のセミナーで、教わったとおりだ。
 早くも学んだことを目の当たりにして、私はちょっぴりうれしくなった。自然と笑いがこぼれてしまう。
「な、何かおかしいですか」
 ニシくんが私の様子を見て、困ったように慌てだす。相手の反応にいちいち取り乱すニシくんはやっぱり私から見たら子どものようなもので、とても微笑ましい。成人をとっくに過ぎた男性に、こんなことを思うのは失礼かもしれないけど。
「ううん、ごめんね。ニシくんの言葉に笑ったわけじゃないの」
 でも、誤解させてしまったのはいけない。私は頭を下げる。すると、それに対してもニシくんは慌てて「あ、いえ、そんな」とあたふたしている。
「そっか。平等にできないのかなあ」
 私は話を軌道修正した。そもそもは『どんな他人も友達や家族』のような意味合いのことを、ちょっと前に私が話していて、ニシくんはそれをずっと胸に留めていてくれたらしい。それを受けての会話、ううん。プラスアルファで、ニシくんから尋ねられたのだ。最近、通った法案をどう思います? と。
 ミナミくんとまるで同じ質問をされたことに驚いた。やっぱり今の旬な話題といえばそれなのだろうか。周りの人たち全員に、この問いかけをしているのだろうか。みんな、どういう答えを持っているのかな。私はもちろん、ミナミくんに聞かれたときと同じように答えた。みんな仲良くすればいい、と。
 そうしてニシくんのネガティブな返しにたどり着く。
「できないと思います。少なくとも僕は」
 挙動不審になりがちなニシくんだけど、それでも以前よりずっと自分の意見をはっきりと言うようになったなという印象を受けた。子どもがいたら、成長を実感するってこういうことなのかなと思う。キタさんに聞いてみようかな。
 でも、ネガティブなことばっかり言うのは成長なのかな?
「うーん。どうしてそう思うの?」
「ど、どうしてって……やっぱり合わない人はどうしたっているじゃないですか。価値観が違うっていうか」
「うーん」
「え、アズマさんはいないんですか」
「というかね……合わない人とは何で仲良くできないって思うの?」
「だ、だって合わないんですよ、考え方が。そりゃあ無理でしょう」
「合わない人のほうが、自分とは違う世界を見せてくれていいじゃない」
「ま、まあ、確かにそういう場合もありますけど」
 もごもごとニシくんは揺れ動く。ちゃんと人の意見にも耳を傾けられるのが、ニシくんのいいところだ。どこ吹く風で聞いてないような人もいるし、自分の意見に固執して聞く耳を持たない人もいる。ニシくんはとても素直だ。今度、私の行っているセミナーを紹介してみようかな。
「で、でも、全く相容れないこともあるじゃないですか。生理的に無理なこともありますし、許せないこともあると思うんですよ」
「あるかなあ」
「あ、ありますよ。もう生まれ変わらない限り、無理みたいな人だっていると思うんですよ」
 そこで私は一瞬止まってしまった。きょとんとした私を見て、ニシくんのほうがきょとんとした顔をする。不自然に空いた間に焦るのは、やっぱり私じゃなくてニシくんのほうだ。
 かわいらしい。二十代ってこんなに精いっぱいで、余裕がないものだったかな。もうずいぶんと遠い昔になってしまった時代は、うまく思い出すことができない。すべて薄いもやがかかったみたいで、自分の記憶力というより、脳の構造そのものの欠落を真剣に疑ってしまう年齢だ。
 やがて本気で慌てふためきだしたニシくんのために、私は止まっていた時間を再び戻す。
「じゃあ生まれ変わればいいんじゃない?」
「え?」
 だけど今度はニシくんが時間を止める。口をあんぐりと開けたまま、固まってしまって動かない。いつかイギリスかどこかのストリートで見た、パントマイムの大道芸人を思い出した。その映像は鮮明に覚えている。そこにかかっている薄いもやは、かつて本当に見た風景、霧が立ち込めていたものだ。
 口を金魚みたいにぱくぱくさせながら、ニシくんは必死で言葉を探している。
「そ、それはどういう……」
「どういうって……そのままの意味だけど?」
「自分が相手を好きになれるように改心するとか、そういうことですか」
「ううん、そうじゃなくて、本当にそのままの意味。あ、生まれ変わりって信じてない?」
 ニシくんの全開だった口が、さらに大きくオープンする。顎がはずれちゃうんじゃないかなって心配になるくらい。表情豊かな子だなあ。
「アズマさんは信じてらっしゃるんですか……」
「うーん、信じてるっていうか、人って本来生まれ変わるものだなって思ってるよ。だからね、今を精いっぱい生きて、来世でも実りある人生を過ごせたらいいなって」
 ニシくんは眉間に深いしわを寄せて、何度かそれを指で揉んだ。ほぐすように動かしても、刻まれたそれはなかなか和らいではくれない。何か難しいことを言っただろうか。
 私は安心させる意味も込めて、ニシくんに向かって笑いかける。すると、ニシくんのしわはなぜかますます深くなった。
「生まれ変わりはあるということ……」
 自問自答するようにつぶやくニシくんに、「うん、そう」とさらに笑顔を送る。なのに、ニシくんは口の端をぴくぴく痙攣させて、視線をそらした。いったい、どこを見つめているのだろう。会話の基本は目と目を合わせること。話すときは話すことのみに集中すること。何かをしながら話すということは絶対にしない。
 昔、セミナーで習ったそれを、私はきちんと順守している。相手も気持ちよく話せるように。
 だけど、再び目を合わせてくれたニシくんは、生まれ変わっても二度と出会えない予感をさせるくらい、遠い遠い眼差しをしていた。いったい、どこを見つめているのだろう。
「生まれ変わりがあるって思ってたら、何でもできてしまいそうですね」
 ニシくんは沈んだ口調でそう言った。内容と表情が噛み合ってないなと思った。だからそれを調整するように、私はニシくんの分まで明るく答えた。
「うん、そうだね。それくらい頑張っていけばいいよね」
 口角を意識して上げる。笑顔には力がある。病気を吹き飛ばすこともできるし、周りを幸せにすることもできる。スマイルライフ。それが私の座右の銘でもあり、私が行くセミナーのテーマでもあった。
 ニシくんはぎこちなく笑っていた。不器用な子だなあと思った。
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