第2章 アイ ラブ ア サン―(1) 

文字数 3,069文字

「家族がいるからいいってわけじゃないだろ」
 太陽がまぶしい。最近、気持ちのよい天気が続いている。これなら洗濯物もすぐ乾く。中学生の一人息子はサッカー部に入っている。何かのコントのように、洗濯機を回しても回しても、すぐ次の汚れた衣服を持ってくる。洗濯機を回しすぎて、そのうち私の目のほうが回るんじゃないかと思うくらいに目まぐるしい日々。天気の良しあしは、私にとって死活問題だ。
 青い空に白い飛行機雲が走る様子を見て、清々しい気分に浸っていたところに、狙っていたかのような水を差す声が耳に飛び込んでくる。陽気に見せかけて、大いに嫌味を含んでいるような言い回し。あれは営業のミナミくんだ。
 休憩室の入口あたりで、ほかの営業とくっちゃべっている。時折交わす会話でも、誰かと交わしている会話でもはっきりとわかる。彼は私が嫌いだし、私も彼が嫌いだ。考え方というか、価値観そのものが合わない。生まれ持っての相性というやつかもしれない。
「家族を理由に何でもかんでも許されるわけない。少なくとも俺はないわー」
 けらけら笑う彼につられて、話し相手も笑い声を上げる。軽やかに冗談っぽく言えば、何でもかんでも許されると思っているミナミくんこそが、私にとってはない。かといって、ひたすら何でもかんでも無関心を装って、自分の意見を言わないニシくんも、私にとってはない。ない存在ばかりだ。
 でも、別にそれでいい。だって、ただの職場の同僚なのだから。私にとってあるのは家族。もっと言えば息子。生意気な盛りだけど、かわいくて仕方がない。息子のためなら、息子を守るためなら、多分何だってできるし、何だって許されると思う。大切な大切な家族。当たり前だろう。
 テレビでは小さな子どもが誘拐されたり傷つけられたり、あるいは命を奪われてしまったりといった事件が、毎日のように映しだされている。信じられない世の中だ。
 また、そういった事件を犯した人間が、のうのうと生き永らえている現状も、私には信じられない。悪の芽はきっちり摘んでおくべきだ。
 裁判過程で未だに反省の色を見せない受刑者の様子が伝えられ、私は薄く唇を噛む。そこに「キタさん」と私を呼ぶ声がして、昼休みが終わりを告げようとしていることに気づく。
 応じながら頭を切り替える。週末は息子のサッカーの試合だ。今から胸が高鳴っている。今週は最後の仕上げで練習時間を増やすと息巻いていたから、迎えに行ってあげなきゃと気づき、午後のスケジュールをさっさと頭の中で組み立てる。
 あまり残業はできない、しないと心に決めて、持ち場に戻った。



 総務の仕事は私に向いている。物品の在庫を管理し、社員が持ちだしていくぶんにも目を光らせる。こまめにリストを確認し、ボールペン一本でも、つい先日持っていった社員には理由を問いただすようにしている。そうでないと、平気でみんな備品を紛失するのだ。なくしても、またもらえばいい。そんなふうにのんきに考えている。
 しかし、塵も積もれば何とやらで、それが何回も何十回も続けば、息子の給食費やらユニフォーム代にも及ぶと想像すると黙っていられなくなる。
 大概は一度、口酸っぱく注意すれば、迷惑そうな顔をしながらも備品をもらいにくる頻度はぐっと減る。子どもと同じだ。だけど、子どもよりも懲りない人間が、今も二人ほどいる。
「お疲れ様ですー。ボールペンお願いしますー」
 いかにも悪意のない陽気な声を出して、一人目はやってくる。私とは根本的に合わないミナミくんだ。
 彼に関しては、もうあきらめている。来たと思ったら、すっと身を引いて、同僚に対応を任せている。残念ながら、私以外の人間とは概ね相性がいいらしく、世間話に花を咲かせていく。
 まだ指導をあきらめていなかった頃、私は彼に言った。
「ボールペン一本管理できないで、よく営業できるわね。息子のほうがよっぽど物分かりがいいわ」
 そう挑発的に告げてやったあとに、「早く結婚して、子ども作ったほうがいいんじゃない。そしたら大人になれるかもよ」と笑いながら、ちょっとした意地悪のつもりで付け加えた。
 すると、ミナミくんの顔色がさっと変わった。目つきも変わった。その表情にははっきりと怒りや軽蔑が浮かんでいた。それを隠そうともしていなかった。
 ――怖い。
 私はこんなに人から敵意を向けられたことはなかった。素直に恐ろしかった。目の前の見知った人間が、急に見知らぬ他人に、自分に危害を加えてくる敵へと変貌した。
 全身が硬直してしまい、何もできなくなった私に、ミナミくんはつぶやいた。ぼそっと、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で一言。
「もういいです、あんたは」
 そう言って、足早に立ち去っていった。それでもまだその場から動けずにいると、同僚が「大丈夫?」と声をかけてくれ、それを合図にようやく体の緊張がほどけた。深く息を吐いて、いつの間にか自分が呼吸を忘れていたことに気づく。
「大丈夫、大丈夫。何なのかしら、ミナミくん。怖い顔しちゃって」
 相手を安心させるためというよりは、自分を落ち着かせるために茶化してみせた。
 それからミナミくんは備品を取りに来る頻度は少しだけ減ったけど、相変わらずの調子で懲りてはいない様子だ。ただ、私と目を合わせることはなくなった。先にあきらめたのは、私じゃなくてミナミくんのほうなのかもしれない。
「ありがとうー」
 同僚からボールペンをもらい、上機嫌で去っていく彼の背中をそっと見送る。同僚は笑顔で手を振っている。
 ミナミくんは怖い。ミナミくんは敵だ。私の中ではそう位置づけられている。
 そして、もう一人の要注意人物。
「ごめんなさい。消しゴムをください」
 こちらも軽やかな、さらりとした口調だけど、ミナミくんとは少し違う。ミナミくんのようなあざとさが一切ない、純粋な悪意のない悪意。敵にはなり得ないけど、味方にもしたくない厄介な人物。それが私の中でのアズマさんの評価だった。
「消しゴムですね。アズマさん、つい一週間前も消しゴムを一つ補充しておられますけど、これはどうなさったんですか?」
「あ、えっと……ごめんなさい。あの、いっぱい使うからね、なくしてしまって。気をつけなくちゃいけませんよね。本当にごめんなさい」
 おろおろとうろたえながら、深々と頭を下げてくる。いつもこの調子なのだ。指摘すると心底申し訳ない顔をして、真摯に謝ってくる。まるでこちらが悪いことをしたみたいに、全身全霊で謝ってくる感じ。
 こうなってくると、もう何を何度言っても無駄なのだ。やがて私のほうが辟易して、根負けしてしまう。
「本当にね、アズマさん。これが最後ですよ。いいかげんにしてくださいね」
「はい、はい。本当にごめんなさい。キタさん、ありがとうございます」
 最後には心底感謝の意を込めて、満面の笑みを携えながら、もう一度深々とお辞儀をしてくる。その完璧な角度は、何かのセミナーで身につけたものなのだろうか。
 アズマさんは謎の新興宗教だか、マルチだか、自己啓発だかにはまっている。まことしやかにささやかれているうわさに過ぎないが、恐らく事実であろうと社内の誰もが思っている。
 だからこそ、深く追及できない。下手を打つと、こちらが向こうの世界に引きずり込まれてしまいそうだ。
 軽やかな足取りのアズマさんを見届けて、さっさと次の仕事へと着手する。今日は残業なしだ。早く息子の顔が見たい。
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