第3章 アイ ラブ ワーク―(4)

文字数 2,028文字

 家に帰って、まずパソコンをチェックした。スズキからのメールは届いていない。仕事のことで質問を送ったのだが、音信不通でもう三日になる。海外で連絡が取りづらい状況なのは重々承知だが、回答が得られないと先へ進めないという、もどかしい待機状態が続いていた。
 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、グラスに移さずにそのままラッパ飲みをする。金はかかるが、いっそ電話してしまったほうが早いかもしれない。用件だけ手っ取り早く済ませて、雑談に興じる前に切ってしまえばいい。
 そう決めて、何となくBGM代わりにテレビをつけてから、携帯電話を取りだした。履歴画面からスズキの名前を探す。恋人の名前はもうずいぶんと載っていない。一緒に暮らしているのだから、電話をかける必要がないのは当たり前といえば当たり前なのだが、それにしては顔を突き合わせてもいない。誰よりも身近にいるはずなのに、今日なんかはキタとのほうがよっぽど話したことになるだろう。
 その事実に苦笑しながら、スズキの名前を見つけ、電話をかけようとする。
『本日、日本時間の午後四時頃、タイでテロ行為と見られる爆発が起こりました』
 ニュースキャスターの読み上げに、俺の指が反射的に止まる。テレビを見ると、爆発の瞬間を捉えた映像が流れていた。
『この爆発による死者は一名、重軽傷者は十九名。内、日本人と思われる男性が一名です。詳しい情報はまだ入ってきておりません。犯行声明はなく――』
 妙に動きの鈍い脳みそで、必死に早口のニュースに追いつこうとする。食らいついて、しがみついて、やっと追いついた頃、ニュースキャスターはもう別のレースを走っていた。周回遅れの俺は、追いついただけじゃ飽き足らず、もう一周走って報道の事実を追い越してしまう。
「スズキもタイにいるよな……」
 呆然と口にした言葉は、俺にとっては報道よりもずっと現実味を帯びて、猛スピードで俺を振り回そうとする。あり得ない。でも、もしかしたら。二つの可能性を行ったり来たりしながら、俺は誰もいない部屋で一人、おかしなステップを踏んでいた。
 まるで何周もトラックを駆け抜けたみたいに、鼓動が激しくなる。呼吸が浅くなる。得体の知れぬ恐怖が、常に俺の背後にぴったりとくっついているような気がして、何度も振り返った。狭い部屋には、当然誰もいない。スズキも、恋人も。
 俺は気づいたら電話をかけていた。コール音が無機質に響く。携帯電話を握る手が汗ばんでいるのに、体の芯はひんやりと冷たい。怖い怖い怖い。
『もしもし』
 向こうから聞こえてきた声は、スズキではなく俺の恋人だった。無意識に恋人にコールしていたようだ。久しぶりに電話越しに聞く声は、少しかすれていて、深い疲れを感じさせた。途端に申し訳なさが込み上げてくる。
「あ、ごめん。仕事中……だよね?」
『そりゃそうだよ』
 はっきりとあきれたように返される。そりゃあそうだ。俺だってそう思う。なぜ、俺はこんなにもわかりきったことを確認しているのだろう。
 それでも普段とは違う俺の様子を察したのか、恋人は訝しげに尋ねてくる。
『何? 何かあったの?』
「スズキが」
 聞いてくれたという喜びから、俺は勢いあまってスズキの名前を出した。恋人はますます混乱したようで、一つため息をつく。
『スズキって……ああ、何か仕事を斡旋してくれる友達だっけ?』
「そうそう。そのスズキ」
『何? 浮気でもした?』
「え?」
 茶化したような恋人の態度に、俺ははっきりと苛立ちを覚えた。今はそんな冗談を言っている場合じゃない。第一、俺がスズキと浮気? あり得ない。スズキはストレートだ。俺のことをそんなふうに見てくれるわけがない。そんなことはどうでもいい。これは緊急事態なのだ。
「そんなわけないじゃん。それどころじゃなくて」
『だって、スズキって人のこと話すとき、結構恋する乙女の顔してたけど? わかりやすいよ』
「……違うよ。とにかくさ、今はそういう話じゃなくて」
『これから仕事でも一緒だもんな。こっちの世界を開眼させるチャンスじゃん?』
「何でそんなこと言うんだよ。そんなことあるわけないじゃん」
『絶対ないなんて言い切れないだろ。可能性なら、どんなことにだってある』
 ない、と言い切ってしまいたかったが、恋人の言葉に俺の言葉は奪われる。つけっぱなしのテレビが、いつの間にか先ほどのニュースの続報を伝えている。
『おまえはおまえが思ってる以上に浮き足立ってたし』
 タイで起きた爆発テロに巻き込まれた日本人男性は、会社員のヤマダタロウさん。
『俺はそれ見て、何も言えなかったよ。でもさ』
 ヤマダさんは意識不明の重体です。
『俺、結構傷ついてたんだよ。知ってる?』
 よかった、スズキじゃない。俺は確かにそう思った。スズキは無事だ。スズキは無傷だ。
俺は恋人の声を遠くに聞きながら、確かにそんなことを思っていた。
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