第4章 アイ ラブ ザ ワールド―(5)

文字数 3,261文字

「うわ、本当にキタさん来たー」
「何それ、おやじギャグ? 全然笑えない」
「久しぶりなのにきついね、相変わらず」
「あ、お疲れ様です。キタさん、アズマさん。何飲まれます?」
 定時を過ぎてから、雑務を押しつけられそうになった私を、キタさんは颯爽と連れだしてくれた。
 雑務を頼んできた同僚を一瞥して、
「これ、別に明日でもいいわよね? ってか、急ぎなら時間内に頼むのが筋じゃない?」
 と持ってきた資料を突き返したキタさんは、まさに『鬼のキタ』だった。同僚も震え上がり、すごすごと退散していった。
 前を足早に歩くキタさんは「お店予約しときました」「ニシくんを誘ったら、ミナミくんと約束あったみたいで、彼もセットでついてくるけど問題ないですか?」「個室でいいですよね?」と、次々と話しかけてきて、私はただただ追いつくのに必死だった。
 キタさんはきちんとメイク直しをしていて、ぴりっとした空気をまとっていた。ああ、これが『鬼のキタ』、もとい仕事ができる女性なのかな。堂々とした背中を見ながら、そんなことを思った。
 ちょっと高そうな焼肉屋の個室に案内されると、部屋にはもう既にミナミくんとニシくんがいた。二人とも、小洒落た雰囲気に「はー」とか「ほー」とか感心している最中だった。
「ごめんね、ニシくん。急にお邪魔しちゃって」
「いえいえいえ、いいですよ、全然」
「キタさん、ニシくんのこといじめないでくださいねー」
「そっちこそ、二人で会うほど仲良かったっけ?」
「熱い友情が芽生えたんだよ。なあ、ニシくん?」
「え、あ、はあ……とにかく飲み物頼みましょう」
 ニシくんがメニューを渡してくれる。その間も軽いテンポで会話は続く。不思議だった。取り立てて交流が深かったわけでもない、しかもそのうちの一人はもう退職しているのに、こうして一堂に会して、割とスムーズに話が進んでいる。
 そして、何よりも不思議なのは、その中に自分が混じっていることだった。いや、私はまだ観客状態だった。目の前で繰り広げられる会話劇を、ただ茫然と見つめていた。
「キタさんとアズマさんは、どうして今日一緒なんですか?」
 ようやく飲み物やらお肉やらの最初の注文をして、一息入れたところでニシくんが尋ねてきた。確かに男性陣から見たら、私とキタさんの取り合わせこそ不思議だろう。
 ここまでの経緯を話すのはややこしいし、どことなく抵抗がある。微笑んでかわす余裕もなく、どぎまぎしていると、
「私が誘ったの。何かお肉食べたいなあって思って。でも、一人じゃ来れないでしょ」
 あっけらかんとキタさんは言った。目を丸くする私をよそに、ニシくんもミナミくんも「ふうん」と興味なさそうにうなずいている。
 でも、キタさんは私と来ることを選ぶ理由がない。彼女には家族がいる。だから、キタさんがしれっとついた嘘に、二人は気づいているはずだ。だけど、何も言わない。ただ、運ばれたお肉に目を輝かせて、せっせと鉄板の上に運んでいる。
「まずは乾杯でしょ」
 あきれたように言うキタさんに、男性陣は慌ててグラスを掲げる。私もそれに倣って持ち上げる。
「何だか変なメンバーだけどお疲れ様。はい、乾杯」
 仕切りのキタさんも、かしこまった場にするつもりなんてないらしく、適当な挨拶でお互いのグラスを雑にぶつける。ミナミくんは「適当だな」と笑いながら突っ込んでいる。キタさんはそんな彼をにらみつけるけど、その目は笑っていた。この二人はこんなに柔らかい空気を醸しだしていたっけ。
 和やかな雰囲気の中、それぞれに焼けた肉を頬張っていると、キタさんが再び口を開く。
「で、本当に何でミナミくんとニシくんは会ってるわけ?」
 やけにこだわるんだなと傍観していると、ニシくんは思いがけぬことを告白する。
「すみません。実は僕、近々会社を辞めようと思っていて」
 突然の展開に、私の箸は止まった。だけど、キタさんはまるで予期していたかのように涼しい顔をしながら食事を続けている。
「それで、たまたまミナミさんと休みの日にばったり会って。いろいろ立ち話で相談してるうちに、じゃあ一回腰を据えて話そうと言ってくださったんです」
「へえ。いいとこあるじゃない」
「おかげ様で。つーか、あんた全然驚かないんだな。もしかして知ってた?」
「別に知らないけど……何ていうか予感はあった」
 「怖っ」と軽口をたたくミナミくんを除いて、ニシくんも私もキタさんの観察眼に頭が下がるばかりだった。この人はこんなに周りの変化に敏感だったっけ。『鬼のキタ』は、昔とは別の意味で健在なのかもしれない。
「それで、僕……ミナミさんとはまるで別のジャンルなんですけど、転職じゃなくて、その……小説家になりたくて」
 続くニシくんの告白には、さすがのキタさんも「小説家?」とオウム返ししている。私にとっては、もう突拍子のないことの連続だ。今日一日で、あまりにいろいろなことが詰め込まれすぎていて、目が回ってしまう。
「で、一作書き終えて、まだ彼女にしか読ませてなくて。でも、何ていうか、彼女じゃなくて全くの他人に読んでもらって、感想を聞きたいなって思ったんですよね。それでミナミさんに」
「俺は他人かー」
「え、あ、いや、すみません」
「他人でしょ」
「まあ、そりゃそうだ」
 からからと笑うミナミくん、気にせずお肉を焼き続けるキタさん。そして、目を泳がせるニシくんと、不意に視線が絡む。そこで急に合点がいく。
 最近、世間に関心を寄せるようになったのは、つたなくても自分の言葉で思いを伝えるようになったのは、全部文章を綴るためだったんだなと。いや、文章を綴っていくうちに、そういうふうに彼は変わっていったのかもしれない。
 みんな、いつの間にか、ちゃんと自分自身の言葉で伝えて、それに責任を持つようになっていた。
「どんな話?」
「え?」
 黙り込んでいた私が、急に重い口を開いたことで、みんなが一斉にこちらを見る。でも、それは刺すような視線でも、好奇の視線でもない。だから、私は続ける。
「ニシくんが書いた小説。何をテーマにしてるの?」
 純粋に知りたかった。変化を遂げた人間が、いったいどんなことを思って、何を綴るのかを。消しゴムでは消せない、どんな確固たる思いがあるのかを。
「最近、可決した法案がモチーフなんですけど」
 セミナーで意見が飛び交った場面がよみがえる。平和のために。説明責任。違憲行為。そのどれもが、実は私にとっては遠い世界の、時代を超えた昔話のようだった。そのくらい実体のない、雲をつかむようなお題だった。
「誰もが加害者になり得るってことを言いたいんです」
 だけど、すべて現実だった。ミナミくんも、キタさんも、そして恐らく私も同じ表情をしてニシくんの言葉を真剣に受け止めている。だけど、発言したニシくんさえも、きっと鏡のように私たちと同じ感情を抱いて、同じ悲しみを浮かべている。
 陰でだけ笑う同僚。いつもなくなる消しゴム。理想論を並べるヒガシノさん。去っていこうとするセミナー仲間。
 死刑執行。採決をめぐる怒り。鬼だったキタさん。退職したミナミさん。決意したニシくん。そして私は。
「よければ、キタさんやアズマさんにも読んでいただきたいです」
 口を開く前に、ニシくんが先読みしてくれる。だから、私は心置きなく尋ねることができる。
「何ていう題名なの?」
 もうニシくんは聞き返したりしない。どんな問いかけにも、考えて考えて考え抜いて、ちゃんと自分の答えを出してくれるのだろう。
「『Q』っていうんです」
 私もいつか、変わりたい。そのために、いつも問いかけ続けていたい。間違えないように。間違えたとしても、自分自身で気づけるように。
「いい題名だね」
 私はそうして、今日初めて笑うことができた。

                                        ―結―
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