第3章 アイ ラブ ワーク―(3)

文字数 3,575文字

 俺の恋人は納期直前の追い上げで、職場での泊まり込みも視野に入れるほど忙しくなっていた。帰ってきたとしても明け方に近い深夜で、俺は残念ながら深い眠りの中にいるし、恋人は明日の準備を超特急でしてから、短すぎる睡眠時間を何とか確保するのに必死だ。自然と顔を合わせる時間がなくなってくる。互いの痕跡は感じ取っていても、互いの姿を確認することもままならなかった。
 スズキは俺に仕事内容の詳細メールをくれたあと、慌ただしく異国へ飛んだらしい。海外にも顧客がいて、しょっちゅうあちこち出向いているようだ。連絡が取りづらくなるから申し訳ないという旨も添えてあった。
 俺の周りはとても忙しい。俺の周りはいつも充実している。俺だけが台風の目のように、拍子抜けしたような平穏さの中にいる。それをもっと英語の勉強の時間に充てればいい。もっと上を目指せばいい。退職をして、自分の身一つで勝負して食っていこうとしているのだ。やることは山ほどある。時間はいくらあっても足りない。
 なのに、俺はどこか上の空だった。今の仕事には全力投球しない、適度にこなしていくことを決めていた。だから、没頭していない分だけ、余裕をかませるはずだった。
 それなのに、今これだけ地に足がついてないような心地でいる理由は、認めたくはないけどわかっている。
「いいよ。これ、私がやっておくから、もう帰って」
 口調は素っ気ないものの、以前とは違い毒気とか敵意といったものが抜けている。言われた相手も恐縮するより、心底ありがたいといった感じで頭を下げている。
 キタの空気が柔らかくなっていた。それは同時に弱々しくなったともいえるが、明らかに自分自身を一歩引いて見ているような余裕も生まれている。そんなささやかな違いにも気づく俺は、どれだけキタのことを嫌っているんだろうと虚しくなった。
 キタは先日のトラブルから、職場ではめったに家族のことを口にしなくなった。それはすなわち、家族を理由にすることも、家族を前提とすることもなくなったということだ。ニシくんが分析していたキタ像が、今現実と結びついている。
「何、ボールペン?」
 少し離れた距離から見ていた俺に気づき、キタは声をかけてくる。そしてフロアから出て、薄暗い廊下で対峙する。これまでずっと互いにうまく避け合っていた。急なアドリブに俺は大いに戸惑ったが、その実、キタもためらいはあったようだ。強気な物言いとは裏腹に、俺に向ける瞳が頼りなく揺れている。
「あー、いや、今日は別に何もないです」
「そう」
 投げやりに返すと、向こうもそれに安堵したように短く答える。それ以上に会話が広がることなんてない。このくらいのアドリブなら、全然許容範囲内だ。俺もこっそり胸をなで下ろし、焦っていることを悟られぬよう、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする。
 だけど、キタはとうに俺を超える役者になっていた。まるで予想外のアドリブを、鈍器のような破壊力をもって繰りだしてくる。
「ミナミくんさ、いつぞやは……ごめん」
「え?」
 足を止めて、勢いよく振り返る。端から見れば、しゅんとしているのはキタのはずなのだが、確実に狼狽しているのは俺のほうだ。何だ、この女。いったい、何のことを言うんだ。何をほじくり返そうとしてるんだ。
 突然の展開に、俺の頭は忙しなく動き始める。脇から嫌な汗がにじみでてくるのがわかる。大御所俳優についていくのに必死な、新人の大根役者のようだ。
「前に結婚しろとか、子ども作ったほうがいいとか、言ったと思うんだけど」
 固まってしまった俺を見かねたのか、キタは迷いながらも自分から切りだしてくる。思うんだけど、じゃない。言った。絶対に言った。俺はそれを一字一句間違いなく覚えている。
「ずいぶん、勝手なこと言った。ごめん」
 キタは俺の目の前で深々とお辞儀をした。この異常なまでに完璧な角度を、俺はどこかで見たことがある。完璧すぎる。ああ、これはアズマさんだ。アズマさんの決して善意じゃない、悪意のない悪意に酷似していた。
 何だ。何なんだ。台本があるならば、定説どおりにするならば、俺はここで「気にしなくていいです」とか言って、「俺のほうこそ、これまで態度悪くてすみませんでした」とか謝って、終わりにしてしまうのがいいのだろう。
 俺だってバカじゃない。そんな安いドラマのような展開なら、いくらでも読める。気の利いた台詞だって、きっと用意できる。
 何も言わない俺に、キタはさらに角度を深くする。すばらしい演技だ。でも、
「ごめん」
 なぜ、俺が許さなくちゃいけないんだ?
「……ふざけんなよ」
「え?」
「何、今さらいい人ぶってんだよ」
「そんなつもりじゃ」
「謝ったら許されるって思ってんだろ?」
 顔を上げたキタは、さっと顔色を変えた。面白いくらい、みるみる青ざめていく。図星か、図星なんだろ。そういうつまんないパフォーマンスに俺を巻き込むな。
「……そんなことないけど」
「あるだろ。あんた、謝って許してもらって、安心したいんだろ」
 気持ち悪い善行をするな。被害者ぶって、突然殊勝なふりをして、かわいそうなやつを演じるな。
「甘いんだよ。あんたが今まですっかり抜け落ちて、忘れてたようなことでも」
 あんたは何もわかってない。
「俺はずっと覚えてた。ずっと腹が立ってた。あんたの想像以上に、ずっと傷ついてた」
 キタは目を見開く。何を驚いてやがる、と罵ってやりたいところだが、残念ながら俺も俺の発した言葉に衝撃を受けていた。俺はそんなに気にしていたのか? あんな取るに足らない、どこにでもありそうなつまらない言葉に、そこまで傷ついていたのか?
「ごめん」
 動揺が止まらぬ俺をよそに、キタはさっさと気持ちを立て直す。結局、その程度のもんなんだろうと、いくらでも揚げ足を取ることはできる。だけど、その続きで足をすくわれたのは俺のほうだった。
「許してもらおうって思ってた。それで自分自身をやり直したいなって思ってた。だって、大抵の場合、謝ったら許すでしょ」
 自虐的に笑うキタは、等身大のキタだった。今までよりも自分をさらけだして、でも手の内をすべて見せてしまい、自分の逃げ道も用意しないような在り方だった。
 だから、わかる。そこに裏表はもう一切ない。
「私だってどんだけ腹が立っても、謝られたら許すもの。それはもう投げやりになってるだけなのかもしれないけど、面倒臭いし、とりあえずその場を丸く収めようとはするでしょ。でも、さすがミナミくん。さすがって言い方もおかしいけど、なあなあにはさせてくれないね。許してほしいなって思ってたけど、よくよく考えたら許してくれないよね、君は」
 饒舌に語られる俺のイメージは、イメージではなく間違いなく俺そのものだった。なぜ、キタがそれを知っているのだろう。
「私は君が苦手だから、君のことはよくわかる」
 そうか。単純な答えだ。俺だって、キタのことはよくわかる。苦手だからだ。嫌いだからだ。ただ、それは同属嫌悪だということも、頭の片隅ではしっかりと気づいていた。
「私さあ、最近息子のことでちょっとトラブルがあって。それまで割と円満だと思ってた親子関係も、あっさり崩れてきちゃったんだよね。バリバリ反抗期真っ只中だし、いつか実の息子に刺されるんじゃないかなって思っちゃうくらい」
 キタは口の端を歪めながら、急に愚痴っぽく話し始めた。ため息をつく彼女は、ひどく疲れて見える。俺はただ黙って、次の言葉を待った。
「とか言って、私のほうが先に刺しちゃうかもしれないよね。そういうことをよく考えるようになった。そのたび、ミナミくんの顔が浮かぶ。何でだろうなあって思ったんだけど、私のことを敵意むきだしでにらんでくる息子の目が、ミナミくんの目とどこか似てるからなんだよね」
 「ミナミくんのほうが、悲しそうなんだけど」と続けたキタの声は小さく、もはや俺に向けて話しているのではなく、独り言のようなものなのかもしれない。でも、俺は耳を傾ける。余すことなく、それらをすくいあげる。
「だから、ミナミくんに許してもらえたら、息子ともうまくやっていけるかなって、根拠もなく考えてた。ごめんね」
 キタは今にも泣きだしそうに顔をくしゃっとさせて、でも決して泣かなかった。少しだけ潤んだ瞳から、涙がこぼれ落ちるのを待ったが、それは叶わなかった。俺よりも、きっとキタは強い。
「俺は練習台かよ」
 引きつってうまく笑えた自信はないが、キタが微笑んだのを見て、伝わったんだと思えた。たかだか十くらいしか離れていないはずの女性が、なぜだかずいぶんと年上に見えた。うっかりと自分の母親と重ねてしまいそうなほどに。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み