第8話 モンキーブレッド

文字数 2,629文字

 今年もイースターがやってきた。ノアは九歳になった今でもイースターバニーを信じているようで、いつものエッグハントを楽しみにしていた。
 うちの場合は、前日の夜、ノアが眠った後に、旦那と二人でイースターエッグを用意する。プラスチックの卵型のカプセルの中にお菓子や少額のお金を入れて、部屋中に隠す。翌朝起きてきたノアがそれに気づいて、部屋中に隠された卵を拾って歩く、というだけの行事だ。

 今年もそれが無事に終わり、旦那がいつもの通り、アロス・コン・ガンドゥーラスとトストーネス、そして、ベトニーという、大きな豚肉の塊を焼いた。プエルトリコの伝統的な祝いの料理だ。

 日が暮れた後には、庭のデコレーションを外す。

 クリスマスには何の飾りつけもしないのに、このときだけは一か月くらい前から、前庭の枯れ木にたくさんのプラスチックの卵型のオーナメントをぶら下げる。下げたときにはまだただの枯れ枝で、卵をぶら下げるだけで一気に華やかさが増す。次第に暖かくなりはじめ、片づけるころには枝に若葉が見え始め、春の訪れを感じる。

 この作業をするときはいつも、カイリーとマイケルを思い出す。

 イヴォンヌは意識の高い女性だ。本当に優しくて心が広くて、天使のような人だ。普段から世界中で子供たちが虐待されていることに心を痛めていて、自分たちはあとふたりくらいは養えるほどの経済的余裕がある。一人でも虐待されて育った子が幸せになれるように、と、児童福祉施設から子供をふたり預かっていた。それが、二年位前。カイリーとマイケルだ。
 彼らは本当に壮絶だった。実の母親と母親の彼氏からひどい虐待を受けていた。イヴォンヌの所に連れてこられたとき、四歳のマイケルという男の子は首から下を全身ギプスで固められていた。人の目を見て話すことができず、毎晩のようにうなされていたという。上の女の子はカイリー。八歳だったけれど、学校にも通わせてもらえていなかったから読み書きや計算はできなかった。一見普通の子だけれど、新しく買ってもらったものをすぐにめちゃくちゃに壊そうとしたり、学校から一人ずつ全員に支給されているクロームブックを水に沈めたりしていた。友達に殴られても、笑いながら、「叩いてもいいけど、あんまり強く叩かないでね」と言ったり、ちょっと普通の子とはちがっていた。悪い言葉を言って校長先生に呼び出されたりすることも少なくなかった。何があったか知らないが、女の子と取っ組み合いのけんかになったこともあった。校長先生に呼ばれて行ってみると、首筋に絞められた指の跡がまだくっきりと残っていたという。
怒られても落ち込む様子もなく、感情の動き方が普通の子供とは違うみたいだった。喜びや悲しみを感じるポイントが普通の人とは違っていた。とにかく、わたしたちの常識とは別の次元のところで生きている感じだった。それでもイヴォンヌは実の子同様にかわいがり、躾をし、愛情を注いでいた。

 イースターも近づいていたその日、私はたまたまパンをこねていた。そんなときに、クリスとイーサンが遊びに来た。ノアと三人で塊になって遊んでいたけれど、カイリーは一緒には遊んでいなかった。さらに年の離れたマイケルはイヴォンヌと一緒にソファに座って本を読んでもらっていたけれど、所在なさげだった。
 カイリーはキッチンのあたしの手元をのぞきこみ、
「なにやってるの?」
 と、聞いてきた。
「パン焼くの。モンキーブレッド」
「モンキー?」
 目を輝かせた。
「やってみる?」
 と聞いてみたら、はじけるような笑顔でうなずいた。うちの子はふたりとも、ただの一度でさえ手伝いたいなどと言ったことはないのに。マイケルもやってきてのぞきこみはじめた。
 クーゲルの型に溶かしバターを塗り、その小さな指で、ちぎったパン生地を丸め、一段詰めたらパルメザンチーズとみじん切りにして焦がしたニンニクを散らし、それを生地がなくなるまで繰り返す。最後に表面にバターを塗って焼いた。二人は粉だらけになった手を洗うことも忘れ、楽しそうにパンが焼ける様子を眺めていた。

 それが、彼らを見た最後だった。

 イースターが終わってすぐ、二人はいなくなった。マイケルはまだ四歳だから今から普通の生活に戻せばどうにか精神的傷はいえるのだが、カイリーはすでに八歳。ふつうの生活を送るだけでは心に受けた精神的ダメージをもとに戻すことができないのだという。彼らは専門的なカウンセラーに定期的に通わなければならず、その場所がここからずいぶん遠いところにあって通えない、という理由で裁判所から移動させる命令が出たのだという。

 イヴォンヌは一週間以上、泣き続けた。悲しくて普通の生活も送れないほどだったという。本当に大変で預かったのを後悔したこともあったけれど、実際にいなくなってしまうと本当につらい、自分の父を亡くした時と同じくらいの悲しみだった、と、涙ぐみながら言った。
 また、里子を受け入れるの? とたずねたら、寂しそうに笑って、多分、もうしないと思う、と答えた。今でも虐待されている子供を救いたいとは思うけれど、こんな痛みを何度も経験できない、と。実際、彼女が里子を預かっていたのは一年弱。養子にできるとさえ思っていたのだから、その心の傷は大きいだろう。わたしも、ふたりの表情がどんどん明るくなるのを見ていたから、残念で仕方がなかった。

 里親の中には、里親になることでもらえる少額のお金目当てに里子を受け入れる人もいる。その子たちは、暴力こそ振るわれないし、食事と眠る場所は与えられるけれど、学校から帰ればすぐに家から追い出され、公園や図書館に置き去りにされて、夜だけ迎えに来てもらえる、という状態だったり、学校のものはそろえてもらえるけれど、服や靴は買ってもらえなかったり、というのも多いと聞く。

 イースターの飾りつけを見るたび、家の枯れ木に飾られていた卵のオーナメントを見て、
「きれいだね。こんなの見たことない。かわいいね、これ、大好き」
 そう言って笑った二人の顔を思い出す。一緒に作ったモンキーブレッドを口いっぱいにほおばって、
「このパン、すごくおいしい。本当においしい。こんなにおいしいパン、生まれて初めて食べた。少し家に持って帰っていい?」
 はじけるように笑ったカイリーが、マイケルが瞼の裏に浮かぶ。

 彼らが今も幸せに暮らしていますように。

 オーナメントを片付けながら、そう願わずにはいられない。
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