二 憧れの人
文字数 1,939文字
「なにも、お盆に、大学へ帰ることもないだろうに・・・」
キャンプから帰ると、家に姉が帰っていて姉の子供たちがうるさかった。追試の勉強をしなければならないが、そんなことは母にいえない。学生寮にもどって追試の勉強をしようと思いたち、いろいろ理由を並べて省吾は家を出て、JRに乗った。
車内は少しだけ混んでいた。空席を見つけ、じゃまにならぬようキャリーバックを通路に立てて、文庫本を取りだし座席に座った。
ふうっと一息とついてページを開くと、省吾の足元にハイヒールが見え、なつかしい大好きな匂いが省吾を包んだ。省吾は驚いて顔を上げた。
「やっぱり、あなただった!久しぶり!座っていい?
あなたに、会いたかったの!」
あの憧れの存在、友人の姉・井上久美が前の座席に座り、省吾を見つめている。
少し垂れ目の二重でまつげが長く、穏やかで優しいまなざしはかつてと少しも変らない。久美の弟に会いに行くたびに、いらっしゃい、といつもこのまなざしと笑顔で省吾を迎えた。久美に迎えられるたびに、省吾は大好きな久美の匂いに包まれ、羽毛に包まれるような、説明しがたい感覚に満たされた。あの感覚がまた省吾を包んでいる。
久美に見つめられて、省吾は久美のことを訊きたかったが、きっかけがつかめず言葉に詰まった。仕方ないので、久美の弟・龍二の様子を尋ねた。最近、彼に会ったのは三月だ。交通事故で入院して、退院したばかりだといっていた。
「入院中に看護師と親しくなって、臨床検査技師になるっていってる。
今、専門学校。できるだけ早く、国家試験を受けるって・・・」
久美は悲しそうに目を伏せた。
省吾は久美が何を思っているか気になった。
「お姉さん、どうしたの?」
久美が顔を上げた。省吾をじっと見つめて言う。
「相手に子どもがいるの。もう三歳かな・・・。弟はまだ二十歳前よ・・・。
ああ、あなたと同じ歳だったね・・・。
本人同士の問題だから、あたしは何もいえないけど・・・」
他人の子どもを押しつける相手を、許せない気持ちもある。でも、あたしに子どもがいたら、あたしと子どもを愛してくれる相手でないと困る・・・。
そんな久美の困惑が省吾に伝わってきた。
「リュウちゃんは、何でも受け入れる太っ腹だ。心配ないと思うよ。
太っ腹というより、何でも笑い飛ばして気にしない性格だけど、けっこう緻密だよ。
怒ったふりして相手を威圧し、本音を聞き出して、あとでぼくにそのことを打ち明けるような、作為的なところがあるんだ。善意的にだよ。
だから、決してだまされない。相手をうまく御すると思うよ」
省吾は、日頃から感じていた、久美の弟についてそう説明した。
「そうね。安心した・・・」
省吾の説明に、久美はほっと溜息ついて車窓の過ぎゆく風景を眺めた。
久美から、またあの感覚が現れて、省吾を包みはじめている。
JRから新幹線に乗り換えた。自由席は混んでいる。車内まで進めず、久美と省吾は入り口近くに立っていた。混雑のため冷房は効かず、久美の頬がどんどん赤くなってゆく。洗面室やトイレ付近も乗客がいて、ほとんど身動き取れない。すごい混みようだ。
省吾は久美をキャリーバッグに座らせ、バッグからノートを取りだして、久美を煽いであげた。
「ありがとう。でも・・・」
久美が省吾の腕を引いた。耳を近づけるよう眼で示し、省吾の耳にささやいた。
「人いきれで、辛いの・・・」
「じゃあ、次の駅で降りて、次の新幹線に乗るか、JRでゆく?」
「ううん、次の新幹線も、同じように混んでるはずだから、このまま行く・・・。
近くにいてね。あなたの匂いの方がいいから・・・」
久美は省吾の腕を握ったまま、耳元でささやき、腕を離さない。
省吾は、これからいたずらしようとするような顔で久美の目を見つめた。
「お姉さんのいい匂いがする、ずっと包まれていたいな」
「ばか、お姉さんをからかうんじゃないの・・・」
笑いながら、久美が耳元でささやく。
「でも、あたしも、そうかな・・・。
そうだ!あたしのとこに来ない?明日はまだ休みだし、有休もあるから、弟が来たといって、休みを取るよ。
都内に来たことある?」
そういって久美は顔を離し、省吾を見つめている。
「行ったことない。大学は都内に近いのに・・・」
省吾は人混みが苦手だ。人が多いと他人の感情を感じ頭痛がする。
「ないのね!都内、案内するね。あなた、夏休み、九月半ばまででしょう?」
「うん・・・。じゃあ、そうするよ」
省吾は新幹線を途中で降りず、久美の家へ行くことにした。
「ああっ、うれしいな!」
省吾がびっくりして戸惑うのもかまわず、久美は混み合う乗客のあいだで省吾に頬ずりした。省吾の頬がいっきに熱くなるのを見て久美は笑っている。
キャンプから帰ると、家に姉が帰っていて姉の子供たちがうるさかった。追試の勉強をしなければならないが、そんなことは母にいえない。学生寮にもどって追試の勉強をしようと思いたち、いろいろ理由を並べて省吾は家を出て、JRに乗った。
車内は少しだけ混んでいた。空席を見つけ、じゃまにならぬようキャリーバックを通路に立てて、文庫本を取りだし座席に座った。
ふうっと一息とついてページを開くと、省吾の足元にハイヒールが見え、なつかしい大好きな匂いが省吾を包んだ。省吾は驚いて顔を上げた。
「やっぱり、あなただった!久しぶり!座っていい?
あなたに、会いたかったの!」
あの憧れの存在、友人の姉・井上久美が前の座席に座り、省吾を見つめている。
少し垂れ目の二重でまつげが長く、穏やかで優しいまなざしはかつてと少しも変らない。久美の弟に会いに行くたびに、いらっしゃい、といつもこのまなざしと笑顔で省吾を迎えた。久美に迎えられるたびに、省吾は大好きな久美の匂いに包まれ、羽毛に包まれるような、説明しがたい感覚に満たされた。あの感覚がまた省吾を包んでいる。
久美に見つめられて、省吾は久美のことを訊きたかったが、きっかけがつかめず言葉に詰まった。仕方ないので、久美の弟・龍二の様子を尋ねた。最近、彼に会ったのは三月だ。交通事故で入院して、退院したばかりだといっていた。
「入院中に看護師と親しくなって、臨床検査技師になるっていってる。
今、専門学校。できるだけ早く、国家試験を受けるって・・・」
久美は悲しそうに目を伏せた。
省吾は久美が何を思っているか気になった。
「お姉さん、どうしたの?」
久美が顔を上げた。省吾をじっと見つめて言う。
「相手に子どもがいるの。もう三歳かな・・・。弟はまだ二十歳前よ・・・。
ああ、あなたと同じ歳だったね・・・。
本人同士の問題だから、あたしは何もいえないけど・・・」
他人の子どもを押しつける相手を、許せない気持ちもある。でも、あたしに子どもがいたら、あたしと子どもを愛してくれる相手でないと困る・・・。
そんな久美の困惑が省吾に伝わってきた。
「リュウちゃんは、何でも受け入れる太っ腹だ。心配ないと思うよ。
太っ腹というより、何でも笑い飛ばして気にしない性格だけど、けっこう緻密だよ。
怒ったふりして相手を威圧し、本音を聞き出して、あとでぼくにそのことを打ち明けるような、作為的なところがあるんだ。善意的にだよ。
だから、決してだまされない。相手をうまく御すると思うよ」
省吾は、日頃から感じていた、久美の弟についてそう説明した。
「そうね。安心した・・・」
省吾の説明に、久美はほっと溜息ついて車窓の過ぎゆく風景を眺めた。
久美から、またあの感覚が現れて、省吾を包みはじめている。
JRから新幹線に乗り換えた。自由席は混んでいる。車内まで進めず、久美と省吾は入り口近くに立っていた。混雑のため冷房は効かず、久美の頬がどんどん赤くなってゆく。洗面室やトイレ付近も乗客がいて、ほとんど身動き取れない。すごい混みようだ。
省吾は久美をキャリーバッグに座らせ、バッグからノートを取りだして、久美を煽いであげた。
「ありがとう。でも・・・」
久美が省吾の腕を引いた。耳を近づけるよう眼で示し、省吾の耳にささやいた。
「人いきれで、辛いの・・・」
「じゃあ、次の駅で降りて、次の新幹線に乗るか、JRでゆく?」
「ううん、次の新幹線も、同じように混んでるはずだから、このまま行く・・・。
近くにいてね。あなたの匂いの方がいいから・・・」
久美は省吾の腕を握ったまま、耳元でささやき、腕を離さない。
省吾は、これからいたずらしようとするような顔で久美の目を見つめた。
「お姉さんのいい匂いがする、ずっと包まれていたいな」
「ばか、お姉さんをからかうんじゃないの・・・」
笑いながら、久美が耳元でささやく。
「でも、あたしも、そうかな・・・。
そうだ!あたしのとこに来ない?明日はまだ休みだし、有休もあるから、弟が来たといって、休みを取るよ。
都内に来たことある?」
そういって久美は顔を離し、省吾を見つめている。
「行ったことない。大学は都内に近いのに・・・」
省吾は人混みが苦手だ。人が多いと他人の感情を感じ頭痛がする。
「ないのね!都内、案内するね。あなた、夏休み、九月半ばまででしょう?」
「うん・・・。じゃあ、そうするよ」
省吾は新幹線を途中で降りず、久美の家へ行くことにした。
「ああっ、うれしいな!」
省吾がびっくりして戸惑うのもかまわず、久美は混み合う乗客のあいだで省吾に頬ずりした。省吾の頬がいっきに熱くなるのを見て久美は笑っている。