一 青い空

文字数 2,900文字

 高校生活が残り半年になった頃、恋人とまでゆかないが、特定の相手と立ち話する男女が、教室や廊下のあちこちで見られた。
 省吾がいるクラスの多くは、そうした生徒を無視して受験勉強したが、何人かの女子は他のクラスの男子と親密になった。

 省吾に好きな相手がいなかったわけではない。省吾の思いつづけた人は、友人の姉・井上久美さんだった。彼女は高校前のプラタナスの歩道を、高校に隣接したファッション・デザイン・スクールへ通い、省吾が三年になる前にスクールを卒業した。

 三年になった省吾は彼女の面影を追って、いつも、省吾のクラスがある二階の廊下から、プラタナスの歩道を見ていた。そんなとき、北村真希が省吾に話しかけてきた。
 この時、ふっと省吾に思いが湧いた。北村は他の女子に感化され、ぼくに話しかけてきたのだろう・・・。

 春。
 北村真希はM大医学部看護学科に、省吾はM大理工学部に入学した。北村は大学近くのアパートに引っ越し、省吾は大学の学生寮に入った。北村は恋人ではなかったが、高校からの親しいつきあいがつづき、省吾はアパートへ通った。

 夏休み前あたりから、北村とのつきあいに、省吾は何かしっくりしないものを感じた。
 アパートを訪ねると、医学部の学生がいた。単なる友人ではない雰囲気が漂い、省吾は邪魔者だった。
 翌日、大学で顔を合わせると、告られたといって、北村は省吾から去っていった。

 北村が去って省吾ははっきり気づいた。北村は受験勉強や大学生活の孤独を埋める、仮想的プチ恋愛の相手を求めたのであり、省吾を友人とさえ思ってなかったのだと。
 あの、ふと湧いた思いを大切にし、もっと慎重に対応すべきだった・・・。

 大学は夏休みに突入した。
 陽射しはギラギラとまばゆいだけで、省吾の心は陰鬱で虚ろだった。

 憧れの久美さんを思いつづけたまま、北村との友人関係をつづけたはずなのに、この気持ちは何だ?いやそうじゃない。友人とさえ思われていなかった事実が、友人以上の存在と思っていたぼくの思いを、現実にひきもどしたにすぎなかった。憧れの久美さんを思いつづけたまま北村とつきあうことが、ぼくの本質ではない証だった。

 あらためてそう気づいた省吾は気持ちを切り換えた。
 物事はもっと明るく前向きに考えよう。学生の本分は学問にある。これは理想だ。現実は理想からほど遠い。偉そうなことはいえない。
 北村とのことで現実を忘れた省吾は、前期試験で、必修科目二科目の単位を取り損ねた。夏休み明けに追試がある。省吾は専門書がつまったキャリーバッグをひいて帰省した。

 だが、誘惑には勝てない。大学の学友から連絡がきて、実家からほど近い海辺のキャンプ場でキャンプすることになった。

 キャンプ初日。
 キャンプ場にテントを張り、砂浜に寝ろこび、陽射しを浴びる。
 閉じたまぶたの裏に、陽射しなのか、血管なのか、赤い色彩が現れ、やがて消えてゆく。
 ああ、こんなふうに、いやな記憶が消えて、楽しい記憶だけ残ったら、どれほどいいだろう。しかし、忘れたいと思えば、それに倍加した記憶が思考の闇から湧きあがる。何も考えるな。思い浮かぶどんな些細なことにも対応するな。対応すれば、空想がはじまる・・・。
 そんなことを考える省吾に、どこからか黄色い歓声が聞こえる。空想じゃない・・・。
 強い陽射しをさけ、片眼で砂浜を見る。バッグを抱えた二人の女が、砂に足を取られ、歩きながら笑っている。省吾を見つけ、一人が手をふって近づいた。
「ねえ、休みなの?」
 かすかに、バニラに似た香りが漂い、女が省吾の横に跪いた。ボーダーのTシャツからのぞく胸の谷間に汗が流れ、額と頬に、赤みがかった長く柔らかな髪が貼りついている。橘小百合。長身だが、見た目も性格も愛嬌がある。大学の学生寮からほど近い、スタンドバーのバーテンダーだ。
「うん、九月十日まで夏休みだよ・・・」
 省吾の言葉に小百合は驚いている。

「社会人じゃなかったの?」
「M大の一年だよ。
 実家がここから近いんだ。大学の仲間がキャンプしたいっていうんで、ここのキャンプ場でキャンプしてる。
 小百合さんは?」
「あたしは休暇よ。今日から四日間。八月は客が来なくて暇なのよ・・・。
 紹介するね。友人の田辺かほる。
 あたしたち、そこの旅館に泊まるの」
 小百合は隣りに跪いている田辺かほるを紹介し、浜辺から少し離れた、高台の海の家を指さした。
「四人なのね?」
 二人ならいっしょに行動してもいい。四人では二人余る、と橘小百合の思いが感じられる。
「うん、四人だ。
 大学へもどったら、また、店に行くよ。休暇を楽しんでください」
「あなたもね・・・。
 なんか元気ないね。どうしたの?彼女、どうしてる?」

「夏休み前に、医学部の学生に告られた、と言って・・・」
「ふーん、変な女ね・・・。腰掛けだったんだ・・・。
 お店にいらっしゃい。この胸に抱きしめて、慰めてあげるから」
 小百合は胸を両手で持ちあげるようにしてハグする格好をし、
「じゃあまたね」
 手をふって、友人とともに旅館へ向かった。

 小百合について、何か聞きたそうな学友たちを無視したまま、省吾はふたたび寝転び、まぶたを閉じた。この流れは、いったいどうなっているのだろう?

 キャンプ二日目目。
 砂浜に流れ着いた海藻を胸や腰につけて、その場にいる水着の女たちを巻きこんで記念撮影。知り合いの海の家でギターを借り、周囲の海水浴客に語るように、四人で歌う。何かやけくそ気味な省吾につられ、全員がノッた。
 大学名は話してあるが、学部を話していない。音楽科なのかな?と海の家の女将の囁きが聞こえる。音楽科の学生はギターを弾く一人だけだ。

 海水浴客が飲んでいる飲み物のCMソングを歌う。客の中にいる橘小百合と田辺かほるが、笑顔で同じ飲み物を四人分、省吾たちの前に置き、リクエストする。
 リクエストに応えて歌うと、他の客からリクエストが殺到する。海の家は即興のライブ会場へ一変。客が混み合い、女将は笑顔だ。

 キャンプ三日目。
 台風が進路を変えて接近した。豪雨でテントが雨漏りし、破壊。内部に浸水した。省吾たちは海の家へ逃げこみ、作業を手伝い、海の家にやっかいになった。さほど風は強くないが豪雨で波が高く、海は遊泳禁止だ。

 翌日。
 台風とともに豪雨が通りすぎて快晴になった。テントの修理を試みるも、縫い目が裂けて支柱が折れ、修理不能だ。省吾は豪雨の凄まじさをあらためて知った。

 客がいない海の家の縁側に座った。
 台風一過の抜けるような青い空。波が高く、濁った荒波が浜辺に海藻とゴミを打ちあげて遊泳禁止は解除されない。
 だが、省吾の気持ちは、この荒れた海ではなく、その上の青空だった。

 夜、台風一過の青い空は、満天の星空になった。
 海の家の即興ライブと豪雨、そして台風一過の青い空と満天の星空は、省吾から北村真希の記憶を洗い流し、省吾を憧れの久美さんへ誘うように感じられた。
 久美さんに会いたい・・・。久美さんといっしょに暮したい。
 星々よ、ぼくを久美さんに会わせてほしい・・・。

 省吾は満天の星空にむかって祈った。
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