七 昨日 婚約しました

文字数 3,012文字

「夕飯の買い物して、帰ろうね」
 久美は省吾の手をひいて電車で錦糸町にもどり、駅ビルのスーパーに入った。

「久美さん、いいの、入ってるよ。彼氏かい?」
 鮮魚コーナーで、魚屋の富田さんが久美を呼んだ。
「こんばんは。真っ先に富田さんに紹介したくて、連れてきたの。夫です。
 いつも、お世話になってる、富田さんよ」
 久美は省吾を富田さんに紹介した。

 富田さんが目を見開いた。突然のことで驚いている。
「久美さん、独身じゃなかったのかい?」
「昨日、婚約しました。式はまだだけど、両家とも認めてるから、あたしは、夫と思ってるの。
 これ、かんたんですが、引き出物代わりの、お茶菓子です」
 久美は、浅草で買い求めた手提げ紙袋に入った和菓子の包みを富田さんわたした。

「ありがとう!そうかい!あたしが最初かい!うれしいね!
 おめでとう!だんなさんの仕事は?」
「まだ大学生です」
 省吾は将来の仕事を話そうと思ったが話さずにいた。必修科目の物理とドイツ語の単位を取れない現状ではえらそうなことはいえない。
「どんな仕事に就きたいと思うの?」
 富田さんは自分の娘の相手に問うように訊いた。
「公的機関で、伝導ブラスティックの研究をしたいんです・・・」
 省吾は幼いときから、なぜか、伝導ブラスティックを作ってみたいと思っている。

「難しいことはわからないけど、幸せになっとくれ。
 これ、お祝い!お代はいらないよ。気にしなくていいよ。
 これからも、ごひいきにね!」
 富田さんは大きな鯛を一匹示して、さばいておくから他の買い物すませておいで、と久美と省吾を他の食品コーナーへむかわせた。

「こっちに来てから、いつも、あそこで魚を買うの。
 だから、毎日のように富田さんと顔を合わせるんだ・・・」
「なんだか、久美さんの母親みたいな感じだね」
 省吾は、富田さんが独り暮らしの久美を何かと気にかけているのを感じた。
 久美さんも、真っ先に、ぼくを富田さんに紹介して、彼女の気遣いに応えたかったみたいだ。久美さんらしい心配りだな・・・。


 他のコーナーへ行っても、久美はあちこちから声をかけられて省吾を紹介した。

「久美さん、人気者だね」
「いつのまにか、みんなから、声かけられるようになってたの。
 富田さんが、独り暮らしのあたしが寂しくないよう、変な虫がつかないよう、売り場の人たちに、声をかけてあげてって頼んだみたいだよ。感謝しないといけないね」
「久美さんの人柄が、そうさせるんだろうね」
「あたしが子どもっぽく見えて、頼りなかったんだろうな」
「そんなことない。久美さん、顔は幼く見えるけど、話せばしっかり者とわかるよ。
 それに、女を演技しているようなところがなくて、その方が女らしい。
 ぼくはそういう久美さんが好きだ」

「演技したって、あなたに、わかっちゃうよ。小さいときから知ってるから」
「ぼくもそうだ。久美さんの前で格好つけても、思ってることはすべて見透かされる気がする。
 ほんとは、ぼくが考えてること、久美さんは全てわかってるだろう?」
 久美はカートに野菜を入れる手を止めた。省吾を見つめてほほえんでいる。
「わかってるよ。早く帰って、早く眠りたいと思ってるでしょう?
 そうしないと、疲れて、あたしが明日、大変だと」
「図星だね。久美さん、今日も何度も欠伸してた。
 帰ったら愛してねって久美さんはいったけど、絶対、疲れが残る」

「朝、あなたが眠ってるあいだに、明日と明後日、休みを取ったの。だから、あと四日間休み。
 ああ、仕事はだいじょうぶだよ。予定以上に、企画、進めてるし、そのこと、上司も認めてる。
 今回の休みも、急だけど、省吾との婚約を説明したら、すんなり認めてくれたの。
 新婚夫婦が、どんなファッションするか、経験を企画に活かせって」

「夫婦になっても、独身時代と変りない服装の時代だね。
 子どもが生まれても、独身と見分けがつかない者もいる。
 夫婦や親になった自覚が無い時代ともいえるね」
「そうなの。でもね、それぞれの立場を表現するファッションがあってもいいと思うの」
「それなら、こうして買物してるぼくたちは、どんなファッションがいいんだろう?」
「このままでいいよ。活動的で健康的。一目で恋人たちとか、夫婦ってわかる」

「姉と弟じゃないの?」
「それは無理だよ。どう見たって、あたしがあなたに夢中のオーラが出てる」
 久美は何かにつけて省吾に身体を密着させている。今も、省吾の腕を胸に抱きしめ、耳元で話している。こうすると、久美の中から不満が消えて気持ちが安らぐ・・・。
「こんなふうに、いつまでも久美さんとベタベタしたいな」
「うん、わかってる。あたしも省吾とベタベタしたいよ」
 久美は鮮魚コーナーの富田さんが笑顔で久美たちを見ているのに気づいた。鯛の刺身ができたのを感じ、久美は富田さんに会釈した。

「富田さんが、刺身できたっていってる。こっちはすんだから、魚、買って帰ろうね!」
 久美は省吾の腕を引いて鮮魚コーナーへむかった。省吾の腕を抱きしめたままの姿を見られて恥ずかしかったが、幸福感がそれを上まわり、富田さんに笑顔で会釈していた。

 省吾が久美の耳元に顔を寄せていう。 
「思いきり久美さんの匂いを嗅ぎたい。これじゃ犬だな」
「犬じゃないよ。大好きな省ちゃんだよ。帰ったら、ごはん食べて試験勉強だよ」
「うわっ!もう、忘れてた!久美さんのことで頭の中がいっぱいだった」
「うれしいな。そんなに思われて。
 でも、試験にパスしないと、あなたとあたしの、未来がないよ」
「わかった。よし、帰って試験勉強だ・・・。
 学生の本分は学問にあり。だが、ドイツ語はいかん。英文で出題される物理もだ。おまけに物理で使う重積分も三重積分も、シュレディンガーの波動方程式を解く微分方程式も、これから、後期の応用数学の講義で本格的に学習するんだから、前期の物理の講義が先走りすぎてる・・・」
 省吾はぼそぼそつぶやいている。

「そんなことぼやいても、単位を取れなきゃ、たわ言だにすぎないよ。
 公務員試験にも出るんだから、しっかり勉強するのよ。
 それに、将来、電気が関係するなら、数学、使うでしょう?」
「久美さん、なんで、そんなにくわしいの?」
「あなたのこれまでの話をまとめれば、理数系の科目は欠かせないからだよ」
「ぼくの考えてることを見透かしてる。やっぱり、ぼくのことを全部知ってたんだね」

「やっとわかったか。省ちゃんのことはすべて知ってるぞ」
「うん。わかってた。高校のとき、久美さんの後ろを歩いてると、久美さんから気持ちが伝わってきた・・・」
 省吾はいつも久美と同じ時刻に高校へ通学していた。久美が通っていたファッション・デザイン・スクールは省吾の高校の隣にある。

「省吾はいつもあたしより後ろをのんびり歩いてたから、高校に遅れるんじゃないかと心配だった。それに話したかったな、省吾と・・・」
「ぼくもそう思ってた・・・」
「省吾の気持ち、背中に伝わってきてた。いつか会って、いっしょになれると思ってた」
「うん。ぼくもだ。もう、ずっといっしょに居られるよ」
「うん!」

 笑いながら鮮魚コーナーにもどると、富田さんが笑顔で久美と省吾を見ている。
「おや、何か、いいことあったね。顔に書いてあるよ」
「富田さん、他に・・・」
「入れといたよ。三日分。日曜に、またおいで。他の買い物で来たら、寄っとくれ」
 富田さんは久美にほほえんでいる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み