十 結婚指輪

文字数 3,948文字

 翌朝、久美の母から婚姻届を出したと連絡が来た。 
 久美が、今日は指輪を買いに行くと伝えたら、母は大喜びだ。省吾の両親に、その旨、伝えておくといって電話を切った。

 午前十時。
 御徒町駅前から人の波だ。昨日、久美は省吾の腕を抱きしめて歩いた。今日は省吾が久美の腕を抱きしめるという。おんぶしてもいいという。身体を密着させていたいのが省吾の本音だ。

「うれしいな~。でも、ここで、そんなの無理だよ。
 今は、手を握ってね。身長がちがうから、この方がいい。バッグこっちにかける・・・」
 久美は混雑が気になりトートバッグを右肩にかけ、右手で省吾の左手を握った。省吾を見あげてほほえんでいる。

 一瞬、省吾の脳裡に場面が思い浮かぶ。黒いオルフェ。古い映画だ。
 オルフェがユリシィーズ(ユリディス?)の手を握って、雑踏から逃れる場面があった気がする。恋人たちを描いた作品には必ず登場する場面だ。
 久美と省吾は、アメ横へむかう人波から離れ、貴金属品を扱う問屋と商店が並ぶ通りへ歩いた。


「ここよ・・・」
 道路から店の内部が見える大きなウインドーに店名がある。余計な看板やポスターがない、落ち着いた雰囲気のシンプルな店構え。Jewelry Pandoraの印象はそんなだった。

 久美と省吾が店に入ると、マダムとおぼしき女の顔が一瞬に華やいだ雰囲気に変った。我が娘が帰ってきたように、久美の手を取り、笑顔で迎えている。
「いらっしゃい!どうしたの?お休みでしょう?恋人?」

「はい。昨日、結婚しました。これ、引き出物の代りのお茶菓子です」
「えっ?」
「急に話が決まって、今日、婚姻届を出しました。
 それで、杉木さんに報告と、結婚指輪購入をかねて来ました。
 夫の田村省吾です」
 久美は小柄な杉木さんにあいさつして省吾を紹介した。

「あらまあ、おめでとう!
 肝心なのは二人の気持ちよ。
 式にお金を使うより、二人の生活に当てた方がいいのよ。
 あら?ごめんなさいね。かってしゃべってしまって。
 で、ご主人は何をなさってるの・・・」
 杉木さんは省吾を見あげながら、矢継ぎ早に、いろいろ質問をする。

「まだ、大学生です・・・」
 省吾は杉木さんの質問一つ一つに答えた。
「ごめんなさいね。久美さんのこと、心配だから、聞いちゃうのよね」
 杉木さんはケタケタ笑ってごまかすが、久美を気遣っているのがわかる。

「いいんですよ。まだ大学生だから、そう思われてもしかたないです。何でも、聞いてください」
「正直な方ね。省吾さんを選んだ久美さんの気持ち、わかるわ」
 杉木さんは、久美と省吾を店の奥の工房へ案内した。


「新作を結婚祝いにプレゼンするわ。久美さんの勤務先・Marimuraとの付き合いからじゃないのよ」
 久美は勤務先のMarimuraとは別に、杉木さんに数々のアイデアを提供している。
 杉木さんは久美との関係を大切にしたいと考えている。

「それだけじゃないの。久美さんのことを他人に思えないのよ。
 はい、これ!新作!あなたのアイデアをデザインにしたの!」
 杉木さんは、工房のショーケースから、ハートをアレンジしたプラチナの指輪を取りだした。一目で久美はその指輪を気に入った。

「サイズは久美さんに合わせてあるわ。ほんとにプレゼントしたいのよ」
 杉木さんは久美に笑顔でそういった。目に光るものが浮んでいる。

「ありがとうございます。ですが、受けとれません。
 気持ちだけいただきます。正当な価格で販売してください」
 久美のぼんやりした表情が緊張に変わった。省吾を見て同意を求めている。

 久美の意をくんで省吾がいう。
「久美さんのアイデアをデザインしたなら、杉木さんの提案を受けたいですが、この事が、何処でどのように、久美さんの勤務先へ伝わるかわかりません。
 杉木さん、正当な価格で販売してください」

「そうよね。結婚指輪をうちで選んでくれるだけで光栄よ。
 社内価格なら、いいわよね?」
 杉木さんは久美の才能を高く評価し、久美の感性を絶賛した。
「この界隈で、Marimuraの久美さんを知らない者はいないのよ。
 すばらしい感性を持ってるわ。
 Jewelry Pandoraに何度もデザインのアドバイスしてくれたわ。
 久美さんは私からお礼を受け取らないのよ」

 杉木さんにそんなことをいわれ、久美はJewelry Pandoraの社内価格で指輪を購入するのも気になってきた。
「社員の方は、いかほどで貴金属を購入してますか?」
 久美は社員に尋ねた

 工房の人たちは、Jewelry Pandoraの社内価格は定価の四割引だという。
「ではその価格で販売してください。それだけでも、あたしのアイデアをデザインにしていただけたのだから、充分すぎますよ」
 久美は恐縮している。

「ぼくは久美さんの婚約指輪を購入したいんです。九月の誕生石、サファイアの指輪を」
「ダイヤでなくってよかったわ。とっても良いのがあるのよ」
 笑顔で杉木さんはショーケースから、ブルーサファイアの指輪をを取りだした。

「ああっ、これ、いいわ!この台も、この結婚指輪と同じ、ハートのアレンジね。
 ありがとうございます。あたしのデザイン、残していただいて」
 久美はサファイアの指輪を一目で気に入った。

 サイズもぴったりだ。結婚指輪と誕生石の婚約指輪、杉木さんは久美さんが結婚するのを予期していたらしい・・・。

「そうなのよ!久美さんも年頃だし、アイディアはすばらしいし、いずれ結婚するだろうから、プレゼントして、我が社に引き抜こうと思ってたの。
 でも、見抜かれてたわね」
 杉木さんも正直だ。目を細めてほほえんでいる。

「はい。あやうく買収されるところでした」
 久美は話をあわせた。工房の人たちからも、久美さんが来たら、もっと楽しい職場になるよ、と聞こえる。

 久美さんはここでも人気者だね・・・。
「では、結婚指輪とサファイアの指輪、支払いします。ああ、ぼくの指輪、ちょっとだけ大きくできますか?」

「調節できるわよ・・・」
 杉木さんは省吾の指輪のサイズを確認し、指輪の大きさを調整した。

「ぴったりです。ありがとうございます。では、カードで支払います」
「こちらに・・・」
 杉木さんは久美と省吾を工房から店に連れていった。


「物騒な世の中だから、お客様の目の前でカードを扱うのよ。信用第一だから・・・。
 領収書とこちらが鑑定書」
「えっ?こんなでいいんですか?これだと」
 久美はレシートを見て驚いている。

「いいのよ。原価だからこんなものよ。レジはコンピューターの帳簿に直結だから、不正なんかできないの。安心してね。
 省吾さんを私の遠縁にして、胸張って指輪をMarimuraで披露してね」
 杉木さんは、久美さんがMarimuraの自社製品を購入しなかったことを気遣っている。

「省吾さん、ここに居るだけでいいから、ここに来てくださいね。
 すてきな人が居れば、自然とお客様も増えるのよ。
 久美さんがアイデアを出してくれるようになって、お客さんが増えたの・・・」
 杉木さんの言葉に、店の人たちもうなずいている。

「何かの時は、あたしがこちらにご厄介になるかも知れませんね」
 久美は笑いながらそんなことをいっている。
 なんだか、先を見越してるようで省吾は気になった。
「何かはあってほしくないけど、久美さんに、ここで仕事をしてほしいわ」
 杉木さんも調子をあわせている。

 困ったものだ、半分は本気だぞと省吾はそう思い、提案した。
「そしたら、こうしませんか。
 子どもができたら、会社を退社して自宅からこちらの仕事をリモートでするんです。
 こちらのお店のサーバーにアクセスできるよう、手続きしておいて下さい。
 その時は、よろしくお願いします」
 省吾は本気でそういって杉木さんにお辞儀した。

「それはいいわね!そうしましょう!契約書作りましょう。
 Marimuraからちょっかいだされないように、契約書を考えましょうね!」
 杉木さんは省吾と久美にウィンクして、笑顔になった。

「ありがとうございまます!」
 久美と省吾は、杉木さんとJewelry Pandoraの人たちに礼をいって、Jewelry Pandoraを出た。


「やれやれだね。女の人たちは、胸に突き刺さるような事を、平気で話すんだね」
 そう話す省吾の左手を、久美は右手で握った。
「そうよ。冗談を話してても、核心部を突くの。女の本質みたいなものかな」
「怖い本質だね」

「そうよ。こわいついでに、甘味処に寄っていい?」
 久美は省吾を見あげてほほえんでいる。省吾はこの笑顔に弱い。
「大丈夫。ビールだって飲めるから。
 最近の甘味処は変ったの。ちょっとしたおつまみがあってお酒も飲めるんだよ」

「スキーに行ったとき、リフトの上でチョコレート食べて、ポケット・ウィスキー飲んだな・・・」

 久美は省吾を見た。リフトの上でウィスキーを飲む省吾の姿が脳裡に浮ぶ。
 省吾は小学校のころからお祭りのとき家でお酒を飲んでいた。久美はそのことを知っていたが、誰にも話さなかった。省吾の幼いころを思いだして、久美の目がキラキラしている。

「リフトの上で、身体が温まったでしょう。
 ウイスキーにチョコは合うよ。省ちゃん、それ、頼めばいいよ」
「えっ?あるの?」
「甘味処は名前だけよ。たくさん飲んだらダメだよ。
 お昼前だし、帰ったら試験勉強しないと、何もしないまま今日が終るから・・・」
 そういって省吾を見あげる久美の目がキラキラしている。

「わかりました。学業が家業だな。卒業して研究機関へ入れば、また学業がつづく」
「そうだぞ・・・」
 久美と省吾は笑いながら、Jewelry Pandoraから近い、甘味処「梅本」に入った。
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