六 今日は、あたしにつきあって

文字数 4,738文字

 朝食後。
 食器を洗いながら、久美は省吾が話す前期の試験結果を聞いた。
 前期の試験で、省吾はドイツ語と物理の単位を取り損ねていた。ふつう、落としたというが、いったん手にした物を落とすなら意味は通じる。取っていないものは落としようがないから、取り損ねただ、と省吾は話しながら、洗った食器を布巾で拭いて食器棚へ入れている。
「久美さんが仕事へ行っているあいだ、ここで勉強したい。
 追試は、夏休みが終った九月半ば、三週間後だ。
 いいだろうか?」

「もちろんいいよ。成績を上げて、それなりの仕事についてね。
 あたし、早くあなたの子供を生みたいから、期待してるよ。
 子供ができたら、実家が援助するといってるから、避妊はしないよ。
 妊娠しそうな時はわかるよ。そのときは教えるね。
 いいよね?」
 久美はさらりといって、省吾が使った布巾を洗い、シンクの上のハンガーにかけた。

「もちろんだよ。早ければ、来年の今頃は親かもしれないね」
 久美さんの存在がぼくを変えた。あの北村に動揺していたぼくは、ぼくではなかった。
 省吾はそう思った。
「さあ、お茶をいれるわ」
 久美はリビングへ移動し、笑顔でお茶をいれながら、省吾を見つめている。


「今日は、勉強する?あたしは予定がないから、あなたにつきあうよ」
「せっかくの休みだ。久美さんのやりたいことに、ぼくを合わせる」
 ぼくの試験勉強につきあわせるのはよくない。今から気遣っていたら長続きしない・・・。
「それなら、今日一日、あたしにつきあってね」
 久美は座卓の省吾の前にお茶を置いて、省吾にほほえんだ。
「久美さんのしたいことにつきあうけど、高所と狭い閉所と暗所は苦手なんだ」
 省吾は高所と狭い閉所と暗所が苦手だ。それらの場所に行くと省吾自身の感覚だけでなく、その場で他人が感じたことまで感じてしまう。
 驚嘆や恐怖などがぼく単独の時より何倍にも膨れあがり、耐えられなくなる。狭い閉所は外が見えればまだいい。見えなければ最悪だ。
 
「じゃあ、観覧車に乗って、お化け屋敷へ行って、絶叫マシンに乗って・・・」
 久美は笑いながら話し、省吾の気分が変化するのを観察した。
「久美さん、S的な面があったっけ?」
 省吾は嫌な予感がした。

「そんな嫌らしい性格じゃないよ。ほんとうに行ってみたいの。
 あなたとベタベタしながらソフト食べて、観覧車に乗って、お化け屋敷でキャアキャアいって抱き合って、水上バスに乗って・・・」
 久美は、これまで省吾とふたりでしたいと思っていたことを説明した。

「久美さんの望みを叶えてあげたい・・・」
 久美さんは、ここと勤務先との行き来だけで、どんなに寂しかったかよくわかる・・・。
 省吾は久美の心の変化を感じた。

「無理しなくていいよ。あなたが楽しくなければ、あたしだって楽しくないから・・・」
「怖くなったら、久美さんの胸に顔を埋めて、まわりを見ないようにするよ。
 それなら、高いところにも狭いところにもいられそうだよ」
「わかった!そうしてあげる!今から練習!」
 久美は省吾の顔をTシャツの胸に抱きしめた。久美の胸がキュンとしている。
「朝からこんなにベタベタしていいのかな・・・」
「いいの。あたしの全てを知りたいといったでしょう。
 今まで、ずっと独りだったんだぞ。その分ベタベタしたいの。
 これも、あたしだよ」
 久美は省吾とベタベタしたかった。

「朝から愛し合うと、観覧車もお化け屋敷も行けなくなるぞ。
 それに、満たされたらベタベタしないのは困る。
 いつまでもベタベタしたい」
 そういう省吾の頭を胸に抱いてまま、久美が省吾の耳元でいう。
「ごめんね。今までの満たされなかったことを満たしたいの。
 あたしもベタベタしたいよ。これからずっと甘えたい。
 あたし、甘えん坊だよ」

「うん、わかってる。昔から知ってた。うんとベタベタしよう。甘えてね」
 幼なじみの関係だ。省吾は久美の気持ちを素直に理解できる。愛し合えば疲れて、それで一日が終りそうだ。でも、今日は、久美さんのしたいことにつきあうと決めたのだから、そうしよう・・・。
「そしたらシャワー浴びて、着換えて準備して、出かけようね・・・」
「わかった。また、隅々まで洗ってあげる」
 省吾は久美の胸から顔を離し、久美を抱きしめた。頬ずりして背を撫で、Tシャツを脱がせ、ショートパンツを脱がせ、下着だけにして、シャワーに誘った。 
「髪、洗ってね。指先で地肌をマッサージするみたいにして・・・」
「ああ、そうするよ」


 二人で熱めのシャワーを浴びて身体を洗った。省吾は久美の髪をシャンプーし、頭と肩をマッサージした。
「ああぁっ、気持ちいい~。首筋もおねがい・・・」
 久美はうっとりしている。
 久美の会社は新宿だ。残業はほとんどないが、企画という仕事がら、四六時中、関係事項が頭から離れない。思わぬうちに肩に力をいれたまま考えていたり、思いついて没頭したまま時が過ぎるなど、気持ちが休まる暇がない。

 省吾は、久美に仕事の疲れが溜まったままなのを感じた。
「いつも同じ体勢で仕事してるから凝ってるんだね」
 このまま出かけていいのだろうか・・・。
「身体、動かした方が凝りが取れるから、大丈夫だよ」
「やっぱり、日頃から規則正しい生活と、軽い全身運動が必要だよ」
「規則的な生活してるよ。でも、全身運動は、してないなあ・・・」
 省吾は久美の肩と首の凝りを揉みほぐした。


 浴室から出た。
 久美は髪を乾かしながら、クローゼットの衣類を選んだ。いろいろ迷ったが、省吾に合わせジーンズとポロシャツになった。
「なんだか、ボランティアに出かけるみたいな格好だね。
 でも、いろいろ動きまわるから、これでいいよね?」
「とってもいい。似合ってる。キュートだよ」
 省吾が思いきり久美を抱きしめた。湯上がりの久美の匂いが省吾を包んでいる。
「アアッ、胸がつぶれちゃうよ~」
 久美は省吾の匂いに包まれて笑いながらつぶやいている。

「一番近い遊園地は、浅草花やしきね・・・」
 浅草花やしきはここ錦糸町から近い。浦安もいいが混んでいない方が気楽だ。この時期、海水浴場や、アトラクションが多い遊園地は混んでいる。

 以前、浦安について、市川に住んでいる久美の叔父が
「昔、浦安でハゼ釣りしたよ。今みたいになるなんて、誰も想像しなかった。
 浜辺に静かな漁村があって・・・」
 そう話したことがあった。

 花やしきは小学校以来だ。現在どうなっているか、久美はスマホで浅草花やしきを調べ、結果を省吾に見せた。
「ほら、だいじょうぶよ。小規模だけどローラーコースターも、お化け屋敷もあるよ・・・。絶叫マシンもあるよ!」
 ちっともだいじょうぶじゃないと省吾は思った。
 地に足が着かない高い所なんて背筋がぞっとする。観覧車が小っちゃくて安心した。あの座席が回転する乗り物は、目がまわって特に苦手だ。もし、そういうのに乗りたいといったら、久美さんの胸に顔を埋めていよう・・・。

「うん?なに考えてるの?怖くなった?そしたら、こうしてあげるね・・・」
 久美は省吾の頭を引き寄せて胸に抱きしめた。幼いときから久美はこうすると決めたら必ず実行する性格だ。それは今も変っていない。


 浅草までの電車内、可能なかぎり地下鉄には乗らないと久美は省吾に話した。あの地震以来、地下と名のつく所へは行きたくない。
 省吾も気持ちは同じだ。

 浅草花やしきに着いた。
 入園料を払い、フリーパスを買った。これで省吾は乗り物に乗らねばならなくなった。
 しかし、乗り物に乗ってみると、省吾はローラーコースターにも絶叫マシンにも恐怖を感じなかった。久美のほうが乗り物に恐怖を感じ、ショックを受けていた。久美は省吾に抱きついて笑った。目に涙が浮かんでいる。

「久美さんが怖いなら、もうやめようか?」
 絶叫マシンを降りた省吾は、震える久美を抱きしめ、何度も背中を擦った。
「怖くなったら、またこうしてもらうから、乗る!」
 こうすると決めたら、必ず実行する久美だ。笑顔で、大皿に椅子が並んだようなディスク・オーに乗るといった。

「うわ!これ苦手だ。目がまわる。ダメ!助けて!他のに乗ろう。
 メリーゴーランドくらいの、三半規管を刺激しないのがいい」
 回転する乗り物に乗ると目がまわる。この気持ちをわかってくれ、と省吾は困り顔で久美を見つめている。
 久美は笑いながら省吾の手を引いた。久美はホントに乗ってみたいのだ。
「だいじょうぶよ。あたしが抱きしめててあげるから。
 それでもダメなら、チュウして、気をまぎらわしてあげる。ね!」
 久美は唇を突きだす仕草でほほえんだ。久美の笑顔に省吾は思わずいいよ、と答えていた。久美の笑顔に省吾は嫌といえなくなる・・・。

 ディスク・オーの座席に着いた。動きだしたが、省吾は以前のような目がまわる感覚を感じなかった。省吾は久美を見た。
「気持ち、悪くなったの?」
 久美も怖がっていない。省吾を見てほほえんでいる。
「だいじょうぶ、何ともないよ。楽しいよ」
 省吾は久美の顔を引き寄せて頬ずりした。久美は顔をうごかして省吾の唇に唇を触れた。


「ああ~、楽しかった。ソフト食べたい!チョコのがいい!」
 省吾は近くの売店でチョコとバニラのソフトクリームを買った。
「乗り物、もう、何に乗っても平気だね・・・。
 あたし、胸がどきどきしてる。
 乗り物のせいじゃないよ。あなたに抱きしめてもらったから・・・。アッ・・・」
 ベンチでソフトクリームを食べる久美を省吾が抱きしめた。背中に手を当てて擦っている。

 久美の鼓動は早い。久美は、これで具合は悪くならないのだろうかと思っている省吾を感じる。省吾の肩に顎をのせたまま久美がささやく。
「今度は、お化け屋敷ね・・・」
 省吾が顔を離して久美を見つめ、頬に唇を触れる。
「お化け屋敷で驚いたら、倒れるんじゃないか?」
「平気だよ。あなたとふたりでいるから感激で興奮してるの。驚かないよ」
 久美は省吾にほほえんだ。
 こうしてあなたと過すこのときに感激し、あたしはこの上ない幸せを感じてる・・・。


 久美が話したとおり、お化け屋敷の久美は驚かなかった。それどころか、久美は自分の髪と変顔と、用意していた大きなスカーフで怖い雰囲気を作って、お化け役の関係者を驚かせ、出口に着くと、関係者から、お化け役として働かないかと声がかかった。

 久美は、長年お化け役の関係者を驚かせたいと思っていたことを省吾に話した。こんなところは久美の弟に似ているかも知れない。
「やったね!もし驚かなかったら、これ、使おうと思ってた」
 久美はトートバッグからゾンビのマスクをとりだした。

 そんなことしたら、驚いたお化け役が怪我する、と省吾は思った。
 お化け屋敷に入る客は、怖い思いをすることや驚かされるのを承知で屋敷に入るが、屋敷の関係者は客に脅かされるのを承知していない。何かあれば問題になるかもしれない・・・。
 そんなことまで気にするのかと思われるから、このことは、久美さんに話さないでおこう・・・。

「うん?どうしたの?あたしが驚かなかったから、不満?」
 久美は長いまつげが縁どる大きな目で、省吾の顔をのぞきこんでいる。
 省吾は久美の背中に手を当てた。鼓動はお化け屋敷に入る前より安定している。
「不満はないよ。もしかして、これからお化け屋敷でお化け役を驚かせるんだ、と興奮してたの?」
「ちょっとはね。でも、それほどじゃないよ。
 さて、次は、浅草寺ね」

 久美と省吾は浅草寺を観光し、隅田川の水上バスに乗って日の出桟橋まで往復。また、浅草に帰ってきた。
「ちょっと買物するね。知りあいに届けたいお菓子ががあるの」
 久美は浅草の名物和菓子を買った。
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