海景色と必至

文字数 2,731文字

真っ白の紙切れ。
わたしは伝えたい事を書き込んでいく。
奏くんと付き合うことになった事。
バウムクーヘンや試食したスイーツの事。
近くに有名なイタリアンのチェーン店ができる事。
薬を変えてから調子が良い事。
焙煎所で働かないかと言われた事。
ひとつひとつ書き留めておくことで、安心する。
伝えたいがたくさんあっても、今のわたしはうまく伝えられないから。こうしてメモに残しておくと、全て伝えることができる。
ネジが外れたわたしは、少しずつそんなわたしの扱い方を学んで生きている。




「奏くん懐かしい。きっと、もっとカッコよくなってるんだろうなあ。よかったねっ」
藍子(あいこ)は赤ワインのサングリアを一口飲んでから、嬉しそうにそう言ってくれた。
今日は久しぶりに藍子の家に泊まりに来ている。小学校から同じで、中学、高校と一緒に部活を頑張った親しい友達。ずっと一緒だったのに、クラスは一度も同じにならなかったけれども。
美容、スイーツ、漫画に詳しい。少しオタク気質の藍子はトリマーとして働いて、実家で両親と姉夫婦と暮らしている。彼女といると、わたしはいつも落ち着いていられる。
「でも働くのは迷うね。今は無理しなくてもいいんじゃない?」
わたしは藍子のお母さんの自家製だという、同じサングリアを飲みながら頷く。
迷っている。とても。
甘えていいのだろうか。
あの優しい空間に。
携帯が震えた。奏くんからだ。
-次会う日、仕事になりそうなんだ。ほんとうにごめん
わたしは息をするのを忘れて、その画面を見つめ続けた。
「古都?大丈夫?よくないこと?」
「奏くん。仕事で会えないって。仕方ないね」
仕方ない。笑顔でそう言ってみるけど、とても残念で悲しくて。
会いたかったのに。
会って聞いてほしい事がたくさんあったのに。
「あっ。ピザもうすぐ焼けるかも。今日はたくさん食べてたくさん飲もう?」
わたしは今日、藍子と過ごせていることに感謝する。ひとりぼっちでは、とても受け止められない。今のわたしにとって、奏くんの存在は大きすぎる。今までそんな存在なんてなかったのに。一度手にしてしまった光が少しでも欠けると、こんなにも心細くなってしまう。
また自分の弱さを飲み込まなくてはならない。
強さが欲しい。
手に入れ方が、分からない。

翌日。夕暮れの道を歩く。
今朝は近所のパン屋にパンを買いに出掛けた。わたしはたっぷりのモンブランクリームが乗ったデニッシュ生地のものが気に入っている。ケーキのように甘くて。その他にもいくつか買って、藍子の家でゆっくり過ごした。他愛もない話をしたり漫画を読んだりお菓子を食べたり。
とても、楽しい時間だった。
今夜パパは出張で、ママは友達と会うから家にはひとり。今日も飲みたい気分かもしれない。家にあるのはアルコール度数の高いもの。わたしは自分に合ったビールを買いにコンビニに行くことにした。
煌々と明るいコンビニの電飾看板。落ち着くのは何故だろう。ここはいつも明るくてわたし達を待ってくれているよう。
入って奥にある、冷たい飲み物のコーナーに向かう。たくさんの種類の中でわたしが買うのは決まっていて、アルコール五%のもの。少しでも高いと酔いすぎてしまうし、低いと物足りない。
扉を開けて迷わず二本のビールを手に取った。
「古都ちゃん?」
聞き覚えのある声。見上げるとそこには蛍さんがいた。ここにいるはずのない人なのに。そんなわけないけれど。ここは焙煎所とわたしの家の近くのコンビニ。
わたしはただ、驚いていた。
「ビール飲むの?今から?」
「えっ、はい。今から」
「ひとりで?」
「ひとりで」
蛍さんは手に、スポーツドリンクとウコンドリンクを持っていた。側にあったカゴを手にしてそれらを入れてから、わたしの持っているビールもそこに入れてしまった。
「海。見に行こうよ。いい?」
そう言ってからレジに向かってしまう。
「海⁉︎あのっ。そのビール」
相変わらずわたしの声は蛍さんに届きにくい。
蛍さんはレジを済ませて外に出て行く。着いて出て行くと、そこには軽トラックが停まっていた。
「ごめん。これだけど。そこの海、夕方綺麗だと思うんだよね」
この近くには小さな海岸がある。少し山道を走って行けば、車だとすぐに着く。近所だからこそ、あまり行くことのない場所。
「絶対ひとりで飲むより、海見ながら飲んだほうが美味いよ」
それはその通りだけれど。
蛍さんは運転席に座って、助手席側のドアを開けて待ってくれている。わたしは

、乗ってしまった。
海が見たい。きっと綺麗だ。
それにひとりより、蛍さんと一緒がいい。

住宅地を過ぎると田んぼが広がって、また住宅が所々にある。それを過ぎると山道になり、道なりに進むと小さな公園、それから老人ホーム。そこを横切ると駐車場があって、松の木々がたくさん見えてくるはず。
「これ、マスターの軽トラ。ちょっと借りてきた。夜飲みに行くんだよね。時間あるから付き合って」
ウコンドリンクを飲みながら、蛍さんはそう言った。車内で話したのはそれだけ。それくらい近くに、海岸はある。
松の木々が見えてきた。
駐車場に車を停めて、降りる。
海の匂いがする。
コンビニのビニール袋を手に、迷いなく歩いて行く後ろ姿。わたしもその後ろを歩いて行く。
松の木々を見上げられる道々は涼しくて、空気が澄んでいて、柔らかな風が吹き抜けていく。頬を撫でる、穏やかな夏の夕暮れの空気。
自然に近くで触れると、生かされていると感じる。そう感じると、今のわたしは、とても泣きたくなる。
足元を見て歩いていると、目の前に大きな手が見えた。蛍さんの、綺麗な骨ばった大きな手。
わたしはその手を取ることに迷った。
奏くん。この前の女の人。
けれど、優しく差し出された手を、今のわたしに拒むことはできなかった。
わたしはその手を取って前に進む。
段差の大きな階段を少し登って行く。
広くて(きら)びやかな海が目の前に広がる。
穏やかな波と共に変わらずそこにあるもの。
蛍さんはビニール袋からビールを取り出して、わたしに手渡してくれる。
「乾杯、しようか」
ビールとスポーツドリンクで乾杯をした。
ほんの少しぬるくなったビール。
けれどそれはとても美味しくて、全身に染み渡っていった。
なんて綺麗なんだろう。
海の上にある夕日は、温かくて眩しくて優しい。



ひとりになりたい時があった。
けれど今は、その時とは違った感覚。
ひとりになりたいのは誰かと居たいから。
上手く誰かと居られなくてひとりになる。
臆病で不器用で神経質で。
それがほんとうのわたし。
そう気づいた今、わたしはそのことをうまく飲み込めずにいる。


ただ、人の温もりはやっぱり恋しくて。
できる限り触れていたい。
そんなふうに思わせる人達に出会ってしまった。

わたしは少しずつ、人を、好きになってしまう。



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