哀音

文字数 2,767文字

ヨーグルトにたっぷりのブルーベリー。
ドライフルーツの入った甘いシリアル。
上からアガベシロップ。
奏くんの持ってきてくれた季節のフルーツは、とても甘味があって小さな粒に旨味が凝縮されていた。
もっと甘酸っぱいものを想像していたのに。
ヨーグルトとシリアルを合わせると幸せ。


「パパが車検のお願いに行った時に聞いたそうよ。拓海さんに会うのは久しぶりだったみたい。拓海さんは落ち着いて話していたそうだけど。詳しいことは聞かなかったって。古都にすぐ言う必要はないと思って。残念なことだから。けれど、奏くんに会ったのなら知っておいたほうがいいと思ったの」
ママから昨日聞いた事。
わたしには現実味がない。
もう十年も会っていない歩くんの現実(いま)を想像することは難しい。
もう絶対に会うことはできない。
ただそのことが、哀しい。

わたしは今、観葉植物に水を与えている。
ママは植物や花が好き。家の中にも外にも常にいくつかある。ママの言われた通りにしてあげれば、わたしでも生き生きとした状態を保ってあげられる。
それでもいずれ、枯れてしまうことがある。
それが生きているということ。
だから美しい。
歩くんに何があったんだろう。
わたしは知りたかった。
幼いわたしが惹かれた、気丈な歩くんのことを。

今朝は歩きに行かなかった。
体が重だるくて、口がうまく開かない。手の痺れも少し残っていた。眠って体を休めることを優先した。歩けば良くなっていたのかもしれないけれど。
ヨーグルトを食べた後、ポップコーンとプレッツェルを少しつまむ。とっても甘くて一つではやめられない。口の中が甘さでいっぱいになると手を止めた。今日のお昼はこれで十分。

午後、休みのママが病院に連れて行ってくれた。
一人の時は、人が少ない時間帯を選んで電車に乗って行く。十五分程で着く。わたしの住んでいる街のいちばん大きな駅に。田舎の大きな駅前にはそれほど人はいない。それでも家の近所にはない、賑わった雰囲気。
駅前から外れた狭い路地を行くとある、小さなビル。そこの五階にある病院。四階に薬局があってそこで薬をもらって帰る。
薄暗いエレベーター。
何度来ても、このエレベーターに乗ると薄ら寒い気持ちになる。
五階に着くとすぐある扉。入ってすぐ正面に受付があって、十ほどの椅子が間隔を開けてコの字に並べられている。
今は一人、会計を待っている様子。
座って五分もしないうちに呼ばれた。
いつも先生が部屋の中から扉を開けて、わたしの名前を呼んでくれる。
「どうですか。変わりありませんか」
そう言いながら、パソコンでわたしの症状を確認している。
わたしは最近の出来事を少しずつ話していく。
先生には不思議と、全て話すことができる。
「そうですか。思ったより、治りが遅いですね。薬を変えてみましょうか」
わたしは、何か間違っていたのかと不安になる。
「心配ないですよ。社会から離れている時間があってもいい。私はそう思います。今は好きなことをしてください。それでいいのです。それと、できるだけ体は動かしてください」
わたしは体内のモノがリセットされたのを感じる。薬を変えれば、今のままでいいということはわたしをとても安心させてくれた。

夕刻。まだ明るい空。今日の昼間はよく晴れていて、半袖の人も見かけたくらいに気温が上がった。
ママはビルの前まで迎えに来てくれた。
「おつかれさま。いろいろ話せた?」
「うん。薬変えてもらった。また副作用があるかもって」
「そう。食欲はありそう?」
「あまり。家にあるもの食べるよ」
ママはしばらく行くと、来た道と違う方面に車を走らせた。
「整備工場。改装して、とても綺麗な工場になっているの。帰り道、見に行ってみましょうか」
昨日行ったショッピングモールが見えてきた。そこからしばらく大通りを走るとあった拓海さんの整備工場。
けれどそれは、わたしの記憶とは全く違うものだった。四階建ての事務所の横に大きな整備工場。以前の面影は全くなかった。事務所の外壁はアルミで濃紺。ガラス張りの箇所は清潔感がある。まだ新しい建物だとすぐに分かる。
拓海さんはここまで大きな会社にした。
すごいことだと思った。
奏くんはここで働いているということなのだろうか。あの指先の色はオイル汚れ。
仕事をしている手。だったのかもしれない。

わたしは少し歩きたい気持ちになった。
車の窓から入ってくる風が心地良くて。昨日の奏くんを思い出したから。

「ママ。ここから散歩して帰るよ。気分が良くなる気がするから」
ママはわたしの顔を少し見てから、広い路肩に車を停めてくれた。
「気をつけて。ショッピングモールで、古都の好きそうなお惣菜買ってから帰るわ」
「わかった。ありがとう」

キャップを被り直してイヤフォンをつける。音楽は流さないことにした。
夕方の空気。
少し懐かしい匂いがするのはなんでだろう。
大通りを避けて路地裏を歩いていく。
住宅地。この辺りは、中学生の頃自転車でよく通った。ショッピングモールが少しずつ遠くなって見える。

狭い路地に一台の車。

赤い車。

あの人の乗っていた形によく似ている。 
切り揃えられた肩までの真っ黒な髪。
ぐりっとした目を思い出す。

わたしは様々なことが頭の中で思い出されるのを感じる。
それは痛い記憶ばかり。

鼓動が早く打ち始める音。
わたしは一歩ずつ慎重に歩いていく。

通り過ぎると視界から赤い車は消えた。

それなのに。
鼓動の音は収まることがない。
泣きたくなった。

「こんにちは」
声の先には、昨日焙煎所にいた男の人。

ここはdolce四番地焙煎所前。

たくさんの木々に水を与えている。
わたしはイヤフォンを外した。
辛うじて、会釈を返す。
男の人はホースの水を止めてこちらに向かってきた。
「昨日、トバブルー持って帰ったよね?馬づらを飲んでほしい。ちょっと待って」
そう言ってから平家作りの建物へ入っていく。
わたしはそちらに着いて行く。
扉の中を覗き込むと、大きな機械とたくさんのコーヒー豆。
男の人はたくさんあるケースの中から一つ選んで、蓋を開けた。スコップのようなもので袋にコーヒー豆を入れていく。昨日見た茶色のプラスティックケース。
簡単に袋を閉じて、それをわたしに手渡してくれた。
「これ、マンデリン馬づら。こっちのほうがもっと奥深い。けれど濁りが全くなくてすっきりしてるんだ。飲み比べてみて」
わたしは温かな袋をしっかりと受け取った。
「うまづら?ですか」
「そう。馬面。いい名前だよね」
人懐っこい笑顔が、痛い記憶を和らげる。

人から感じた痛みなのに。
人の力によって救われる。

何気ない優しさ。
それは、与えたり、受け取れるときっと良い。
けれど、当たり前に触れることはきっとできなくて、気づかないことがある。

今のわたしにとってはこれだけの力がある。

袋を抱き抱えたまま動けなくなった。



コーヒー豆がまだ温かくて涙が止まらない。





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