二郎と花江

文字数 3,143文字

あんずジャムは優しい味がした。
とろけていくようなジャムの甘さが、わたしは幼い頃から好きだった。家には必ず、二種類以上冷蔵庫にあって、その日の気分で塗って食べる。
時子さんが瓶詰めにしてくれた新鮮なあんずジャム。八枚切りの食パンに贅沢にたっぷりと乗せた。
窓から入ってくるゆったりとした風。程よく乾いた空気はとても心地良い。静かな部屋に広がるジャムとパンとコーヒーの香り。
ブラジルブルボン。ごく限られた農園でしか栽培されない貴重なもの。マスターが袋に少し詰めて手渡してくれた。
深みとコクと苦味。上質なコーヒー。
マスターから受け取ったことがきっと、さらに美味しさを増している。
また会いたいと思う。素敵な人だった。



dolce四番地ブレンドを飲みながら、ママが洗濯物を干しているのを眺める。
空は青くて綺麗な水色。
さっきママとフレンチトーストの朝食を食べた。フレンチトーストの横には、ホイップクリームが少し添えられていてとても美味しかった。
わたしは集まりに出かけた日の出来事を、少しずつ、絞り出すように、掻い摘んで、話をした。ママは少し難しい顔をしながら、最後まで聞いてくれた。
「行きたい場所、やりたい事、会いたい人。古都の好きなように過ごせばいい。時々、それが分からなく感じることもあるかもしれないけど。ママは古都の側にいるから。心配なことなんてないよ」
すっとした胸の奥と、複雑な感情。
ママに心配ない。と、言われても。
二度もわたしを置いて精神病院に入院したママ。わたしは心配で淋しくて。良い子でいようとする事くらいしかできなかった。
次はずっと前の記憶が胸の奥に残る。
つっかえが取り除けないまま。

コーヒー豆を買いに行く事を与えてくれたママ。わたしはひとりで何もできない。


ノースリーブのグレーのワンピース。スカート丈はくるぶしあたりまであって、肌触りが柔らかく涼しくて、暑い日にいい。
外に出ると太陽はしっかりと昇っていて、わたしを熱く照らした。陰を選んで歩く。冷たい水を飲んで出てきたのに。もう喉が渇いた。
焙煎所までの道のりに見える景色。住宅地を過ぎてからは田畑が広がり、山が遠くに見えて緑が綺麗だ。今日の空は夏休みを思わせる。

駐車場に車が二台、停まっていた。忙しくしているのかもしれない。扉を開けると、コーヒー豆の並んだテーブルの前で時子さんがお客さんと話していた。それから奥のカウンター内で、眼鏡の男性がコーヒーを淹れている。カウンターには、以前見かけた常連の夫婦。
「いらっしゃい。事務所のほうで待ってて」
わたしの元に来た時子さんは、外を指差しながら小声でそう言った。
また扉を開けて外に出る。平屋側の入口に向かう。
中に入ろうとすると顔が何かにぶつかった。
思いっきり。それからわたしは後ろによろけた。
けれど、倒れることはなかった。
しっかりと腕を掴まれていた。
「ごめん!びっくりした」
蛍さんだ。
外に出ようとしていたところのよう。
「わたしこそ!ごめんなさい」
そう言って目が合うと、蛍さんは大きく笑った。
「こんな思いっきり誰かとぶつかるの、初めてだよ」
確かに。わたしが前を向いてないからだ。下ばかり見て歩いているから。気をつけないと。
そんなことを考えていると、また目が合う。今度は真顔で、わたしの顔をじっと見ている。
目が離せなくなる。
くっきりとした蛍さんの目に吸い込まれそうだ。
「古都ちゃんて。面白いな。そうだ。今から一緒にご飯食べに行こう」
そう言って外の方へ歩いて行く。
「時子さん待ってるの暇でしょ。たぶん、あの客達、結構時間かかるよ。お腹空いてないなら飲み物奢るから」
わたしは何も言えないまま、離れて行く蛍さんを追いかける。
「あのっ。でも待つように言われて」
「大丈夫。時子さんに連絡入れとくから」
蛍さんの後ろを歩く。オーバーサイズの白シャツにスウェット。使い込まれたスニーカー。細身で背が高いその後ろ姿はとても、綺麗だと思った。
「ここ。よく来るんだ」
少し歩くとあった、煉瓦造りの喫茶店。入口は階段を上がって二階にある。階段横には食品サンプルが見える。ハンバーグやオムライスといった定番のもの。けれど、それらはほんとうにあるのかと思うくらい古く、値段が書かれてないものまである。そこから入口あたりを見上げると、店名が書かれた看板が見えた。「二郎と花江」
変わった店名に、わたしは看板を二度見した。蛍さんは階段を上がった入口前で待ってくれている。一緒に店内に入ると、入ってすぐの棚にたくさんのぬいぐるみが飾られていた。見たことのあるキャラクターとか動物とかいろんな。テーブルは十卓程あって広い店内。昔ながらの喫茶店の雰囲気で、ぬいぐるみだけが浮いて見えた。
真ん中あたりのテーブルに座る。
「メニューゆっくり選んでて」
そう言って、カウンター内の店員らしきおばあちゃんに蛍さんは声を掛けに行った。おばあちゃんの横には眠そうなおじいちゃん。
メニューにはピラフ、ナポリタン、サンドウィッチ。気になるものがいくつかあったけれど食欲はあまり無かった。テーブルに戻った蛍さんは灰皿を持っていた。
「ここ、吸えるからいいんだ。それ基準で店選んでて。決まった?」
「ミックスジュースにします」
近くまで来ていたおばあちゃんに声をかけて注文する。
「はい。ミックスジュースとオムライスとレタス抜きのサラダ」
そう言って注文を通しに戻って行った。腰が少し曲がってくっきりと口紅を塗ったおばあちゃん。
蛍さんは煙草を吸い始めた。
「マスターに会った?眼鏡かけた人」
「マスターだったんですね。コーヒー淹れてて。話は、してないです」
わたしは小さな氷がたくさん入った水を飲む。とても冷たい。
「やっと帰ってきた。こうやって外出られるし、仕事減るからよかったけど。帰ってきてすぐ文句ばっか言ってくるの。まあ焙煎に関しては仕方ないけど、箱の位置とか掃除の仕方とかいろいろ。こっちは一人で必死にやってたのにさ」
それからもしばらく続くマスターの愚痴。わたしは、そうですか。大変ですね。を繰り返し相槌を打つ。けれどその愚痴から見えてきたのは、マスターとのいい関係性。蛍さんはきっと、マスターを慕っていて、マスターは蛍さんを信頼しているような。そんな気がした。
テーブルに、オムライス、スライスハムとポテトサラダの皿、ミックスジュースが並ぶ。
「この普通のオムライス。これだよ」
ケチャップライスがしっかりと卵に包まれて、濃い赤いケチャップがたっぷりかけられている。
ミックスジュースは懐かしい味がした。昔、よく飲んでいたわけではないけれど。
蛍さんは皿がテーブルに並ぶと、携帯のゲーム画面を開けて何かし始めた。
「この時間にしかできないことがあるんだ」
器用に食べながら、今しかできないことを進めているようだ。
わたしは目まぐるしく動く蛍さん、この店の独特な雰囲気、店員のおばあちゃんとおじいちゃんが並んでテレビを見ている後ろ姿、ぬいぐるみ達の視線。
昼下がりの店内に、他にお客さんはいなくて、そんなわたし達だけがいる空間。
その全てが、わたしはどうしようもなく可笑しくなってしまった。
「古都ちゃん?えっどうしたの?」
わたしは笑いを(こら)えていた。
声を出して笑いたいけど笑い方が分からない。目に涙が溜まっている。
「ごめん!俺、また何かした?なんだろう。どうしよう」
「違うんです。楽しくて」
なんとか言葉が出た。笑いが止まらない。
蛍さんはそんなわたしを、口を開けて見ている。
それから、声を出して笑った。
「古都ちゃんやっぱり面白いね。笑った顔、すごく可愛いし」


こんな楽しい気持ちは久しぶりだ。
こんなに自然に笑ったのも。




わたしは蛍さんに惹かれている。

きっとこの日から。
特別な存在に、なり始めたのは。






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