回道

文字数 2,702文字

ふんわりとしっとりとしている。オーブンで温められたまだ温かいスコーン。余分なものは入ってないような素朴な味わい。
自家製の苺ジャムをつけてみる。甘酸っぱいそれは、透き通るような赤色でスコーンと合わせるとぴったりの旨味が口の中で混ざり合う。
それと一緒に飲むグァテマラコーヒー。バランスの良いコクと酸味。ほんのり香りが残るような余韻。スコーンとグァテマラコーヒーがわたしと時子さんの空気を優しく和ませてくれる。



時子さんはお客さんと知り合いのようで、楽しそうな話し声が聞こえた。事務所から少し様子を伺うと、時子さんよりさらに年上の夫婦のよう。どちらも品のある雰囲気でよくここに来ているのかもしれない。ご主人の方は椅子に座って、奥さんがコーヒー豆を眺める様子を見ている。
焙煎所の方から機械音が聞こえてくる。コーヒー豆を焙煎しているのだろう。焙煎機のある平家のほうに近づくと、コーヒーの香りと一緒ににんにくの香りも漂ってきた。
ペペロンチーノ?
部屋を覗き込むと、蛍さんがプラスティック容器に入っているペペロンチーノらしきものを食べているところだった。
「こんにちは。すみませんっ」
わたしは事務所に戻ろうとした。
「ちょっと待って」
わたしは部屋をまた覗き込む。
「これ、やってみて」
携帯を手渡してくる。受け取って画面を見るとゲーム画面。手前に引っ張るようなことが書いてある。手前にスライドすると、龍のようなものの口にまあるい玉が入っていった。それから輝かしいモンスターが出てくる。キラキラとして神々しい。
「レアじゃん!やった!当たった!」
蛍さんは食べかけのパスタを置いて立ち上がる。わたしはただただ、そんな蛍さんを眺める。
「ありがとう!これ!これが欲しかった!」
無邪気。その言葉がぴったりだと思った。蛍さんの印象は会う度に変わっていく。綺麗な顔立ちが崩れる程、魅力が際立つ。
ゲームのガチャをしたわたしは、何だか役に立てて気分が良い。蛍さんがとても嬉しそうで、わたしまで嬉しくなる。
「あっコーヒー?何にする?」
「時子さんを待ってて。まだ何も決めてなくて」
蛍さんは残りのペペロンチーノを食べ切った。ペットボトルのコーラを飲む。
「美味かった。けど、やっぱり飯は外で食べたいな。ここじゃなくて。早くマスター帰って来ればいいのに」
コーヒー豆の入ったたくさんあるケースを見ながら、独り言のように蛍さんはそう言った。マスターはどこかに行っているのだろうか。そういえば一度も会ったことがない。
「あった。三日前に焙煎したグァテマラ。飲み頃だと思うから、これ、飲んでみて」
銀のマグカップにコーヒー豆を少し入れて手渡してくれた。
「ほんとありがとう。またよろしく」
そう言って焙煎の作業に取り掛かった。わたしに詳しいことは分からないけれど、dolce四番地で出すコーヒーと販売するコーヒー豆。カフェや飲食店にまで届けるものがあるということは、中々大変な量ということになる。蛍さんは一人でこなしている。忙しそうだ。
受け取ったグァテマラを手に事務所に戻る。お客さんと話す声はもう聞こえない。少し待つと時子さんが戻ってきた。
「お待たせ。時間大丈夫?」
わたしは大丈夫だと答えた。時子さんはカウンターでコーヒーを淹れてくれた。カウンター前の椅子に座ってそれを見る。爽やかで透き通るようなコーヒーの香りが広がる。時子さんはグァテマラに、dolce四番地で出されているスコーンを添えてくれた。それに時子さん自家製の苺ジャム。
さっきの夫婦がdolce四番地の昔からの常連で、奥さんがおしゃべりなこと。そして旦那さんが好きなエチオピアのコーヒー豆を毎回買うこと。焙煎所をオープンしてからは、マスターと時子さんに会いにこちらに来るようになったこと。時子さんはよくジャムを作ること。季節の果物を使ったものがいつも冷蔵庫にいくつかあるらしい。
わたしは娘さん達とのことが少し気になったけれど、聞かないことにした。けれど会ったことのないマスターがどこにいるのかは聞いてみた。
「ここのマスターは今、どこにいらっしゃるんですか?」
「古都ちゃん、会ったことなかったわね。今、ブラジルに行ってるの。農園の視察にね。週末帰ってくる予定」
そう言ってから、時子さんは急に立ち上がった。
「そうだ。これから豆の配達に行かなきゃならなかった。いつもはマスターが行くんだけど。話し相手になってくれてありがとう。なんだか慌しくしてごめんなさいね。だからここも、いつも四時まで開けているけれど閉めちゃう予定なの」
わたしは豆を買うことを思い出した。
「あのっ。コーヒー豆買わせてもらっていいですか?」
時子さんはわたしの顔をじっと見てからふわっと笑った。
「もちろんよ。ゆっくり選びましょう」
四番地ブレンドとマンデリン馬づらを、挽きで二百グラムずつ用意してもらった。二つのコーヒー豆を入れた紙袋に、シンプルなリボンのシールを貼ってくれた。
「プレゼントかな?と思って」
わたしはコーヒー、スコーン、楽しい時間、リボンのお礼を込めて、頭を下げてからdolce四番地焙煎所を後にした。


ブラジル。わたしにとって非現実的な場所。
わたしがそこに行く事はきっとずっとない。
マスターはどんな人なのだろう。
コーヒーが好きで今があるはずで。
素敵だ。そんな大人になれるといい。


幼い頃、看護師になりたかった。
ママが二度、入院したことがきっかけ。
けれど、お爺ちゃんが入院した病院を見て、その気持ちは薄れていった。
薄暗い静かすぎる病棟。
床ずれをケアする無表情な看護師の姿。
空気は濁っていて、お爺ちゃんは少しずつ小さくなっていった。
中学生になってからのわたしに夢なんてなかった。毎日忙しくしていることで精一杯だった。

気づけばわたしは社会に出なくてはならなかった。わたしは医療事務を自分で勉強して、求人のあった耳鼻咽喉科に就職した。
医療に関わってみたい気持ちが残っていた。

けれどそこで、大きく(つまず)いた。
勉強したことなんて何の役にも立たなかった。
覚える前に動き出す、流れの全てに、わたしはついていけなかった。
必死だった。
そして一人の人間の目にいつも追い詰められた。
指摘されるわけでなくただじっと見られていた。
そして時々、何してるの、と言われた。


わたしには何も分からないままだ。
そこを辞めていく人に続いて辞めていったただの一人に過ぎなかった。
その順番が回ってきた時には何もできなくなっていた。受付の椅子になんとか座っていた。



必要とされること。
誰かに認められること。
誰かの為に何かしたいと思えること。


きっと近道はないのだろう。
一歩一歩、歩いて行くしかない。






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