望みと矛盾

文字数 3,457文字

車の中は安心で安全で安らぐ。
缶に入った甘いアイスココア。
口が潤い喉を濡らし全身に広がる砂糖。
頭がすっきりとする感覚。
呼吸は浅いままで手が震える。
深呼吸なんてうまくできない。
紙袋を口にあてて酸素を求める。
手に、温かいものが触れている。
わたしが求めていたもの。
伝わる体温と脈の気配。
どうしようもなく苦しくて温かくて幸せ。




女の人はこちらに向かって来ている。
「これ、時子さんによろしくお願いします。失礼しました」
蛍さんに紙袋を一つ渡して、女の人に会釈をしてからわたしはその場を離れた。
悪いことをしてしまったような気がする。わたしは何もしてないけれど。

「これ。お弁当持ってきた」
「ありがとう」
「えっ、どこ行くの?」

わたしは早歩きでいつもの道を歩いていく。鼓動の音がはっきり聞こえる。
日差しが痛い。
「古都ちゃん」
後ろから声がした。
振り向くと走ってきた様子の蛍さん。
「あのさ、連絡先、教えて」
わたしは臆病だ。そんなわたしに気づいて同情してくれているのかもしれない。
「そんなに怯えないで。確かに、あいつ目つき悪いけど。いいやつなんだ。それに、古都ちゃんに少し似ているかもしれない」
鼓動の音は小さくなっていた。少しも似ているとは思わなかったけれど。
「新作の試食の日。連絡するから」
わたしは蛍さんと向かい合って、連絡先を交換した。

買ってきたものを机に広げると嬉しくなる。美味しそうなものばかり。少し遅めのお昼ご飯。コロンビアのコーヒーを入れて、本を読みながら食べよう。窓の外は薄暗い。雲行きが怪しくなってきた。強い雨が降り出しそう。
女の人は蛍さんの大切な人なんだろうか。わたしのことをよくは思わなかった感じがした。時子さんは紙袋を受け取ってどんなふうに思ったんだろう。明後日はサッカーの試合。こんな状態で行くとまた、迷惑をかけることがあるかもしれない。
いろんな事を考えてしまう。全く本に集中できない。ぼんやりと外を眺めながら、ゆっくり食べ終えた。雨音を聞きながら、眠りにつく。


手を繋がれて歩いている。
空はなぜか真っ白だ。
住宅地、横断歩道、畦道(あぜみち)
「こっちに行くと公園があるんだ」
「この道を通ると近道」
「あの家の外には大きな犬が二匹いる。けれど吠えたりしない。だから心配ない」
にっこりそう言って、隣にいるのは歩くん。最後の記憶にある、少し茶色の柔らかな髪にわたしより少し背の高い歩くん。
手を握ってくれている。

わたしは椅子に座っていた。
辺りは真っ暗で正面には大きなスクリーン。
映画館。アニメが流れている。
歩くんがわたし達を誘って映画を見に行ったあの頃。二人が中学生になった頃。遊ぶことはなくなったけれど、何度か映画観に三人で出掛けた。
わたしはポップコーンを持っていた。両側から手が伸びてくる。歩くんと奏くん。二人は正面のスクリーンを見ながら食べている。
わたしは二人がいることに安心している。
急に目の前が真っ暗になった。
わたしは映画館にひとりぼっち。
寂しくて不安になる。
それからスクリーンは消えて青い空が広がる。
雲ひとつない空。
「古都」
奏くんの声。

目が覚めると外は強い雨が降って、部屋は暗くなっていた。夢を見ていた。記憶のどこかにあったような夢。続きを見ていたい。
わたしは静かで暗い部屋にひとりぼっちだった。


日曜の朝は快晴。昨日は一日中雨だった。
今家を出たと奏くんから連絡がきた。
肩までの髪を一つに束ねる。カーディガンは紫外線予防の為。ハーフ丈のアイボリーのデニムパンツ。
スポーツ観戦に行くのは高校以来。わたし自身がしていたテニスを思い出す。今の自分では考えられないけれど、学生時代は部活に一生懸命だった。ただ、何かしていないと落ち着かなかった。
奏くんも小、中とサッカーをしていた。高校からはしていなかったようだけど、社会人になってもしているのはやっぱり好きなんだろうと思う。

黒い車が見えると鼓動が鳴る。高揚と緊張で。
「おはよう。とりあえずドライブスルーして行くから。古都は腹減ってない?試合終わるの昼過ぎると思うけど」
奏くんはハンバーガーとアイスコーヒー。わたしはシェイク。食べながら運転する奏くん。紫と白のユニフォームを着ている。
「相手、結構本気のチームなんだけど、俺のチームは結構ゆるいから。まあゆっくりしてて」
自然に囲まれた、大型公園に隣接しているサッカーグラウンド。駐車場も広く、三面程のサッカーコートが見える。クラブハウスらしき建物もあって思っていたより立派な施設のよう。
駐車場に停めると、奏くんは靴下を履いて靴を履き替えた。それから広々とした椅子のある観客席に連れて行ってくれた。屋根もあって、全体がよく見渡せる。
「この辺りでゆっくりしてて」
所々に人が座っている。奏くんのチームの家族や友達や恋人なのかもしれない。
奏くんはコートのほうに行ってしまった。ここからは試合に出る人々が小さく見える。
「あの、奏くんの彼女?」
明るい髪色のアイラインがくっきりと引かれた女の人に声をかけられた。
「さっき一緒に来てたの見かけて。あっちで一緒に見よう?」
わたしは促されるまま着いていく。後ろの席から前の方へ。数人の男女が座っている。皆んな少し年上のような気がする人達。
「奏くんの彼女だ。これよかったら食べて」
ファミリーパックのお菓子がいくつかと、ファストフードのポテトやナゲットが広げられている。
「ありがとうございます。彼女ではないんですけれど」
わたしは小さな声で誰に言えばいいか分からず、声にしてみる。

彼女じゃないんだ。名前は?」
「古都といいます」
「古都ちゃん。肌白くて可愛い。私達は友達とか彼女とか奥さんとかいろいろ。まあ、一緒に見よう」
それからすぐ試合が始まった。奏くんは始め試合に出ず、ベンチに座っているよう。
周りの人達はよく会っているようで、慣れた雰囲気の中いろいろな話をしていた。わたしは貰ったカルピスのペットボトルを握って、試合と周りの人達を見ている。時々話しかけられたり、話を振られたりしながら、なんとか笑顔で受け答えした。他愛もない話ばかりで、感じのいい人達。けれど居心地がいいわけではない。一人でぼんやりと見ていられると思っていたぶん、神経が高ぶる。
後半に奏くんは試合に出た。体が軽そうで、何より楽しそうで、羨ましいと思った。後半は奏くんが試合に出ていることもあって、周りの人達にあまり話しかけられずいられた。
負けてしまった。相手チームは確かに上手く思えたし、ベンチの人数も多かった。
試合が終わって少しすると奏くんは観客席まで迎えに来てくれた。
「奏、可愛い彼女できてたんだ」
奏くんはそれにははっきり答えず、違う話をしたり、お菓子に手を伸ばしている。
「古都。帰ろう」
わたしはすぐ立ち上がって奏くんに着いていく。
「古都ちゃん、またね」
それぞれに声をかけられたわたしは、笑顔でお礼を言うことができた。
うまく、それなりに馴染めた。きっと、変に思われなかった。大丈夫。

奏くんはユニフォームから白のTシャツに着替えていた。足元はサンダル。
車のドアを開けると想像以上に中は暑く、一瞬目眩がした。
「大丈夫か?疲れたよな?」
椅子に座って呼吸してみる。少し上手くできていない気がする。
「大丈夫。皆んなすごく感じのいい人達だね。仲間入れてもらってた。奏くんこそ、暑い中お疲れ様」
エアコンの冷気が心地良い。
「ジュース買ってくる。何がいい?」
「じゃあ甘いもの。カフェオレとかココアとか。冷たいの」
駐車場にある自動販売機で買ってきてくれた。車が走り始める。わたしはアイスココアを握りしめたままぼんやりとしていた。
少しずつ、呼吸のリズムが分からなくなる。
初めての感覚じゃない。
何度かあった。
これはたぶん、過呼吸だ。
「古都?大丈夫じゃないよな」
奏くんを困らせてしまっている。
わたしは、ドライブスルーしたものが入っていた紙袋を、口元にあてて呼吸してみる。あまり良くない方法。それは分かっていた。けれど今は少しでも、すぐに落ち着きたい。
「ごめ、んね。たの、しかったの」
わたしは何とか伝えたくて言葉にした。

楽しかった。

それは、ほんとだった。誰かと楽しい場所で普通に過ごせたことが、ただ、わたしは嬉しかった。
それなのに。
こんなになってしまうことが悔しい。

「そうか。ごめんな」

奏くんの大きな手がわたしの右手に触れた。
温かくて優しくて。
その大きな手を握ってみると、涙が出てきた。


心と身体がばらばらだ。
けれどこの温もりは、此処にある。

確かなものが今、わたしの手に。





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