記憶と思出

文字数 2,600文字

暗くなってきた夏の空。
生暖かい風に夏の匂い。
わたしはいつも持ち歩いている、棒付きのキャンディを、いつもより大きめの鞄から取り出す。
プリン味は甘ったるくて、夏の外で食べるには少し重たいのかもしれない。
けれど、わたしにはぴったりと馴染んでいる。
体が軽い。
関わってくれている人々の存在は大きくて。
此処(ここ)にいてもいいのかもしれない。
そんな気がしてくる。



「酒、好きなんだ?」
並んで座って見渡す海岸線。
浜辺には粒の粗い砂が広がっていて、所々に貝殻も見つけられる。それをひとつ手に取ってみる。
「あまり強くないけど。好きではあります」
白くて小さな丸い貝殻。
規則正しく静かな、波の音。
「じゃあ今度、一緒に飲みに行こうよ」
そう言った蛍さんは、ビニール袋から新しい煙草の箱を開けながら一本咥えた。
「この前の女の人、よく思わないですよ?」
蛍さんは火をつける手を止めて少し考えている。
「この前?あぁ、(あん)のことか。高校の同級生だよ。整備工の事務員してるの。まあ、友達だからね」
整備工?わたしは奏くんの働く、あの整備工場が思い浮かんだ。
「そこってショッピングモールの近くですか?」
「そうそう。あの綺麗な工場。知ってるんだ?知り合い、いるの?」
「はい。えっと、幼馴染が働いてて」
わたしは、彼氏、と、うまく言うことができなかった。まだ言い慣れていない。それに、その話は恥ずかしくてできない。
わたしはビールを半分程飲んで、気分が少し良くなってきていた。ママと同じで、お酒を飲むと口数が増える。
「あの、蛍さんは焙煎の仕事をいつから?」
足を投げ出して座る蛍さんの足。長い足は細くて、綺麗なふくらはぎをしている。
「五年前くらいかな。地元出て大学行って、結婚して離婚して。その頃帰ってきて。適当に過ごしてたら、親父にパティシエしろって言われて。それは嫌でマスターのとこ行って。焙煎の仕方教えてもらって。そんな感じで、始めた」
いろんな事柄が一気に聞こえてきて、わたしは何をどう聞けばいいか分からずにいた。両手で持った缶ビールを見つめたまま。
「なんで離婚したか聞いてくれないの?」
わたしは目を見開いて、蛍さんを見てみる。そんなわたしの反応を面白がっている蛍さんと、目が合った。
「ごめんごめん。その顔が見たかった。困らせるつもりはなかったんだ」
わたしは残りのビールを飲んで、一本目のビールを飲み干した。
「聞いていいのなら。気になります」
蛍さんはビニール袋から、もう一本のビールを手渡してくれた。
「不倫された」
わたしはプルタブを開ける手を止める。
「今、俺のこと可哀想って思ったでしょ」
そう言うと、ビールをわたしの手から取って丁寧に開けてくれた。
「それはまあ、きっかけに過ぎなかった。俺もいい加減だったんだ。寂しい思いをさせて勝手なことばかりしてた。だから、それだけを責めるのは間違ってる。焙煎始めて、少しずつそう思えるようになった。全部の事を、認めたくなかったんだ。だから、俺だけ可哀想な訳、ないかな」
わたしに夫婦のことはよく分からない。でも夫婦に限らず、家族、恋人。近い存在との間柄はその間にしか分からない事柄がある。
外側の人間には絶対に分からない。
「そうかもしれません。でも蛍さんは、その時傷付いたと思うと、やっぱり可哀想です」
並んで見る穏やかな海。波の音が、よりはっきりと、耳に届く気がする。
「そうだね。古都ちゃんは、優しすぎるな」
「そんなことはないです。わたしはまだ、大人になれてないから。うまく言えないだけです」
「大人かあ。それはいつなれるんだろうな」
煙草を一本吸い終わって、すぐまた一本手に取る。蛍さんはいつも、とても美味しそうに煙草を吸うと思う。
「時子さんも離婚してるんだ。それからすぐ、焙煎所の上に住み始めた。俺が焙煎始めて、半年くらいしてからだったかな。子供が皆んな家を出てから、そうすることを決めていたらしいよ」
わたしはまた、動揺する。時子さんが娘さん達のことを嬉しそうに話す声。それから、寂しそうな目を思い出す。
「マスターはもうずっと前に、奥さんと一人娘を事故で亡くしてる。dolce四番地が軌道に乗ってきた頃だったかな」
マスターの優しい雰囲気を思い出そうとしてみる。胸が締めつけられて、上手く思い出せそうにない。
「始めからあの焙煎所なんてないんだ。全部の出来事を通り過ぎて今の焙煎所がある」
わたしは、海を見ている蛍さんの横顔を見ながら、頷く。
「いろいろ話してしまったけど、古都ちゃんには知ってほしかったんだよ。俺も時子さんも、古都ちゃんらしくいられる場所に、焙煎所がなればいいと思ってるから」
嬉しくて言葉が見つからない。こんな時にも、自分が嫌になる。
けれど、消えてしまいたいなんて思わない。
「たくさん、ありがとうございます」
「日が暮れてきたな。帰ろうか」

松の木々の下、来た道を歩いて行く。
コンビニに行ってよかった。
車に乗ると、中はとても蒸し暑くなっていた。蛍さんはエンジンをかけて、エアコンをフル稼働させる。
「あっ。それと、お父さん、パティシエなんですか?」
「うん。dolce四番地のシェフパティシエ。言ってなかった?兄弟で店やってて。親父よりマスターのが気が合うんだよ」
蛍さんのお父さんがdolce四番地のパティシエ。驚いた。またいつか、会ってみたい。
「そういえば、二人で海とか彼氏怒らない?」
蛍さんは不意にそんな事を聞いてくる。
「えっ、それは、大丈夫だと思います!」
「そっか。よかった」
煙草を一本持ったまま、火をつけずに蛍さんは住宅地を抜けていく。
「彼氏かあ」
そう言うと、いつも見かける、シンプルな白の使い捨てライターで火をつけた。

「ほんとに、ここまででいいの?」
さっき会ったコンビニの駐車場。
「はい。いろいろな事、知ることができてよかったと思ってます。ありがとうございました。少し、歩きたい気分なんです」




悲しい記憶。それは鮮明に残ってしまう。
鮮明に残された記憶が、今のわたしを支配している。
常に楽しい思い出で、上書きし続けることができれば、上手く、生きていけるのかもしれない。

焙煎所で働けば、少しずつでも変わることができる。そうであってほしいと、海を見たあの時から、わたしはそう思うようになっていた。


けれど結局、心の居場所は、ずっとずっと探し続けなくてはならないということ。

それでも探し続けるしかない。
わたしの小さな歩幅で。



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