心持

文字数 2,471文字

ゆで卵、ブロッコリー、海老。
特製マヨネーズで和えられたお惣菜。
甘味が強くてわたし好み。
そら豆のキッシュ。パイ生地がさくっとして中身はぎっしり。ブロックベーコンと玉ねぎの味がしっかりとしていて、そら豆が癖になる。
それと、ママがオーブンで焼いた鶏肉。
マスタードで漬け込んでからパリッと焼けたもの。
ママの飲んでいるワインを、わたしも今日は飲んでいる。薄赤色で軽くて飲みやすい赤ワイン。



泣き出したわたしに男の人はとても焦っていた。
「えっ。大丈夫?ごめん、俺かな?じゃないよね?涙拭くもの持ってくるよ!」
わたしは首を横に振って否定の気持ちだけは伝えることができた。
(ほたる)?あれ。昨日のお客さん。どうしたの?大丈夫?」
コーヒ豆を売ってくれた女の人が、買い物袋を下げて帰ってきたところだった。
「中に入って?コーヒー。入れるから」
優しくわたしにそう言って手招きした。
平家作りの建物から中に入って行く。事務所のような小さな部屋を通って、昨日コーヒー豆を買ったところに繋がっていた。
「そこのカウンターの椅子に座って待っててね」
部屋の電気をつけると、買い物袋を下げて事務所のほうに戻って行った。
静かで空気がひんやりとしている。コンクリート壁で石畳だからだろうか。
けれど、温かみのあるカウンターや椅子。カウンター内にあるドリッパー、ポット、雑多なコーヒー器具。コーヒーメーカーやエスプレッソマシン。上品で高価そうな食器棚に、様々な柄のコーヒーカップやソーサーが並べられている。
それらが(かも)し出す此処にしかない空間は、わたしをとても落ち着かせてくれた。
蛍。と呼ばれていた男の人が、ティッシュを持って来てくれた。ティッシュ二箱とウェットティッシュ。さすがにこんなには要らない。
けれど、彼の気持ちがとても嬉しかった。
「少し落ち着いた?時子(ときこ)さんが淹れるコーヒー美味いから。落ち着くまでゆっくりしてって」
そう言って、何か音楽が流れるような機械の側に行く。スイッチを押すと元気すぎる歌謡曲のようなものが流れた。
「もう、何やってんの蛍。こんなの流さないで」
事務所から、時子さんが顔を出す。
「何これ。ちょっとうるさいね」
「マスターの気に入りでしょこれ。いつも店オープンする時のにしてよ」
時子さんが番号らしきものを変更すると優しい音楽が流れた。森の中のような可憐な音。
「お待たせ。四番地ブレンドを入れようか。安定の美味しさだから」
わたしは涙がぴったりと止まっていることに気がついた。少し乾いた涙を、せっかくだからウェットティッシュで(ぬぐ)う。
温められたコーヒカップに入った四番地ブレンド。それにビスコッティ。
dolce四番地で、必ずコーヒーと一緒についてくるそれは、甘さが程よく優しい味わいで、どのコーヒーにもぴったりだ。
ブレンドはほんとうに美味しい。全てのバランスが整った完璧な味がする。そう思う。
「美味しい。とても」
こんなに美味しいのに。わたしの口から出たのはその言葉だけだった。
時子さんもカウンター内の椅子に座って同じブレンドを飲んでいる。
「私は時子。さっきの騒騒しいのが蛍。私はここのマスターのパートナーで蛍はマスターの甥。あなたのお名前は?」
「わたしは、古都、といいます」
時子さんはビスコッティをかじりながら、素敵な名前、と言ってくれた。
「落ち着いたみたいね。よかった。古都ちゃんの気が向いたら、また一緒に、コーヒー飲んでくれないかしら」
わたしは時子さんのつぶらな目を確かめる。
「古都ちゃん、私の娘に似てる。一緒にこうやってよくコーヒーを飲んだの。ここにはたくさんのコーヒーがある。いつ来ても飽きないと思うから」
そう言って優しく笑った。
わたしは自分の顔が自然と(ほころ)ぶのを感じた。



夜。部屋でゆったりとしている。
ママと一本の赤ワインを半分ずつ飲んだ。
そして今夜は、お腹いっぱいの食事をした。ママの用意してくれた献立は、今日のわたしにぴったりだった。きちんと食事をしたことは、わたしに自信を与えてくれる。
キャンドルを消そうとした時、着信が鳴った。
奏くん。
わたしは意識がはっきりするのを感じた。
電話は苦手。けれどこの電話には必ず出たい。
「はい」
「古都?今話せる?」
わたしは膝を抱えて背筋を伸ばす。
「話せるよ。どうしたの?」
「風呂入ってから飯食ってて。古都と話したくなったから」
わたしは立ち上がって、普段触ることのないカレンダーをめくってみる。
「そっか。何食べてるの?」
「豆腐、枝豆、塩焼きそば」
「自分で作ったの?」
「うん」
「そうなんだ。すごい。いつも自分で作るの?」
「一人暮らししてるから」
奏くんの部屋を想像してみる。殺風景なのか、物に溢れているのか。
わたしは赤ワインで気分がとても良い。
「奏くん、コーヒー好き?」
「好きだよ」
缶のプルトップを開ける音。それから、テレビの音が遠くから聞こえる。 

奏くんにコーヒー豆を渡そう。
今のわたしにできることは、限られている。





早朝。わたしは診療所にいる。
真っ赤な車が入ってくる。

早く来ないで。あなたが早く来る必要なんてないんだから

ぐりっとした目でわたしを見ている。

声は聞こえないのに。
言われた言葉ははっきりと分かる。


これはあの日のわたしだ。
鼓動の音が聞こえ出した。あの頃の。


アパート二階の左端。
また声は聞こえない。
誰かがわたしを見下ろしている。

あんたのせいよ。どうしてくれるの?

わたしは何も言えない。
ただ突っ立って、そこにいる。
けれど、(するど)い痛みを感じていることだけ分かる。



明け方。夢。
過ぎたことだった。

赤は好きな色。
七五三も成人式も、わたしは赤を着ている。

けれど今のわたしに、赤は必要ない。



記憶というのは、曖昧なようでそうではない。
きっとどこかに必ず残っている。
その時々に思い出されることがあって、それらがわたしを創り上げているということ。

そして痛い記憶のほうが、しっかりと何処かに刻まれていて、決して消えることはない。

忘れてはいけない。
と、いうことなのだろうか。



けれどそれは、あまりにも残酷だ。
わたしにはまだ分からない。



時が経てば形が変わっていくことを。





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