あの日々と刹那

文字数 3,185文字

スパイスを使ったパンと焼き菓子の小さな店。
時子さんが教えてくれた。
スパイスの効いたクロックムッシュと岩塩のスコーン、キャロットケーキ。たくさんあった中から選んだものを机に広げる。
独特なスパイスの風味。クロックムッシュはほんのりとスパイスを感じる。チーズの味がしっかりとして食べやすいもの。岩塩のスコーンはしっとりとして塩気があってほのかに甘い。キャロットケーキはたっぷりのドライフルーツに様々なスパイスが使われていて少し複雑な味がした。けれどバランス良く使われたスパイスは、とてもクセになる。
コロンビアのしっかりとしたコクとエキゾティックな香り。苦味と酸味のバランスが取れた明瞭な風味。




蛍さんと並んで焙煎所まで帰る。
店を出てきてからの蛍さんは、最近見始めたサイコパスな主人公が出てくる海外ドラマの話をしている。わたしは絶対に見ることのない内容。
「ほんとに面白いんだ。信じられない展開ばかりで」
焙煎所に着くと、わたしは駐車場で改めてお礼を言った。
「ミックスジュースご馳走さまでした。それに、楽しかったです」
「俺も。楽しかった。また行こうよ」
蛍さんは煙草に火をつけながらそう言って、焙煎室に入っていった。お喋りで不思議な人。
駐車場に車はもう停まっていなかった。
扉を開けるとコーヒーの香り。静かで落ち着く。
カウンター横の生花が変わっていた。
向日葵、山牛蒡、着色竹
生花の前にそう書かれた札。
黄色の可愛らしい向日葵と、涼しげな緑の葉に実がついた山牛蒡。薄く黄色に着色された竹が全体のバランスをとっている。夏が始まったことを思わせる。眩しくて明るい太陽というよりは、清々しくて温かい太陽のよう。
「いらっしゃい。古都さん。ですね」
事務所から、さっき見かけた眼鏡の男性が出てきた。マスターだ。
「はじめまして。こちらで時々、コーヒーをいただいてます」
わたしはどう挨拶していいのか分からなかった。けれど感じ良く、できたと思う。
「コーヒー。よかったら淹れます。何がいいですか?」
眼鏡の奥にある優しいつぶらな瞳。時子さんに似ている。イメージと違ったその人は、この店のマスターだとはっきりと分かった。それからあの生花を生けたのは、この人のような気がする。
dolce四番地ブレンドを淹れてもらった。マスターの淹れたブレンドは今まで飲んだコーヒーの中で、一番美味しいと本当に思った。雑味が全くない、透き通ったコーヒーの味がする。
それはわたしでもはっきりと分かった。
「マスターのコーヒー、美味しいでしょう」
時子さんとカウンターに並んで、マスターのブレンドを飲んでいる。
「美味しいです。とても。あのっ。もちろん時子さんのコーヒーも美味しくて」
「いいのよ。わたしもはっきりと思うもの。マスターのコーヒーは一番美味しいって」
時子さんは楽しそうに、笑ってそう言った。
それからはさっき来ていたお客さんの話、時子さんおすすめのスパイスを使ったパンと焼き菓子の店の場所、dolce四番地で出す予定の新作スイーツの話をしてくれた。いつも、わたしを聞く側にして、語りかけてくれる。それはわたしにとってとても居心地のいいことだった。
わたしはひとつ。気になったことを聞いてみた。
「蛍さんは、おいくつですか?」
時子さんはカップとソーサーを片付けている。
「今年、三十だったかな」
わたしは思っていたより歳上なことに驚く。
「意外。だった?そうよねえ。落ち着きないもの」
微笑んでそう言いながら、瓶詰めにしたあんずジャムをくれた。
「次は新作スイーツの試食に来てね」

帰り際、焙煎室から来たマスターに声をかけられた。ブラジルブルボン。そう言って、手渡してくれた貴重なコーヒー豆。
カウンター横の生花の前で受け取る。
「ありがとうございます。あの、この素敵な生花はどなたが?」
「わたしです。素敵に思ってもらえてよかった。いつでも、来てくれると嬉しいよ。時子や蛍が、あなたを待っている」

コーヒー豆の香りと、夏の夕方の少し寂しい空気を胸いっぱい吸い込む。今日はとても充実していた。わたしは人と関わり、必要とされて、今日を過ごしたこと。
奏くんに話を聞いてもらいたい。会うのは少し先の来週末。もう少し早くに会えないだろうか。
少しでいい。会って、話がしたい。
そんなことを思いながら夏の夕暮れの道を歩く。
自然が豊かなこの辺りを、わたしは改めて尊いと思った。

「ブラジルブルボン。すごい」
ママは受け取ったコーヒー豆を密閉容器にすぐに移して、二杯分をドリッパーに入れる。それから薄切りの食パンをトーストした。あんずジャムを乗せて、ふたりで食べる。
「美味しい。もう一枚たべようかしら。夕飯、私たちは軽いものにしましょう」
ママはもう一枚食パンをトースターに入れてから、冷蔵庫の中を確認しに行った。

調子が良いと感じる。人と話して、関わって、一日を過ごせたことが、わたしに自信のようなものを与えてくれた。
奏くんに連絡をしてみた。
−おつかれさまです。近いうち、少しでいいので会えませんか?
カップに入ったコーヒーとトーストを食べ終えて、お風呂にお湯をためるスイッチを押す。
奏くんの返信はすぐに来た。
−仕事終わるの、しばらく遅くなりそうなんだ。土曜は仕事で日曜はサッカーの試合。よかったら見に来る?屋根もあってゆっくりいられると思う。ただ、俺の知り合いに声をかけられるかもしれないけど。でも練習試合みたいなものだから、そこまで人はいないよ
わたしは少しだけ迷った。けれど奏くんのサッカーをしている姿は見てみたい。
それに、何より会いたい。
−行きます。迷惑じゃなければ
−全然迷惑じゃないよ。時間、また連絡する
わたしはもう一度、奏くんから届いた文章を読み返す。会えることになった。
とても、嬉しかった。


翌日朝。家近くの駅から電車に乗って二十分。降りてすぐにその店はあった。時子さんの教えてくれた店。わたしは気になったものと、時子さんが気に入っている、コリアンダーとチョコのスコーン、カルダモンクリームチーズマフィン、バターロールを買った。小さくて可愛らしい雰囲気で、パンやマフィン、スコーンやパウンドケーキがショーケースで売られている。所々にドライフラワーが上品に飾られていて、籠には様々な種類のクッキー。
時子さんに持って行こう。
いつものお礼を込めて。
また電車に乗って二十分。今日のわたしは元気だ。音楽は楽しくなるようなものを聴いている。

駅から五分歩くと焙煎所。
車がたくさん停まっていつもと雰囲気が違う。正面扉のガラス窓から見えるたくさんの人達。
わたしは場違いな所に来てしまったようだ。昨日感じた居心地は気のせいだった。こんなものまで買ってきて。わたしは何をしているのだろう。
「古都ちゃん?」
煙草を(くわ)えた蛍さんが、焙煎室から外に出てきた。
「今日コーヒー教室みたいなのやってんの。それ、スパイスの店の?」
手に下げた二つの紙袋。
「時子さん、しばらく行けてないって聞いて持ってきたんですけど。忙しいのに来てしまって」
蛍さんはしゃがんで煙草を吸いながら、わたしをじっと見ていた。
「そんな悲しそうな顔しないで。それ、渡しておくよ。またゆっくり来ればいいじゃん」
立ち上がった蛍さんの手が、わたしの頭に触れた。二度、ぽんぽんと優しく手を置く。
わたしはその瞬間、誰かの視線と気配を感じた。
店の前あたりに足の長い綺麗な女の人。長い髪は毛先がふんわりと巻かれている。低めのヒールに事務服。黒い日傘。
じっとわたし達を見つめていた。
それからゆっくりと近づいてくる。

「蛍。その人、誰?」



あの日、遠くに感じた焙煎所。
ここは、たくさんの人達にとっても特別な場所。わたしはその中のひとりになれた気になっていた。ほんの少し、声をかけてくれただけなのに。



刹那的でいい。
あの日々のわたしに、今のわたしならそう言ってあげられる。








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