内界と外界

文字数 2,705文字

奏くんに会える日を想い、今を生きている。
次は、どこへ行くのだろう。
何をしよう。
何があるだろう。
どう伝えよう。
何が伝わってくるだろう。

朝食に、少し温めたバウムクーヘンが出てきた。
お土産でママがもらったもの。並ばないと買えない人気のあるもので、とても美味しくて驚いた。一層一層しっかりと風味を感じられる。丁寧に作られたそのバウムクーヘンを、パナマゲイシャと一緒に味わった。どちらも貴重なものだ。ゆっくり時間をかけて口に運ぶ。ママの洗い物をする蛇口から出る水の音。それから、外の雨の音。
家の中はとても静かだ。傷つけられることのない空間に閉じ込められているという安心感。そして、心の中にずっといる奏くんの存在。
わたしの心と身体はとても安定している。



-スイーツ食べにおいでって。明日予定空いてる?
蛍さんからの初めての連絡。わたしは行きますと返事をした。
あの日。奏くんの家でしばらく眠って、夕方家に送ってもらってからもまた、わたしは眠り続けた。次の日も体が重く食欲もあまりなく、ぼんやりしていた。そんなふうに三日程過ごしてからの連絡だった。その間も、奏くんからの連絡はあって、そのおかげで自己嫌悪に陥ることはなかった。わたしのことを気にかけてくれている人がいる。それはとても自信になる。心強くて安心することができる。

淡い黄色の日傘を選んだ。今日は湿度が高くて蒸し暑い。たっぷり休んだ身体は少し重くて、ふわふわしていた。久しぶりの外は眩しい。けれど見慣れたこの辺りの風景は、わたしを優しく迎え入れてくれている。そんな気がした。
dolce四番地焙煎所に近づくと、空気が透き通っていて、深く呼吸すると、肺にたっぷりの空気が入り込むのが分かる。木々の緑の美しさと生命力。焙煎所の優しい気配。
焙煎室から流れてくる香ばしいコーヒーの香り。

扉を開けると蛍さんがいた。焙煎したばかりのコーヒー豆を白木の皿に入れているところだった。
「あ。古都ちゃんだ」
とても嬉しそうに、蛍さんはそう言った。わたしはなんだか恥ずかしくて嬉しい気持ちになる。
「おはようございます。連絡、ありがとうございました。あの、スイーツいただきに、来ました」
蛍さんは白木の皿を整えながら、今日焙煎した豆の種類や出来具合を話し始めた。わたしはそれに合わせるように、頷き、質問して、相槌を打つ。
「古都ちゃん。なんか今日、雰囲気違うね」
わたしは何も言えず、目を逸らしてしまう。奏くんとのことが思い当たるけれども。
「なんか、いつも以上に柔らかくて、ふんわりしてる。つまり、いいってことだよ。目を見てくれてるし。気持ちが伝わってくる。まあ俺は、どっちでもいいけどね。どっちの古都ちゃんも、古都ちゃんだから」
蛍さんはいつも、はっきりと真っ直ぐと、言葉にして伝えてくれる。そしてそれはいつも、わたし自身の気付きや発見に繋がって元気をもらえる。
「古都ちゃんいらっしゃい。この前は焼き菓子とパンありがとう。きちんと受け取れなくてごめんなさいね。見てこれ。いろいろあるの」
大きなトレイを持った時子さんが、出入り口の扉から入ってきた。トレイの上にはいくつかのケーキと焼き菓子が乗っている。
それから蛍さんは焙煎室に戻って、時子さんはコーヒーを淹れてくれた。さっぱりとしているけれど香り豊かなマイルドブレンドをたっぷりと。
バターサンド、カヌレ、ラングドシャ、桃のタルト、メロンのミルクレープ、和三盆のコーヒーゼリー。
「どれも一応ね、商品として出す前にいつもマスターが試食するの。まあパティシエとdolce四番地のスタッフが納得したものだから、ほぼ間違いなく美味しいんだけど。コーヒーゼリーは以前からあって、今回和三盆糖を使ったものに変えてあって」
時子さんがいろいろ説明してくれるのを聞きながら、わたしはそれらを少しずつ味わっていく。どれも素材が生かされた、優しくて奥深い味わい。甘ったるいものばかり食べてしまうわたしだけど、ここのものならいくら食べても許されそうだ。
「どれも美味しいです。特にコーヒーゼリー。以前のものは食べたことないけど。苦味と甘味がちょうど良くて、冷たくて滑らかなゼリーが今の季節にぴったりで」
「ほんと?そのコーヒーゼリー、いちばん試行錯誤したそうなの。そう伝えておくわ」
今日の外はとても暑いのに、温かいコーヒーがほんとうに美味しい。大きいけれど軽いマグマカップを両手で持って、時子さんが蛍さんの為のアイスコーヒーを淹れる手元を眺める。淹れ終えた時子さんは改まった様子でカウンター越しにわたしに向かい合った。
「古都ちゃん。もし、あなたの都合が合えばだけど。ここで働いてみない?」
わたしはマグカップをソーサーに置いて時子さんの目を見る。
「ここでコーヒー豆の販売を始めてみて、思っていたより手が足りないのよ。こんなふうに暇で、配達の準備や雑務が(とどこお)りなくいくこともあるけど、お客さんがたくさん来た日はほんとに大変で。来る日は来るのよ。そういうものなのにね。それでね、あなたしか思いつかなくて」
わたしはすぐに言葉が見つからなかった。嬉しい。でも、今のわたしにできるのだろうか。
全く、できる気がしない。
「いいね。ここで働いてもらうなら古都ちゃんだね」
蛍さんが事務所からやってきた。淹れたてのアイスコーヒーを飲む。
「週に三日くらいでどうかしら?時間は合わせるわ。でも、古都ちゃんの今をきちんと知れてないから、勝手なこと言ってるかもしれないわね」
「いえ。とても、嬉しいです。でもわたし、今、何もできなくて。うまく、言えないんですけど。だから、ここでも何もできないかもしれない」
時子さんと蛍さんは少し黙って、コーヒーを一口ずつ飲んだ。わたしは気まずくて、何をどう言えばいいか分からない。
「そういうことなら、できないことは俺がして、俺ができないことは時子さんがすればいいじゃん」
蛍さんはわたしにそう言ってから、時子さんの反応を待っている。
「その通りね。でもこれは一つの提案であって、どちらにしても今まで通りには来てほしいからね。そのことは分かってね」
時子さんは柔らかい笑顔でそう言ってくれた。
「はい。ありがとうございます」
「それと今日はこれ。パナマゲイシャ。いい具合に焙煎できた。明後日飲み頃だから」
蛍さんから受け取ったコーヒー豆は、この日もほんのりと温かかった。



ひとつひとつの出来事。
前に進んでいいということ?
怖い。たくさんのことが。
けれど、引き寄せられて生まれたこの瞬間の出来事にはきっと意味がある。


全て否定してしまっては哀しすぎる。
だから、今は信じてみよう。


与えられたこの時を。この瞬間を。




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