巡合

文字数 2,475文字

丸くて柔らかくて。
紫色と黄色のもの。
ざらざらとしてぐにゃっとしてる。
甘酸っぱくて。
噛むとほどけて口の中で溶けていく。
グミは落ち着かない時、手軽に口に含むことができて美味しい。
ガムは毎日いくつも噛む。ボトルサイズのものをストックしてある。

どちらも食べ過ぎるとよくないことはわかっているけれど。どちらも必ず持ち歩く。手放せない。


「昨日は悪かった。ほんとうにすまない」
さっきパパは、ベットで眠る、わたしの背中越しにそう言った。
昨日と違う人だ。いつもそう。
けれど、不安定になってからのわたしに、あんな事を言ったのは初めて。パパは一度もわたしを責めたりしなかった。何も言わず見守ってくれていた。心配してくれているのは分かっている。
けれど、言われた言葉を忘れることはできない。
あれからすぐ、ママが部屋からパパを連れ出した。わたしはそれから眠りにつくことができなかった、夜中(よるじゅう)
ただ目を閉じて過ごしたような感覚。ママが様子を見に部屋に来てくれたのは覚えている。

今朝、グミをベットで二袋食べた。
二人が出掛けた後、リビングに行ってコップ一杯の水を飲む。
机に小さなおにぎりがふたつ。鮭が混ぜ込まれたものと、おかかが混ぜ込まれたもの。
食べれそうなら食べてね
お皿の横にはママのメモ書き。
お米が食べたくなった。
食べてから、コーヒー豆を買いに行こう。
温かいお茶を入れた。
みずみずしい風が窓から入ってくる。
晴れた青空。
けれど山の方は薄雲がかかっている。
もうすぐ梅雨の季節。
そう思うと、憂鬱になった。
いつ呼吸を整えよう。

キャップを深く被ってイヤフォンをつける。一人で外に出る時は音楽を聞いていないと不安になる。人通りが少ないところは大丈夫だけれど。それでも、耳を塞いでおかないと落ち着かない。
気に入りの淡い青のワンピース。ゆったりしたカーディガンを羽織って、白のスニーカーを合わせた。わたしはワンピースが好きだ。全身に優しく馴染んで、一枚だけで華やかになれる。
身につけるものは大事だ。
やるべき事へ、前向きに導いてくれる。

焙煎所は普段あまり歩かない方面にあった。それでも近所に変わりない。
きっと迷うことはないはず。
日陰や人通りの少ない道を選んで歩く。
平日の昼間はどこにいても何をしていても静かに感じる。

疎外感。それは結局、いつもわたしの側にいる。

見えてきた建物は三階建ての大きな住宅だった。
駐車場は五台分あって、三階の建物の横に平家作りの建物が繋がっている。どちらもコンクリート壁でできていて、周りには様々な種類の常緑樹が植えてある。それぞれの美しい緑の葉がそよそよと揺れて、木々の息吹を感じる。
空気がとても美味しい。
正面横の階段を上がった所に、家の玄関扉のようなものが見えた。正面には両開き扉があって、扉横のプレート看板に「dolce四番地焙煎所」
わたしは少し重みのある扉を開けた。
コーヒーの香り。
濃くて深くて。軽やかで華やかな。
石畳の床。奥にはどっしりとした木目のカウンター。入ってすぐには重厚感のある机。そこに様々な種類のコーヒー豆が白木のお皿に入ってある。
ブレンド、モカ、マンデリン、エチオピア、グァテマラ、タンザニア、パナマ、、。十種類以上ある。
「いらっしゃいませ」
小柄で、つぶらな目をしている。ウェーブのかかった長い髪。女の人がカウンターの奥から出て来た。ママより少し年上くらいだろうか。
「コーヒー豆をいただきたくて」
女の人はコーヒ豆の並ぶ机の前で立ち止まる。
「深煎りと浅煎りどちらがいいかしら。さっきできたばかりのマンデリンは深みがあって美味しいの。酸味が強くて香りが平気ならエチオピアをおすすめしたいけれど」
そう言って胸の前で両手を合わせてにっこり笑った。わたしは安心する。この空間に。この人に。
「おすすめのもので。その。マンデリンとエチオピアを二百グラムずつ。豆のままで」
女の人は頭を下げて、その場から離れてしまった。お待ちくださいと言い残して。
上品な生花がカウンター横に飾ってある。季節を感じるような。愛らしい。わたしは詳しいわけではないけれど。生けた人はきっと、真心のある人。それが伝わるような。
「お待たせしました」
dolce四番地の紙袋にコーヒー豆が二袋。
柔らかな笑顔で手渡してくれる。
「ありがとうございました」

わたしは重みのある扉をあけた。外に出ると、男の人が大きな茶色のプラスティックの容器をいくつか壁に立てかけている。
上下無地の黒い服。細身でとても髪が短い。目鼻立ちがくっきりとして短い髪がそれらを強調させている。綺麗な顔。
目が合うと、男の人は無表情で会釈した。わたしも軽く頭を下げる。
雰囲気のある人だ。少し年上くらいだろうか。

受け取ったコーヒー豆の袋からいい香りがする。気分がいい。ここから少し歩くとある、ショッピングモールまで行ってみよう。そこでしか売っていないボディクリームがずっと欲しかった。
それだけ買って帰ろう。
きっと今日は大丈夫。
駐車場が広くて映画館も入っている。数年前にできて、まだ新しい。久しぶりに来た。目的の店は二階の真ん中あたりにあったはず。

店内に入ると人集(ひとだか)り。
子供の声が聞こえて、楽しい音楽が流れている。

人間がたくさんいる。

わたしは体がふわっとするのを感じた。
それは足のつま先から頭の先まで感じる浮遊感。
目に見えるものが霞む。
体の細胞が小さくなってしまったような息苦しさ。
近くの壁に手をついてその場にしゃがみ込んだ。
呼吸をうまくしなければ。
混乱してしまう前に。
どうしよう。


「大丈夫ですか?」
知らない男の人の声?
けれど初めて聞いたわけじゃない。

見上げると、見覚えのある黒い大きな瞳と目下のほくろ。凛々しい印象の顔つき。
(かなた)、くん?」

「古都?」


小さなわたしは、手を引かれて初めての小学校に行く。ほとんど前を見ずに、辺りを見渡しながら、手を引かれる方へと歩いて行く。
何の迷いもなく不安もなく。
遠い記憶を思い出す。
視線の先に奏くんが待ってくれている。
けれど手を繋いでくれているのは?



呼吸が少し整う。
大きな手がわたしをしっかり支えてくれていた。




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