最期と始まり

文字数 2,124文字

梨は果物でいちばん好き。
みずみずしくて優しい甘さ。
小ぶりなものはまるまるひとつを必ず食べる。
パパが決まったところで毎年買ってくる。
ビニール袋にたくさん入っていてどれも必ず甘い。
外はとても暑そうで、わたしはしっかりと冷えた梨を食べながら、家の中でぼんやりとしている。
今すぐ、奏くんに会いに行くことができればいいのに。
そのことばかり、考えている。




少しずつ落ち着いたわたしは、奏くんの手を握って目を閉じている。車内は静かで涼しくて快適。
「家まで、送ろうか?」
まだ、このままでいたい。
「それか、うちに来る?」
わたしが何か言う前に、そう言ってくれた。わたしは頷いて、握ってくれている手を握り直す。

二階建てのまだ新しいアパート。
奏くんの部屋はその二階のいちばん左端だという。
「お邪魔します」
玄関にはスニーカーの空箱がいくつかあって、天井まである靴棚にたくさんのスニーカーが並べられていた。短い廊下を進むと、テレビとソファ、机のシンプルな空間。清潔感がある。けれど畳まれてない洗濯物がそのままだったり、ゲーム機が広がっていたりする。リビングの隣は寝室のようで扉はなく、ベットとクローゼットが見える。
「少し落ち着いたみたいだな。ソファ使って。タオルケット持ってくるよ」
足がゆったりと伸ばせるネイビーのカウチソファ。肌触りの良いタオルケットを手渡してくれた。
「眠ってて。シャワー、浴びてくる」
ソファーに腰掛けて、体をゆっくり倒す。
頭痛がする。手と口が痺れている。
でもここは、とても居心地がいい。
少し眠れるといい。
けれど、動悸がして眠れそうにはなかった。
シャワーの音が聞こえてきた。
エアコンの効き始めた心地良い空間。
わたしは目を閉じて、自分の鼓動を聞いている。

うとうとと、しばらく浅い眠りの中にいた。

目を開けると、髪を少し濡らしたままの奏くんが側にいた。
わたしは手を伸ばしてみる。
また、あの温もりを感じたかった。
大きな手が、また、頼りないわたしの手を包み込んでくれる。
鼓動の音が小さくなっていく。
こんなにも作用があるなんて。
「安心する」
奏くんは静かに頷いて、少し照れた様子でわたしから目を逸らした。
こんなふうに、奏くんを特別に思う日がくるなんて。
わたしは歩くんを想っていた幼い自分を思い出す。それから何度か恋をしたことも。でも、そのいくつかの想いと何か違うものを感じる。
だから、きちんと知りたかった。
「奏くん。歩くんのことを聞いてもいい?」
少し見開いた目。視線が合う。
「去年だったことしか知らなくて」
奏くんの視線が握った手元に向けられた。
「仕事帰りの高速道路で、単独事故を起こした。病院に運ばれて間もなく死んだ。でもたぶん、自殺だった」
わたしは、胸の奥がぎゅっとなるのを感じる。
「歩が高校卒業して大学行き始めてから、全く会ってなかったんだ。母さんはその頃再婚することになって、俺も専門学校に行くことになって。それぞれで生きてた。結婚したことも電話で聞いた。久しぶりに会うと、死んでた」
何も言えず、奏くんの言葉を待つ。
「葬式に行くと、奥さんと小さな子供が二人もいた。信じられなかった。ただ、今となっては、ずっと歩は苦しんでたのかもしれない。そう、思う」
わたしは手を繋いでいないほうの手で、自分の胸の鼓動を確かめる。また少し、早く鳴っている。
「歩はいつも、完璧だった。周りの人を大切にして、家族を大切に思っていた。それだけは覚えている。何かあったのかもしれない。でも、少しずつ何かが、積み重なっていたのかもしれない。何も分からないままなんだ」
哀しそうな目。大きな背中が、いつもより少し小さく見えた。
わたしはその背中に、今すぐ、触れたくなった。
「ぎゅってして、くれないかな」
迷いなく、気づけばそんなことを言っていた。
奏くんは一瞬驚いた表情をしてからすぐ、わたしの隣に座って、静かにゆっくりと、包み込んでくれた。
体温、匂い、気配。
とても近くで感じる奏くんは、想像していたよりも、もっと大きな存在だった。
わたしは幸せでたまらなくて、広い背中に腕を回して力を込める。頬を胸にあてると奏くんの鼓動がはっきりと聞こえた。
「一緒にまた、歩くんに会いに行きたい」
奏くんの右手が、優しく髪に触れた。
「古都。大切にするから。一緒にいてほしい」
嬉しくて。
ただ、嬉しくて。
呼吸が正しくできている。
深くしっかりと。
胸いっぱいに空気が取り込まれている。
「うん。わたしも奏くんと、一緒にいたい」
力を込めて、けれど優しくまた、抱きしめてくれた。
「歩のとこ、また行こう。今は少し眠ったほうがいい」
奏くんの気配を感じながら目をまた閉じてみる。
わたしは体の疲れと安心感で、それからすぐ、眠りにつくことができた。



歩くんはどんなことを感じ、考え、思い、戻れなくなってしまったのだろう。
それを分かることはもう誰にもできない。

わたしは歩くんが望んでしまった場所に、何度か行きたいと思った。
でもきっとわたしは、まだ知らずにいられた。
ほんとうにその場所を求めてしまう心と身体を。


こんな日が来るなんて。
けれどそのうちわたしは、気づいてしまう。
幸せで。
不安で。

それが途方もなく繰り返されることを。

始まりには終わりがあることを。




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