心安

文字数 2,198文字

エチオピアは花のような香りがした。
エチオピアイルガチェフェ。
それは、飲むとさわやかな酸味があって、独特の香りが鼻から抜けていく。透明感のあるその余韻を求めて、また一口飲んでしまうような。
わたしはそれと一緒にショコラタルトを食べた。しっかりと厚みのあるタルト生地の上に濃厚なショコラケーキ。ショコラクリームに薄い板状のチョコレートが何層にもなっている。フォークを入れると、ぱりっとしてさくっとした。
口の中は濃厚なショコラ風味と花の香りが広がり続ける。



奏くんはわたしが落ち着くまで隣に座っていてくれた。何も言わず、右手を背中に優しくあてて。
奏くんの左手を見つめる。綺麗に整えられた清潔な爪。けれど黒っぽい汚れが染みついているよう。インク?なんだろう。
そんなことを考えながら、わたしはハンカチで口を覆い呼吸を整えようとしてみる。ハンカチには、気に入りの香りミストをつけてある。息苦しくなった時にこれがあると安心だ。
人混みを避けた外のベンチでしばらくそうしていた。
とても久しぶりなのに。
こんなに近くにいるのに。
不思議な感じ。とても安心する。
買ってきてくれたペットボトルの水を飲む。
「ありがとう。もう大丈夫そう。久しぶりに会ったのに。なんていうか、ごめんなさい」
わたしは俯いたままそう言った。
「ほんと久しぶり。また会えるかもしれないって思ってたけど」
奏くんの顔を見上げる。
男の人になった奏くんの横顔。
「去年、あの整備工場に帰ってきたから」


わたしが五歳になる年の春。今の家に引っ越してきた。奏くんはその隣の家に住んでいた。
お父さんは小さな整備工場を経営していた。わたしのパパと仲良くなった。お母さんとママも仲良くなった。家族同士でよくご飯を食べた。わたしは奏くんと、(あゆむ)くんに遊んでもらった。わたしの三つ年上の奏くん。奏くんより一つ年上の歩くん。
歩くんは穏やかで優しくて。
わたしの初恋の男の子。
でも二人が中学生になってから、二人の家の中は状況が変わっていった。わたしが小学校を卒業した頃離婚したのをきっかけに、隣の家は誰もいなくなってしまった。
あの頃奏くんは中学を卒業した。それから歩くんと三人、お母さんの実家がある都市部の方へ引っ越してしまった。
わたしは悲しい気持ちになった。
気づけば少しずつ遠くに行ってしまっていた幼馴染達。



「奏くんに会ったのね」
ママは同じエチオピアコーヒーを飲みながら、ラムレーズンタルトを食べている。
外は雨が強く降っている。変わりやすい空模様。ここ最近ずっと。昼間は晴れていたのに。
「でもよかった。奏くんが古都を見つけてくれて。あまり無理しないようにね」

あれから奏くんは車で送ってくれた。
帰る頃、雨が降り始めていた。静かな雨。
車高の高い黒い車。シートはふかっとして乗り心地よかった。たった数分で家に着いた。車の中では何も話さなかった。
「あの、ありがとう」
車から降りたわたしは、窓越しにそれだけは伝えることができた。奏くんは運転席で少し微笑んでから帰ってしまった。
もう少し話がしたかった。
うまく話せる自信はないけれど。

「古都。マンデリンも飲んでみようか?」
電動ミルメーカーにマンデリンの豆を入れていくママの手元。一瞬で粉々なったコーヒー豆をドリッパーに入れた。
玄関チャイムが鳴る。
「誰かしら。何も宅配予定はなかったはずだけど」
コーヒー豆の袋を閉じて、ママは玄関扉を開けに行った。わたしは誰が来たのか、玄関側が見える窓から外の様子を(うかが)う。

黒い車?

「古都っ。奏くんが来てくれてるわよ」
わたしは驚いて、自分が部屋着だということにさらに驚く。
玄関まで行くとさっき会った奏くんがいた。
「これ、ブルーベリーですって。拓海(たくみ)さんが持って行くようにって」
ママはそう言って、奏くんのお父さん、拓海さんがくれた、ブルーベリーの入ったパックを二つ持ってキッチンのほうへ行ってしまった。
わたしは奏くんの立っている、玄関ポーチに出て玄関扉を閉めた。
(ひさし)が雨をしっかり遮ってくれている。
「顔色、良くなったな。それとこれ。ポップコーン」
奏くんはポップな透明袋をわたしに手渡した。中にはキャラメルポップコーンと小さなプレッツェルが入った紙箱。ショッピングモールの映画館で買えるものだ。
「映画を見てきたの?」
「いや。古都、キャラメルポップコーンいっぱい食べてただろ」
奏くんは表情を変えず、わたしの目をじっと見る。わたしは思わず笑ってしまった。
「いっぱい?だったかな?映画見るときは、食べてたけど。これだけ買いに、映画館、行ってくれたんだ」
「うん。それと、連絡先教えて」
わたしはただ嬉しいと思った。こんな鼓動の音は久しぶりだ。それに嬉しいと思う気持ちも。

奏くんは連絡先を交換すると帰って行った。
「じゃあ。また」と言って。
リビングに戻ると、マンデリンのコーヒーをママが淹れ始めてくれていた。
「よかったわね」
ママは、ふんわりと泡立つコーヒー粉を見ながらそう言った。
「うん」
いい香りが漂う。エチオピアとは全く違う、コーヒーの濃い香り。濃いしっかりとした茶色。一口飲むと奥深いコーヒーの味わい。
ママはキッチンに立ったままその奥深い味のコーヒーを一口飲んだ。

「歩くん。去年亡くなったそうよ」

わたしは胸の奥が(きし)むのを感じる。
奏くんに会えたなら、いつか会えると疑わなかった、歩くん。



与えられた生命の終わりは、決まっているものなのかもしれない。



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